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長い講義録でも一瞬も飽きない。断片知っていた知識が繋げられ、そこに新たな知識が注ぎ込まれていく感覚は、快感だとすら思われ、その爽快さにその長さなど忘れてしまう。
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様々な学問の中でも、19世紀~20世紀になってそのディシプリンが確立された社会学は、比較的その歴史が浅い部類にあたる。しかし、歴史が浅いという点は、その学問自体の重要性とは何も関係がない。むしろ、近代において、社会学という学問がなぜ発達したのか、そして社会学とはどのようなイシューをその固有主題として成立したのか?、というごく自然な疑問に答えるのは実はなかなか難しい。
本書は、一つの学問史としてなかなか統一的なパースペクティブを描きにくい社会学の歴史にターゲットを当てた一冊である。本書では社会学固有の主題とは「社会秩序はいかにして可能か?」という1点にあることが提示された上で、社会学の始祖たるマックス・ウェーバーを中心に、社会学前史としての社会契約論やマルクス・エンゲルスらの存在と、20世紀社会学の代表格であるパーソンズやルーマンなどの学説が、大澤真幸の講義調のテキストで解説される。
近年は”歴史”に対する意識が極めて強い大澤さんの近年の本の中でも、比較的読みやすく、かつ社会学に留まらない人文社会科学の歴史を振り返る点で非常に面白く有益な一冊。
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1 社会学の誕生―近代の自己意識として
2 社会の発見
3 システムと意味
著者:大澤真幸(1958-、松本市、社会学)
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2ヶ月半くらいかけて読んだ。ということは、前半というか、5分の4くらいまでは何が書いてあったか全く記憶にない。とはいえ、ヴェーバーあたりまでは、読んでいてなんとなくわかった気分になっていた。2次方程式が自己言及であるなんてハッとさせられた。(スペンサー=ブラウンの本も読んだはずだけど。)ところが後半は苦しかった。読みながら、ふと気が付くと意識がなかったりしていた。で、結局は、残っているのは最後の数ページだけ。このところ、ツイッターからの情報が多いのだけど、山本太郎はソフィストなんだろうか。それともパレ―シアの人なんだろうか。山本(僕にはどうしてもメロリンキューにしか見えない)が演説で聴衆の心をつかむのがうまいということで、ヒトラーだという人がいる。しかし、ヒトラーは演説がうまかったのかもしれないが、演説の上手い人が皆ヒトラーになりうるなんて論理は成り立たない。ですよね。単にレトリックが上手というのと、本心で語っている人とはどう見分ければいいのだろう。直感だろうか。ならば直感を鍛えないと。それからやっぱり偶有性。たまたまそうだったのかもしれないけど、やっぱりその裏には何か縁のようなものを感じずにはいられない。今日の天声人語にもゲンかつぎの話が出ていた。この、必然と偶然と偶有ということば、能動と受動と中動に対比できたりしないのだろうか。なんか、そんなことをモヤモヤ考えながら最後の数ページを読んだ。まあ、社会学者の中ではどういう人たちに注目すればよいのか、その流れはつかめたような気がする。この中に、日本人はほとんど入らないのだろうか。見田宗介が少し出てきたくらいしか記憶にない。これが物理学史なら、ボーアやハイゼンベルグなんかといっしょに、長岡、仁科、朝永、湯川、坂田、南部・・・なんて名前が出てくるのだろうけどなあ。
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新聞広告をみてビビっときて、書店で手に取ってまたビビっときた1冊。期待通りに面白かった。単に社会学の歴史と人物を羅列的に紹介するのではなく、その時代になぜそういう考え方が出てきたのかという点を大きな歴史の流れの中で整理して教えてくれるのと、それぞれの理論について、著者なりのかみ砕いた解釈により、身近な事象に置き換えて理解させてもらえるので、とても腹落ちしやすかった。特に、マックスウェーバーの理論の切れ味については、あらためて感じ入った。ただ、現代の社会学については、元の理論が少し細かい点に入りすぎているためなのか、自分の中で整理して考えることが難しかった。
学生時代、社会学専攻でしたが、当時、こういう本があれば、もっと包括的に社会学をとらえることができただろうに。これからも折に触れ、読み直したい1冊です。
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社会学史というテーマで社会学の学問領域の全てをわかりやすい語り口調で網羅した名著。
法は普遍化された犯罪。進化論はそういった社会だからこそダーウィンは辿り着いた。貨幣への信仰にも比せられる無意識の執着。社会学史の中のフロイト。神強制と神奉仕、西洋の合理性。ニューカムのパラドックス。個人の意図や意味付けとは違った水準で社会現象が生じるという説明→社会の発見。責任倫理。パーソンズ、動機指向⇄価値指向、構造ー機能主義。アローの不可能性定理。トマスの定理を理論的に精緻化すると意味の社会学になる。オートポイエーシスの理論。
