学際的な人物も取り扱う
2020/07/31 23:38
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投稿者:ただの人間 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「社会学」自体をも鍵概念にしつつ、近代より前のプレ社会学的な時期から今後の展望に至るまで、後書きでも書かれている通りどのように理論が発展してきたか、当事者が意識していたものだけでなく事後的な評価も含めどのようにそれぞれの理論が関連するのかについて重点を置いた説明がなされる。フロイトやフーコーなど社会学者とは必ずしも認識されていない人物も取り上げられる。新車にしてはかなり分厚いが、講義録をもとにした口語調なのでそこまで負担を感じることなく読み進めることができた。
社会学入門に最適の教養書
2020/05/04 21:35
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投稿者:わたし、気になります! - この投稿者のレビュー一覧を見る
社会学については何も知らない状態で読みはじめました。
本のテーマは社会学の歴史についてですが、社会学の全体的な枠組みの変遷を知ることができます。様々な学者や思想を取り上げていますが、全体を通して一貫した流れがあるので読みやすいです。ただし、難解な思想も含まれているので (特に後半)、なかなか理解できない部分もあります。時間をおいてまた読み直したいです。
初めての学問分野にふれるときは、その分野で何を考えるか、どのような思想に基づいているか、といったことをつかむことが大事です。本書はその点で、社会学を教養として身につけるに適した良書だと思います。
社会学を概観できる
2020/03/30 10:07
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投稿者:y0a - この投稿者のレビュー一覧を見る
社会学の前史から始まって、フーコー、ルーマンまで主要な学者を網羅。フロイトも(著者によると)欠かせないということだし、かつマルクスもしっかり入っている。最新のボードリヤール、リオタール、ベック、ギデンズ等にも触れている。
ただ並べてあるだけではなく、社会学の議論としてそれぞれどういう関係にあるのか、流れで理解できるところが素晴らしい。
この切り口は面白い!
2020/01/09 13:26
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投稿者:IGBS - この投稿者のレビュー一覧を見る
年末移動の時間に読み込んだ
社会学という文脈、切り口で世の中を考えるって結構面白い
他の学問より身近であり、SNSのようなTechや心理学、哲学的な視点も統合され非常に面白い領域だと思った
自分のものの見方に新たな視点が加わったようで、
ちょっと勉強できた感あり
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投稿者:ぽぽ - この投稿者のレビュー一覧を見る
フロイトなどは社会学者。社会学者というのが、いったいどういったものなのかという部分から、興味深かったです。
アリストテレスからカンタン・メイヤスまで知の巨人が産み出した思想を網羅的に平易な講義文体で
2019/03/27 10:56
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投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ハーバーマスとルーマンは基本の考え方が全然違います。論争を始めたときには、若くして横綱になったハーバーマスと無名の十両みたいなルーマンが対決している、という印象で見られましたが、いざ相撲を取ってみたら、十両のほうがはるかに技のキレが良く、どちらが横綱なのかわからない状況になった。」この種の比喩が多数ちりばめられた文章。著者にとってここまで全面的に寓話/譬話/図式に依拠した本ははじめてではないか。痛快だし、自力で考えてきた、という悠然たる余裕を感じる。新書で読める内容ははるかに超えるが,新書に合う語り口。映画のような構成は大澤真幸氏のファンにはお馴染み。
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長い講義録でも一瞬も飽きない。断片知っていた知識が繋げられ、そこに新たな知識が注ぎ込まれていく感覚は、快感だとすら思われ、その爽快さにその長さなど忘れてしまう。
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様々な学問の中でも、19世紀~20世紀になってそのディシプリンが確立された社会学は、比較的その歴史が浅い部類にあたる。しかし、歴史が浅いという点は、その学問自体の重要性とは何も関係がない。むしろ、近代において、社会学という学問がなぜ発達したのか、そして社会学とはどのようなイシューをその固有主題として成立したのか?、というごく自然な疑問に答えるのは実はなかなか難しい。
本書は、一つの学問史としてなかなか統一的なパースペクティブを描きにくい社会学の歴史にターゲットを当てた一冊である。本書では社会学固有の主題とは「社会秩序はいかにして可能か?」という1点にあることが提示された上で、社会学の始祖たるマックス・ウェーバーを中心に、社会学前史としての社会契約論やマルクス・エンゲルスらの存在と、20世紀社会学の代表格であるパーソンズやルーマンなどの学説が、大澤真幸の講義調のテキストで解説される。
