小説はほとんど読まないのだが。
2019/01/13 01:53
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投稿者:くりくり - この投稿者のレビュー一覧を見る
小説は、ほとんど読まない。だから、本書に紹介されているものも、数冊しか手に取ったことはない。とくに、純文学系は読まない。ポストモダンの時代に本を買って読める年代になったからかも知れない。「いったい、なにいってんだか?!」、抽象に過ぎたり、作家の心の内であったりする物語は、その作家のフィルターを通してしか私には理解できない物が多かった、共感できなかったり、しかも情勢に疎かったりしたからかも知れない。今読めば違うかもと本書を読んで思うが、しかし、本書の解説の通りなら、ポストモダンものは、多分読まないな。
なのに、なぜ、本書を手に取るのか。それは、これまでの斉藤美奈子さんの書評に「はずれ」がほとんどなかったからだ。斉藤さんが「よし」と評価する物は、「いったいなにいってんだか」とはならない、私は。
それと、私が小説を買うきっかけの一つに、その小説家が小説以外でどういう発言をしているか、その発言に共感できるかどうかも基準だ。
それを言えば、私は斉藤さんの時評も共感できるので、だから斉藤さんの「よし」で斉藤さんの書く物を買っている。だから、小説はほとんど読まないが、本書を買ってみた。
日本の現代小説を解説した物はこれまで1960年代までの物だったそうだ。だから本書は1960年代以降の小説、作家を取り上げている。年代、情勢によって小説の特徴が異なることに改めて気づきを得た。とくに、私の記憶に新しい、東日本大震災以降の震災を取り上げた小説の紹介と変化、また、失われた20年と呼ばれる経済が失速する中での労働者の取り上げか他の変化が面白い。戦前はプロレタリア文学というジャンルがあった。例えば「蟹工船」。斉藤氏の解説によると、労働の現場の記述はほとんどない。小林多喜二がおそらく、思想的な動機で書いた物だからなのだろう。現代のプロレタリア文学は、働く現場のリアルが描かれている。斉藤氏は意外な形で、廃れたはずの私小説、プロレタリア文学が形をかえ生き延びている。また、時代を反映して少女達の活躍が表わされ、国家論も展開されているという。各所の解説を読むとそうなのかなとも思う。
私小説の系譜を小説と思っていたが・・・。嫌わないで、小説読んでみよう。
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あくまで小説を読むためのブックガイドとして。
しかし半世紀を通覧する文学史は、著者の軽やかな文体に支えられて展開していて、それ自体読んでいて楽しくなる。
とりあえず何冊か読みたい本を見つけた。
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秋の新刊ですぐ買ったのに積読のまま年を越してしまい、新年の読書はじめの一冊に。
年末の読書欄近況によるとこの書き下ろしのために一年かかりきりだったという渾身の同時代文学史。作品の本質や値打ちを見抜く目は当代随一かつおもしろく読ませる筆力も天下一品の著者だけに、よく整理されており読みやすく、1960年代からの50年の小説作品を通してその時代の空気を知り、また時代ごとの社会状況から文学を知ることができる。
この本をとっかかりに読んでみようと思える作品がぞろぞろ出てきてしまう危険な読書案内ともいえる。
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確かに国語の授業では文学史を習ったわけで、だから読んだこともない作家や本のタイトルを覚えていたり、あらすじまで知っていたりする。読んだことないのに!