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社会学の入門書としてはちょっとハードルが高いけど、一回いろいろさらった人が読むとものすごくわかりやすい。
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分厚かった、、
「社会秩序はいかにして可能か」「社会秩序はなぜ可能か」というのが社会学の主題。そのキー概念は「偶有性」ということが、とてもよくわかった。
フーコーとルーマンの類似点、すなわち言説/コミュニケーションの偶有性という弱さを克服する権力/オートポイエーシス的分化社会システムを、ユダヤ教におけるユダヤ人の弱さと一神教に見たのは、すごい!と思った。
「偶有性の弱さ」で私がイメージするのは、「今日何食べたい?」「なんでもいいよ」である。複雑な可能性を前にして、「なんでもあり得る」と我々は言われると、途方に暮れてしまう。そんな中で「これをせよ」と言ってくれるのが、生権力であり、社会システムなのではないか。
フーコーにおける生権力とは、監視を通して内面化された権力である。私はこれは、主体に対しては、フロイトの超自我と同じだと思っている。そしてこの超自我の成立が、告白する者としての主体の条件であると。超自我は途方にくれる我々をべき論で方向づけてくれる。
(ところでフーコー後期の「自己への配慮」に関して、そこで配慮される主体は結局生権力の結果としての主体と同じであり、生権力への反抗の拠点としては成り立たないのではという主張があったが、むしろ私は生権力の権力者の遷移こそが重要なのではないかと思った。すなわち、外部からの監視による主体の束縛から、自己の配慮による、自らによる自らの監視による束縛。「誰かに縛られるくらいなら俺が縛る」という、権力そのものではなく権力者への反抗。そこでは、自由を束縛する権威を行使するのも自分という意味の自由があるのではないか。)
ルーマンにおける社会システムは自己生成的であり、その要素はコミュニケーションである。コミュニケーションがコミュニケーションを生み出すという形で、そのコミュニケーションのネットワークとして社会システムが定義される。この社会システムは分化したサブシステム(経済システムとか科学システムとか)を持ち、複雑性(分化の度合い)が上がるほど各サブシステムの複雑性は縮小する(うちの担当はこれだけ!状態になる?)。これが、コミュニケーションの偶有性を縮小する。でもなぜシステムの複雑性がオートポイエーシスによって縮小するかについてはわからなかった。ひとまず、自らが属する社会システムのもつ主題(メディアとコード?)が、コミュニケーションの複雑性を縛ると理解している。
さてここから考えたいのは以下
1.神の受肉について
2.二重の偶有性の克服について
1.神の受肉について
弱き人間の逆説的自己像(理想自我?)が神であり、受肉とは神=>人間、すなわち神もまた弱い存在である、ということ。これをルーマン/フーコー説に照らし合わせると、超自我や社会システムもまた弱いということ。ここでの弱さとは「可能性の複雑性」のこと、偶有性のこととするならば、超自我や社会システムでもこれを克服できないということ。
これはリオタールの「大きな物語の終焉」を補助線とすると腑に落ちる。偶有性の根本には他者がいる。私の行動の可能性の複雑さと、それに対する他者の行動の可能性の複雑性の前に立ち止まってしまうことが主体の弱さであり、それを共通ルールとしての「超自我」や「社会システム」によって縛ることができたとしても、その超自我や社会システムもまたさらに大きな全体の中の部分であり、その部分間の関係においては別部分の「可能性の複雑さ」の前で立ち止まってしまうのではないか。各部分が他の部分の複雑性の前に立ち止まるのは、それらを包括する大きな物語がなくなったからではないか。すなわちこれは多様性にどう関わるかの話。我々と全く違う彼らとどう付き合う?という話。これを社会学はどう考える?という話、なのかなーと。
2.二重の偶有性の克服について
上記問題への解決の糸口が、メイヤスーの「思弁的実在論」による「二重の偶有性の克服」ではないか。彼の主張は、「偶有性こそが真の実在である」というものである。すなわちこれは、可能性の複雑さをより上位の目的のようなもので方向付ける、という形での偶有性に対する態度とは違う態度の提案である。それは「現実の偶有性を信じること、成功の条件は失敗であることを保証すること」として、本書は締めくくられる。これはなんか一時期流行った、他我認識とか、他者論とか、それこそ多様性の話につながるものだと思う。
しかし私はどうもこの結論にピンとこない。あらゆる可能性に開かれている時、我々は身動きがとれなくなる。これが我々の弱さであった。そこには失敗の恐怖があった。この失敗を受け入れよ、他者との齟齬を受け入れよ、というのは、それに対する解決になるのか?社会秩序が一定の方向付けによって可能になる、しかし他者の偶有性は残り続ける、とするなら秩序は常に変わり続ける、ということなのだろうか。それは、「変わり続けろ」ということだろうか。『チーズはどこへ行った?』的な話か?