近年は”歴史”に対する意識が極めて強い大澤さんの近年の本の中でも、比較的読みやすく、かつ社会学に留まらない人文社会科学の歴史を振り返る点で非常に面白く有益な一冊。
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1 社会学の誕生―近代の自己意識として
2 社会の発見
3 システムと意味
著者:大澤真幸(1958-、松本市、社会学)
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2ヶ月半くらいかけて読んだ。ということは、前半というか、5分の4くらいまでは何が書いてあったか全く記憶にない。とはいえ、ヴェーバーあたりまでは、読んでいてなんとなくわかった気分になっていた。2次方程式が自己言及であるなんてハッとさせられた。(スペンサー=ブラウンの本も読んだはずだけど。)ところが後半は苦しかった。読みながら、ふと気が付くと意識がなかったりしていた。で、結局は、残っているのは最後の数ページだけ。このところ、ツイッターからの情報が多いのだけど、山本太郎はソフィストなんだろうか。それともパレ―シアの人なんだろうか。山本(僕にはどうしてもメロリンキューにしか見えない)が演説で聴衆の心をつかむのがうまいということで、ヒトラーだという人がいる。しかし、ヒトラーは演説がうまかったのかもしれないが、演説の上手い人が皆ヒトラーになりうるなんて論理は成り立たない。ですよね。単にレトリックが上手というのと、本心で語っている人とはどう見分ければいいのだろう。直感だろうか。ならば直感を鍛えないと。それからやっぱり偶有性。たまたまそうだったのかもしれないけど、やっぱりその裏には何か縁のようなものを感じずにはいられない。今日の天声人語にもゲンかつぎの話が出ていた。この、必然と偶然と偶有ということば、能動と受動と中動に対比できたりしないのだろうか。なんか、そんなことをモヤモヤ考えながら最後の数ページを読んだ。まあ、社会学者の中ではどういう人たちに注目すればよいのか、その流れはつかめたような気がする。この中に、日本人はほとんど入らないのだろうか。見田宗介が少し出てきたくらいしか記憶にない。これが物理学史なら、ボーアやハイゼンベルグなんかといっしょに、長岡、仁科、朝永、湯川、坂田、南部・・・なんて名前が出てくるのだろうけどなあ。
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新聞広告をみてビビっときて、書店で手に取ってまたビビっときた1冊。期待通りに面白かった。単に社会学の歴史と人物を羅列的に紹介するのではなく、その時代になぜそういう考え方が出てきたのかという点を大きな歴史の流れの中で整理して教えてくれるのと、それぞれの理論について、著者なりのかみ砕いた解釈により、身近な事象に置き換えて理解させてもらえるので、とても腹落ちしやすかった。特に、マックスウェーバーの理論の切れ味については、あらためて感じ入った。ただ、現代の社会学については、元の理論が少し細かい点に入りすぎているためなのか、自分の中で整理して考えることが難しかった。
学生時代、社会学専攻でしたが、当時、こういう本があれば、もっと包括的に社会学をとらえることができただろうに。これからも折に触れ、読み直したい1冊です。
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社会学史というテーマで社会学の学問領域の全てをわかりやすい語り口調で網羅した名著。
法は普遍化された犯罪。進化論はそういった社会だからこそダーウィンは辿り着いた。貨幣への信仰にも比せられる無意識の執着。社会学史の中のフロイト。神強制と神奉仕、西洋の合理性。ニューカムのパラドックス。個人の意図や意味付けとは違った水準で社会現象が生じるという説明→社会の発見。責任倫理。パーソンズ、動機指向⇄価値指向、構造ー機能主義。アローの不可能性定理。トマスの定理を理論的に精緻化すると意味の社会学になる。オートポイエーシスの理論。
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社会学の入門書としてはちょっとハードルが高いけど、一回いろいろさらった人が読むとものすごくわかりやすい。
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分厚かった、、
「社会秩序はいかにして可能か」「社会秩序はなぜ可能か」というのが社会学の主題。そのキー概念は「偶有性」ということが、とてもよくわかった。
フーコーとルーマンの類似点、すなわち言説/コミュニケーションの偶有性という弱さを克服する権力/オートポイエーシス的分化社会システムを、ユダヤ教におけるユダヤ人の弱さと一神教に見たのは、すごい!と思った。
「偶有性の弱さ」で私がイメージするのは、「今日何食べたい?」「なんでもいいよ」である。複雑な可能性を前にして、「なんでもあり得る」と我々は言われると、途方に暮れてしまう。そんな中で「これをせよ」と言ってくれるのが、生権力であり、社会システムなのではないか。
フーコーにおける生権力とは、監視を通して内面化された権力である。私はこれは、主体に対しては、フロイトの超自我と同じだと思っている。そしてこの超自我の成立が、告白する者としての主体の条件であると。超自我は途方にくれる我々をべき論で方向づけてくれる。