でも文学史はどっちかっていうと文学の歴史というか昔のことを学ぶわけで、自分が生きてきた時代とか読んできた本のことをこうしてまとまった形で時系列にしてくれたものって新鮮です。さすが斎藤美奈子。読みやすいし相変わらずキレのある文章。
しかしこれだけたくさん紹介されてるけど、読んだ本なんてほんの一握りだな。。。これをブックガイドにして来年はもっと読もっと。読んだことないのにあらすじ知ってる本が増えても自慢にならんし。
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ざっと1冊の本でまとめてくださったのがうれしい。
もっと細かく書かれたものも読みたい。
大好きな斎藤美奈子さんの本だが、この頃新刊キャッチ力が衰え、上野千鶴子さんが褒めておられて、え、そんな本出たんだと知った。
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1960年代以降の日本小説史を10年ごとに区切って紹介する。前書きにあるように明治以来の小説の歴史は中村光夫が纏めており、その続編を意識したらしい。あまりにも多くの作家が登場し、その代表作の訴えるもの、世に与えたインパクトを列挙していくが、著者の整理力には感服する。10年ごとの集約は圧巻である。60年代は知識人の凋落、70年代は記録文学の時代、80年代は遊園地化する純文学、90年代は女性作家の台頭、2000年代は戦争と格差社会、10年代はディストピア社会を超えて。考えてみればヤワなインテリが主人公の小説は60年代までは主役だったことを忘れていたほど、思えば遠くへ来たもんだの心境である!巻末には349名の登場する作家名が並ぶ。時代を反映した小説の数々は未読のものが当然ながら未だ多い。ぜひチャレンジしたい。
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新聞の新刊広告をみて即日購入。斎藤美奈子の視点は好きなのだ。1960年代から2010年代まで、時代の空気がこうで、だからその時代にこの文学が生まれた、とまんべんなく文学書を解説。わりと普通な感じで期待した毒舌感はあまりなかった。
2018.11.20購入
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読了:2018/12/24
斎藤節は健在なのだが、出来るだけたくさんの作品を見ていくためなのか、一つ一つの作品評が短くて物足りないなぁと思った。もっとバシバシ斬ってほしい。
とはいえここまできれいに1960〜2010年代の文学史を整理し切ったのは見事な偉業と思う。
p. 6 近代小説の主人公が「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」ばかりなのは、近代の男子にとって人生の目標は「立身出世」。そんな時代に「文学を志す」とか「作家を目指す」とかは、ほぼドロップアウトを意味する。彼らの中には、自分は出世コースには乗れなかったという劣等感と、自分はそこらの俗物とはちがうという尊大な反抗心が宿る。屈折した性格は当然主人公にも感染する。
p. 71 「人生経験の少ない若い作家の多くは青春小説でデビューしてきます(それしか書くことがないからです)。」
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新書編集者は「みんなの〈同時代文学史〉」と帯文句に書いているが、著者の主張としても、客観的にもそうではないということは明らかであり、編集者の勇み足というべきだろう。
「文学史」と銘打ったならば、日本思想史に近づいてしまうのは、加藤周一「日本文学史序説」を読むまでもなく運命であり、だからこそ、世の研究者は同時代文学史を書くのを避けて来た。しかし、70ー90年代がもはや歴史として語られ出した今、こういう本が出るのは、時間の問題だったと思うし、その第一弾としては誠実なものだったと思う。
西欧小説とは独自路線を貫いて来た「私小説」の伝統が、60年代から否定されて、変形し、綿々と続いていること。プロレタリア文学が、否定されつつも、推理小説やお仕事小説の中で、見事に復活していること。左翼の否定から始まり、会社人間を否定し、男の論理を否定し、凡そその時代を代表する多くの権威を否定しながら世代交代してゆく小説家の姿は、そのまま戦後史の世相史と重なり、多くの示唆をもらった。一方、その表面の変化の底で蠢いている地殻の変動や全体を俯瞰する視点は、ここでは書かれない。そこまでは新書では扱えないし、そもそも文学史ではない以上無理があるだろう。