他者を媒介にすることで相関主義を乗り越え、実在論を取り戻せるというのは、どういうことなんだろう。偶有性は絶対である。それはわかる。んーダメだよくわからん。
他者が偶有性をもつとは、「他者は何をするかわからない」ということではあるが、もっと言えば人によって違うという話で、ある人はある方向に、別の人は別の方向に動く、ということである。ひとりの他者が毎回わけわからない方向に動くわけではない(それは病気である)。だから「他者」と言ってしまうと、各ベクトルの総和として複雑なものを想像してしまうが、ひとりひとりを見れば、ある程度偶有性が縮小された主体がそこにはいるはずである。
これを「人間一般に対する私の偶有性の縮小」として、人間かくあるべき的なものを持つと、他者との齟齬は生じるだろう。すなわち大きな目的を持つと他者との齟齬が生じるということ。よって、大きな物語の代わりに小さき実存を見ることが、他者という偶有性に対する私の実践的な関わりの方針、ということになる。可能性の複雑さの縮小を、「私とあなた」の間で行うこと。
しかしこれで「社会秩序は可能になるのか?」
うーん、、。
「相対主義的な他者との関わりの克服」という点で、もともと私が持つテーマに結びついたのはよかった。ここから先だなーどう考えるか。
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ふつうに面白い。たしかに(大学での彼の講義を思い出すような)おいおいほんとか? みたいな大澤真幸らしさも残るけど、いつどういう学者がいてどういうことを言ったということを死ぬほど易しく教えてくれるのでいいと思う。
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内容は書名そのもの。
だが、社会現象を説明するのが社会学なので、社会学の歴史は社会学になる。ということで、社会学入門になっている。
初期のマルクス・フロイトから、巨人、マックス=ヴェーバーを眺め、フーコーを通り、新しいところではネグリまで。
時の流れに沿って説明されており、面白かった。
分かりやすく書かれてはいるんだけど、流し読みには向かない。
ちゃんと理解するには、きちんと向き合って読まないといけないかも。
傍に置き、気になったらページを繰るのが良いかと…
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どうやら社会学がブームのようだ。著者をはじめ古市憲寿氏や小熊英二氏等、若くてしかもテレビ映えのする学者が多く台頭してきている。書店の新書の棚を眺めても、「社会学」の文字は以外に目につく。政治学や 経済学に比べイデオロギー論にすり替わりにくく、哲学よりはとっつきやすい。手軽さ・気楽さと程よいアカデミックさが求められる新書のようなメディアにとってはうってつけの題材なのだろう。本書のボリュームは600ページ、価格は1,500円を超え、その意味では新書の枠を踏み越えてはいるが既に4版を重ねている。売れているのだ。なお本書は3年ほど前に出たちくま新書「社会学講義」中、著者が担当した第2章「理論社会学」の内容をほぼそのまま引き伸ばした内容となっているようだ。他社で出版したものとほぼ同じものを同一メディアで出すというのはこの世界ではノーマルなことなのだろうか、よくわからない。
おそらくレビューは多いと思われるため要約的な内容についてはそちらに譲るが、僕がこの本に興味を持った理由は「序」にあった次の一文に尽きる。
「社会学の歴史は、それ自体が一つの社会学になる」
これは何だろう?「ある対象に関するメタ的な論説がその対象と同一である」という物言いは、例の「全てのクレタ人は…」という古き良き自己言及パラドクスを否応なく想起させる。このようなパラドクスめいた命題を前提に持ってくるのは、論理学的には「私の議論は信用できない」と宣言するのと等価ではないか?私の素朴な脳細胞が素朴すぎるアラームを発する。しかし著者は「それこそが社会学という学問の特徴だ」とこともなげ。無論そんな素人レベルの議論が想定されているのではもちろんないだろうが、新書という形態を考えればこの議論の始め方はちょっと異様だ。何か危ない感じがする。しかし逆に考えれば、著者はそのようなリスキーなやり方を取らねばならぬほど、このことを強調したいはずなのだ。ではこの一文は何を意味するのだろう?社会学とはいったいどのようなものなのか?