(ところでフーコー後期の「自己への配慮」に関して、そこで配慮される主体は結局生権力の結果としての主体と同じであり、生権力への反抗の拠点としては成り立たないのではという主張があったが、むしろ私は生権力の権力者の遷移こそが重要なのではないかと思った。すなわち、外部からの監視による主体の束縛から、自己の配慮による、自らによる自らの監視による束縛。「誰かに縛られるくらいなら俺が縛る」という、権力そのものではなく権力者への反抗。そこでは、自由を束縛する権威を行使するのも自分という意味の自由があるのではないか。)
ルーマンにおける社会システムは自己生成的であり、その要素はコミュニケーションである。コミュニケーションがコミュニケーションを生み出すという形で、そのコミュニケーションのネットワークとして社会システムが定義される。この社会システムは分化したサブシステム(経済システムとか科学システムとか)を持ち、複雑性(分化の度合い)が上がるほど各サブシステムの複雑性は縮小する(うちの担当はこれだけ!状態になる?)。これが、コミュニケーションの偶有性を縮小する。でもなぜシステムの複雑性がオートポイエーシスによって縮小するかについてはわからなかった。ひとまず、自らが属する社会システムのもつ主題(メディアとコード?)が、コミュニケーションの複雑性を縛ると理解している。
さてここから考えたいのは以下
1.神の受肉について
2.二重の偶有性の克服について
1.神の受肉について
弱き人間の逆説的自己像(理想自我?)が神であり、受肉とは神=>人間、すなわち神もまた弱い存在である、ということ。これをルーマン/フーコー説に照らし合わせると、超自我や社会システムもまた弱いということ。ここでの弱さとは「可能性の複雑性」のこと、偶有性のこととするならば、超自我や社会システムでもこれを克服できないということ。
これはリオタールの「大きな物語の終焉」を補助線とすると腑に落ちる。偶有性の根本には他者がいる。私の行動の可能性の複雑さと、それに対する他者の行動の可能性の複雑性の前に立ち止まってしまうことが主体の弱さであり、それを共通ルールとしての「超自我」や「社会システム」によって縛ることができたとしても、その超自我や社会システムもまたさらに大きな全体の中の部分であり、その部分間の関係においては別部分の「可能性の複雑さ」の前で立ち止まってしまうのではないか。各部分が他の部分の複雑性の前に立ち止まるのは、それらを包括する大きな物語がなくなったからではないか。すなわちこれは多様性にどう関わるかの話。我々と全く違う彼らとどう付き合う?という話。これを社会学はどう考える?という話、なのかなーと。
2.二重の偶有性の克服について
上記問題への解決の糸口が、メイヤスーの「思弁的実在論」による「二重の偶有性の克服」ではないか。彼の主張は、「偶有性こそが真の実在である」というものである。すなわちこれは、可能性の複雑さをより上位の目的のようなもので方向付ける、という形での偶有性に対する態度とは違う態度の提案である。それは「現実の偶有性を信じること、成功の条件は失敗であることを保証すること」として、本書は締めくくられる。これはなんか一時期流行った、他我認識とか、他者論とか、それこそ多様性の話につながるものだと思う。
しかし私はどうもこの結論にピンとこない。あらゆる可能性に開かれている時、我々は身動きがとれなくなる。これが我々の弱さであった。そこには失敗の恐怖があった。この失敗を受け入れよ、他者との齟齬を受け入れよ、というのは、それに対する解決になるのか?社会秩序が一定の方向付けによって可能になる、しかし他者の偶有性は残り続ける、とするなら秩序は常に変わり続ける、ということなのだろうか。それは、「変わり続けろ」ということだろうか。『チーズはどこへ行った?』的な話か?
他者を媒介にすることで相関主義を乗り越え、実在論を取り戻せるというのは、どういうことなんだろう。偶有性は絶対である。それはわかる。んーダメだよくわからん。
他者が偶有性をもつとは、「他者は何をするかわからない」ということではあるが、もっと言えば人によって違うという話で、ある人はある方向に、別の人は別の方向に動く、ということである。ひとりの他者が毎回わけわからない方向に動くわけではない(それは病気である)。だから「他者」と言ってしまうと、各ベクトルの総和として複雑なものを想像してしまうが、ひとりひとりを見れば、ある程度偶有性が縮小された主体がそこにはいるはずである。
これを「人間一般に対する私の偶有性の縮小」として、人間かくあるべき的なものを持つと、他者との齟齬は生じるだろう。すなわち大きな目的を持つと他者との齟齬が生じるということ。よって、大きな物語の代わりに小さき実存を見ることが、他者という偶有性に対する私の実践的な関わりの方針、ということになる。可能性の複雑さの縮小を、「私とあなた」の間で行うこと。
しかしこれで「社会秩序は可能になるのか?」
うーん、、。
「相対主義的な他者との関わりの克服」という点で、もともと私が持つテーマに結びついたのはよかった。ここから先だなーどう考えるか。
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ふつうに面白い。たしかに(大学での彼の講義を思い出すような)おいおいほんとか? みたいな大澤真幸らしさも残るけど、いつどういう学者がいてどういうことを言ったということを死ぬほど易しく教えてくれるのでいいと思う。