びっくりしたのは、思った以上に私は60ー80年代の小説を読んでいた。あの頃は有名文庫を追うだけは追っていた。それでまだ基本的な流れは把握出来ていたのだ。でもそのあとは無数の支流に分かれる。著者は、「女性作家の台頭」「戦争と格差社会」「ディストピア」とひとくくりにしているが、果たしてそのくくり方が正しいのか、私には評価出来ない。細かい処では、いろいろ示唆を貰った良書である。
2018年12月読了
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自分は1973年生まれの45歳。
物心ついたころから本に親しんできました。
初めて自分で買って読んだ小説は、赤川次郎の「三毛猫ホームズ」シリーズ。
小学校高学年のころだったと思います。
それから現代文学を中心に読み漁ってきました。
傾向としては、純文学が多かったように思います。
ですから、今まで読んできた小説とそれを著した作家を、しっかりと時代に位置付けて俯瞰してみたいという欲求がありました。
ただ、夏目漱石や森鴎外など近代の小説の歴史をひも解いた本はあっても、自分が読んできた小説をカバーする本はほぼありませんでした。
概ね70年代から現在までに発刊された小説です。
本書はまさに、この時代に発刊された小説のガイドブック。
昨年末に読書欄で本書のことを知り、すぐに購入しました。
それに何と言っても斎藤美奈子さんですからね。
まず外さないという自信がありました。
読後、自信は確信に変わりました。
私がこれまで読んできた小説が、時代背景も含めて解説されているのですから、面白くないわけがありません。
大げさに言えば、それはまさしく私のこれまでの人生です。
ただ、本書を読んで分かりましたが、自分はほぼ10年遅れで現代小説を読んできたようです。
たとえば、龍や春樹を読むようになったのは、彼らが登場してから10年前後経った1990年代。
90年代の純文学シーンをリードした笙野頼子や松浦理英子らを読むようになったのは2000年代です。
2000年代から時代に追い付き、綿矢りさや金原ひとみは、芥川賞受賞が衝撃的だったこともあってすぐに読みました。
吉村萬壱、小川洋子、重松清、赤坂真理、絲山秋子、古川日出男、角田光代、阿部和重、柳美里、吉田修一、三崎亜記、伊坂幸太郎、長嶋有、舞城王太郎、平野啓一郎、川上未映子、三浦しをん、中村文則、村田沙耶香、白岩玄、羽田圭介、朝井リョウ……このあたりは結構好きで読みました。
あと私淑している町田康ね。
ただ、結構取りこぼしも多く、恥ずかしながら恩田陸は未読ですし、「ろみたん」こと川上弘美も実はまだ……。
あと、絶対、自分に合うはずと思っていながら読んでいないのが星野智幸ね。
いつかタイミングが来れば読むことになると思いますが。
この種の本でページを繰る手が止まらなくなるのは、やはり著者の手腕によるところが大きいと思われます。
たとえば、
「ポストモダンの時代を見てきた現代作家の手にかかると、歴史も過去の文学もみごとに『脱構築』されてしまう。古民家がカフェに生まれ変わるようなものでしょうか。」(165ページ)
とは、言い得て妙だと思いませんか?
著者独自の分析にも納得させられました。
たとえば、渡辺淳一「失楽園」、片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」、百田尚樹「永遠の0」が爆発的に売れたのは、その直前に大きな震災や戦争があったからなのだそう。
「『無意味な死』『大量死』の後には『意味ある死』『小さな死』『美しい死』の物語が求められる。」(203ページ)
極め付きは終盤です。
ライターの飯田一史が、震災後文学は「被」の文学に終始し、その先を示していないといった趣旨の問題提起をしたのを受けて、著者はこう書きます。
長いですが、引用します。
「これは震災関連小説に限らず、純文学全般に当てはまる傾向です。
なぜ文学は『その先』を示せないのか。私が立てた仮説は二つあります。
ひとつは『純文学のDNA』とでもいうべき性癖です。
明治二〇年代、近代文学が『ヘタレな知識人』『ヤワなインテリ』からはじまったことを思い出してください。ふて腐れたまま二階に上がって、二度と階下におりてこなかった『浮雲』の内海文三、結婚する美彌子を呆然と見送るしかなかった『三四郎』。あの性癖がいまもどこかに残っている。純文学はショックに弱い。もともとが敗者、弱者の芸術だっただけに、呆然と立ち尽くす以外の術を知らないか、あるいは問題の解決を先送りにしたがるのです。