と、大きな疑問を抱えながら読み進め、自分なりにこれが答えか?というものが得られたのは本当に最後の最後、ラスト数十ページというところ。ちなみにそこに至るまでにヴェーバーという大きなヤマがありそれなりのページが割かれているのだが、僕には正直ここの記述がダラダラと長すぎるように感じられた。確かに美しい。予定説と資本主義精神の論理的な繋がりについて、ここまで分かりやすく正面から突き詰めた議論は見たことがない。でも、僕には「序」のあのノリからして本書の最大の山場はここではないとしか感じられなかった。いやそれともやはり僕の読みがおかしかったのであり、社会学といえばなんとなくヴェーバーとか「プロ倫」だし、やっぱり彼の社会学的「神経症」が本書の議論の中心だったのだろうか?この本のラスト1/3は現代社会学の群雄割拠状態を俯瞰して終わるのだろうか?そんな不安が頭を離れなかった。そう、ルーマンが出てくるまでは。
ニクラス・ルーマン。20世紀後半に活躍したドイツ人社会学者であり、ユルゲン・ハーバーマスとの論争で名を上げた人物とのことだが、本当に恥ずかしながら��くの初見(ちなみにハーバーマスもタルコット・パーソンズも知っていたのは名前だけ)。しかし当該部分を一読して、なるほど著者の社会学は少なくとも現在はヴェーバーではなくルーマンにインスパイアされた部分が大きいと即座に感じられた。
ルーマンのシステム論は、システムが秩序のみならずその要素も自ら作り出すという「オートポイエーシス」という性質を前提とする理論。これによると「社会システム」内では、その要素である「コミュニケーション」がコミュニケーション間のネットワークより(主体である人間の意識の介在なしに)自律的に生産されている。つまり自分が自分自身で構成されているのであり、ここでは「xがxを用いて定義される」という自己言及の形式が取られている。ルーマンの章では他にも本書で頻出の「偶有性」というキーワードが出てくるが、より大きな存在感を占めるのはこの「自己言及」ではないかと思われる。「メタ社会学も社会学の要素である」という序文のあの文章と全く同型だ。
実はこれと似たタームがルーマンより前に出てくる。「論点先取」と「循環」だ。前者はパーソンズの「主意主義的行為理論」の批判の際に、後者は「状況の定義がその状況を現実化する」という「トマスの定理」を表現する際に用いられている。後者は「超越論的」という概念で乗り越えられることになっている(「原罪」とかいう、またぞろキリスト教上の概念が導入されておりやや辟易)が、僕には論理的な破綻を糊塗するレトリックに過ぎないように思える(だいたい定義からして思い切り循環論法だと思うのだが、著者はなぜかツッコまない)。だとすれば、序文のパラドクスめいた一文にも隠された否定的なニュアンスが込められているはずだとは考えられないだろうか。つまり、
「結局のところ、社会学という学問は今のところ自らのシステム上の不完全性を超越するための拠点を外部に発見できていない」
というのが、隠れた著者の主張なのではないか。
無論、そのようなシニシズムが本書の結論なのではない。ルーマンの「偶有性」を絶対的実在とみなし、これを梃子に相関主義を乗り越えようというのが最終的な提言だ。社会学というのは「まだやることが沢山ある学問である」と。
確かに「偶有性の保存」こそが社会学の本質であるとの宣言は力強く響く。しかし「偶有性」の手前にはもちろん「他者」という扱いづらい壁が立ちはだかっている。本書では割くべきスペースがなかったようだが、古き良き「他我問題」にも直結しかねないこの「他者」についての考察が著者の近著にあるようだ。機会があれば是非読んでみたい。
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新書にして630ページの厚み。でも94册分(たぶん…巻末の索引で引用文献、数えてみました。)の社会学を巡る膨大な文献をエッセンスを詰め込みながら超コンパクトに社会学の歴史をツアーするガイドブックです。それは「社会学の歴史」こそが「社会学とは何か?」の答えになる、という学問だから。序文でも「社会学の歴史はそれ自体が社会学になる。そこに社会学という学問の特徴があるわけです。」と語っています。なるほど、ノーベル賞でも分野の確立している学問、例えば、物理学って何?とか経済学って何?