もうひとつは小説の形式上の問題です。
純文学とエンターテインメントの大きな差のひとつは『終わり方』です。エンターテインメントは閉じた結末(クローズドエンディング)を好みます。ハッピーエンドであれ、バッドエンドであれ、伏線をすべて回収し、事件に白黒をつけ、謎に解を与えて納得させ、読者をすっきり日常に戻す。これがエンタメの流儀です。それに対して純文学は、開いた結末(オープンエンディング)を好みます。事件は解決せず、主人公は宙づりにされ、謎は謎のまま残り、不安な空気を残したまま、テキストはプツリと終わる。するとなんだか余韻が残って『文学らしさ』が醸成されます。問題解決能力の高い人物は、純文学の世界ではたいてい悪役か、もしくは軽蔑すべき俗物です。純文学は安易に人を救わないのです。」(258~259ページ)
思わず膝を打ちましたよ。
座右の書にします。
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さすが美奈子オネエサマ、ズッパリ切り込みつつも読者を小説の世界に誘い込む仕掛けがふんだんに盛り込まれている。読みたくなった本が多数、困った。
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1960年代から2010年代の小説がどうであったから、そして、今後日本文学はどのように向かうのかが示唆される。
帯に、「きっとある!あのとき、あなたが読んだ本」の位置付けが良くわかり、現代の小説を全体的に理解できる著書である。
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60年代以降の日本文学史ということで、私はまあまあリアルタイムで読んできているものが多く、臨場感モリモリだった。
しかしこれだけ多岐多彩に渡る作品群を、まずはもちろん読み、明解に解析し、グルーピングする手腕はさすが。
こうしてみると、私小説や不倫小説のめった斬りは爽快だし、フェミニズム文学もうまく網羅しているし、偽史が意外と多いというのも納得。
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世に出ている近世(明治)以降の文学の解説本の多くは、60年代の横光利一・石原慎太郎・開高健らで終わっている。著者はその後の文芸の歴史をきちんと解説した書が見当たらないとことに奮起し、筆を執る。カバーする範囲は1960年代〜2010年代までの約60年。我々が生きてきた“同時代”の「性格」を文学で探っていく。
印象深かったのは、文芸評論家の蓮實重彦の考察。70年代半ば〜80年代を代表する小説の「羊をめぐる冒険」「コインロッカーベイビーズ」「枯木灘」「吉里吉里人」「裏声で歌え君が代」「同時代ゲーム」は全て同じプロットの物語である。「依頼」→「代行」→「出発」→「発見」という経過を辿る構成であると喝破。
それを受けて著者は、近代文学と現代文学の差異を絵画を例に挙げ分析する。近代文学が、ミレーやコローのような写実画とすれば、現代文学はピカソやカンディンスキーのような抽象画に当たる。ピカソのデッサンを非難するが、それは旧来の写実的画法では描けないとピカソが考えたからにほかならない。
かつて文芸界で飛び交った「人間が描けてない」という批判は80年代以降には効力を失った。現代文学はそもそもそれまでの小説の意味や技法に疑問を抱いたところから出発している。その代表格が、高橋源一郎・島田雅彦・田中康夫らである。確かに各氏の処女作は物議を醸した。
この様に小説は時代を斬り、時代が小説を産んだと言える。本書には、約300篇もの小説を10年単位で区切り、当時の時代の空気をすくい取りながら、簡潔な解説の中に時に容赦のない筆誅を下す。
すっかり廃れたと思っていたプロレタリア文学や私小説がその形を時代の器に合わせ変容し生き延びていたり…同時代の文学を鳥の眼と虫の眼のデュアルレンズでもって、昭和~平成の世相史が学べる副産物もある労作。
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最近50年の日本の小説の流れを時代・作家・作品とともに語る。60年代・知識人の凋落、70年代・記録文学、80年代・遊園地化、90年代・女性作家の台頭、00年代・戦争と格差社会、10年代・ディストピアを越えて。
あの小説をそんな風にまとめるなんて、そんな表現してよかったなんて。評論家ってすごい。こうして概観すると、流れがあったのだと見えてきます。