とかは敢えて問わなくてもいいような気がしますが、社会学って何?についての答えは持っていないような気がして手にしました。出版社の編集者を生徒に講義形式でどんどん社会学の成立から今日までのタイムラインをたどっていくスタイルは気持ちよく「よくわかる!」感を作ってくれます。書き言葉だと反芻が必要な事例も、話し言葉と筆者の総括的視点をベースにした素材の整理によって、するする摂取できる気分になります。その総括性は、この学問の可能性として終章に向けて強調される〈偶有性〉というキーワードをゴールとして見据えているから、なのだと思います。少なくても、点としてでしか知らなかったホッブズとルソー、マルクスとフロイト、そして、社会学の歴史のビッグスリー、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、さらにルーマンとフーコーという人々の仕事がフレームとして見えたことは楽しかったです。星じゃなくて、星座を説明してもらった感じ、かな…でも、いくら教えてもらっても実際に夜空で星座わかんなくなっちゃうように、たぶんいろいろわかんなくなっちゃうと思いますが、夏の終わりの読書として満喫しました。
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分厚いのにめちゃくちゃ面白くて読み進められました。
マルクス、フロイト、デュルケーム、ウェーバーまでは面白い。
構造と意味あたりの子細な議論のあたりに入ると疲れますが 笑
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最新版の社会学史。
社会学は近代のもの。たかだか200年の歴史。
近代の自己意識として社会学が誕生したことを古代の社会理論から始め、社会契約論という社会学前夜の話を経て、社会科学の誕生の中に、コントの名付けた「社会学」があるという位置づけ。
マルクスを間にいれたあと、社会の発見というテーマで、フロイト、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバーを説明。
その後は、システムと意味というテーマで、パーソンズの機能主義の定式化、意味の社会学、さらにルーマンとフーコーの意味構成論的なシステムの理論が解説される。
社会学の主題は「社会秩序はいかにして可能か」というもの。前提として偶有性という概念がある。
読み終えての所感としては、ルーマンとフーコーがツインピークスであるという評価が自分が感じていることと一致したという満足感。
特に、現代社会においては、システムが多様に分化した社会であり、それぞれのメディアとコードが併存しているという点は、わが意を得たりというところ。
フーコーが唱えた「エピステーメー」=パラダイムが不連続であり、類似(ドン=キホーテ)→表象(地理と地図)→人間(博物学(生命)、経済学(交換)、言語学(動詞))と変化してきた話はぜひ読んでみたい。
対比として、ルーマンのシステム論も同様。
人間と社会の関係を、ユダヤ人とユダヤ教のたとえを引きながら、人間における弱さと神、社会における弱さと神、といった構図でとらえるという点も新鮮。
集団は「神」を必要とする。それは、人間が自らを不完全と信じるからであり、メディアとしての神とそこにおける二項対立は、自分たちの集団と他の集団を区別するために必要。線引きの話でもある。
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先週、今週とコロナウイルスのため自宅待機を余儀なくされていることから、積読の山の切り崩しにかかった。これほどまとまった時間がなければ、手を伸ばすのはもう少し先だったかもしれない。
タイトル通り、社会学の通史である。近代以降に始まった比較的新しい学問ではあるが、よくぞこの分量を新書にまとめたものだと思う。マルクス、フロイト、レヴィ=ストロースなど、社会学の枠ではあまり語られない人を入れたのは著者の独創的なところだろう。一人が書き切っているので、通史としてはまとまりがいいが、一人であるが故に厚みの凸凹さや恣意的な表記はあるように思う。何人かの評者からは事実誤認も指摘されているようだ。
とはいえ、社会学を学んでいない身としては読み応えは十分。難解で理解できない箇所も多々あったが、社会学の大きな流れは理解できた。