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とにかく、物事を「好き嫌い」で判断していく。理にかなっていることも多分にあるが、まわりをケアしようと考えるとすべてを「好き嫌い」で片付けるのはなかなかに大変そうである。好き嫌いという感情に加え、強いメンタルがあると成立する気がした。
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著者が好きな物、嫌いな物を紹介しながら、なぜそれが好きなのか嫌いなのかを書いてある本。
ただし、著者の専門である競争戦略の話も絡めて書いてあり、読み物として面白い。
印象に残ったのは、努力するより凝る事、朝型(自分と同じだけ)、シナジーおじさんよりそれでだおじさん、エネルギー保存則、など、独自観点だが納得感がある。
更にプレイングマネージャーという本の最終章を初めて知ったが、まさに本質。実績のみが語るべき事。
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・好き嫌い、と、良し悪しについて、具体例を交えながら自身の考えを記述した本
・良し悪しは、普遍的な物事の捉え方であるのに対して、好き嫌いは、個々人の物事の判断基準。好き嫌いを良し悪しにして、物事の考え方を他人に押し付けるな。
・仕事と趣味の違いは、仕事は相手(客)がいるということ
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良し悪しではなく好き嫌いで物事を捉えようというメッセージにはとても共感できた。
著者の好き嫌いについて語る、という体でさまざまな(主に経営学の)話題について思うところを述べていて、納得することもしないこともあった。何でも組み合わせれば良いものが生まれると思った丸投げする「シナジーおじさん」批判と、組み合わせではなくストーリーが重要である、という意見は私も会社での経験からなるほどそうだな、と思った。あとはブラック企業とホワイト企業が存在するのではなく、(法律の範囲内で)多彩な働き方の会社が存在するだけであり、各自性質に合うところを選べば良いのだという言説もまったくその通りだと思った。
自分がやりたいことをやりながら、それを需要のある層に当てていって仕事を成り立たせている著者はすごいし、私もそのようにしなければ今の生き苦しさはずっと続くだろうタイプの人間なので見倣いたいが、どうにも著者のことは好きになれないという感覚が読めば読むほど強くなる本だった。
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著者の物事に対しての考え方を好き嫌いの観点から著した本。好き嫌いでスパッと物事を切っているところが面白く、新鮮だった。
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あくまでも個人的な好き嫌いの話しとして聞いていただきたい、という書き出しで著者の仕事論。この人の本は重層なエピソードをもとに語りかけてくる内容になっていていつもなるほどと思わせられる。「良い悪い」との対比として「好き嫌い」の概念を持ち出す構図になっており、我が身を振り返ると「好き嫌い」を置き去りにし「良い悪い」の思考が先行してしまっていることに気づかされた、もっと「好き嫌い」を前面に出してもよいかも、と。
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人間、誰しも好き嫌いはある。食べ物にだって、仕事にだって、他人にだって。先生や親は「好き嫌はいけません」と言うが、あるんだからしょうがないじゃないか。むしろ、自分は何が好きで、何が嫌いかをはっきりさせておくことの方が大事ではないか。
好き嫌いなモノについて、思考と理解を掘り下げ、なぜ自分はそれが好きで嫌いなのかを分析し、見えてくるもの。それをこれからの仕事や人生に活かしてみようと、著者は主張する。本書は著者自らの好き嫌いを一例として語り、説明するエッセイ的ビジネスハウトゥー本。
読者としては、著者の好き嫌いに賛否あるだろう。
・「朝」は好きで、「夜」は嫌い
・「凝る」のは好きで、「頑張る」のは嫌い
・「運用→制度」は好きで、「制度→運用」は嫌い
・「プロダクト・アウト」は好きで、「マーケット・イン」は嫌い
大事なのは、自分の好き嫌いを説明できるほど明確にしておくこと。それは他人との差別化につながり、自分の次の行動の羅針盤になる。
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「あくまでも個人的な好き嫌いの話として…」
この行で始まる通り、個人の好き嫌いの話を延々と。
そんな中に時々、いい事が書いてあるのがこの本。
いくらカネを積んでも買えないのが一番強い。
そして結局のところ、それが一番カネになる。
考えるということは、具体と抽象の往復運動
すなわち考えると言うことは言語化である。
世の中にはいろいろな得手不得手の人がいて、相互補完的な関係が仕事と社会を成り立たせている。
だから他者には威張らない威張る気にもならない。
仕事の世界では自己評価は一切必要ない。自己評価は趣味の世界でやるべきだ。
自分が納得すればよし、あとは客が評価するだけ、されなければそれまで。
素晴らしい組織
目的が明確に共有されている
強いリーダーが戦略を構想し、みんながついてくる
得意技を発揮して、効率的に役割分担が生まれる
それぞれが頼りにされ一体感が生まれる
組織に終わりがある
言葉は言葉、説明は説明、約束は約束
なにも取り立てて言うべきことではない。だが実績は実在で、実績のみが実在である。
実績のみがきみの自信能力そして勇気の最良の尺度だ。
実績のみが、きみ自身として成長する自由を君に与えてくれる。
実績こそきみの実在だ、他の事はどうでもいい。
ビジネスの世界では二通りの通貨、金銭と経験、で報酬を支払われる。
金は後回しにしてまず経験を取れ。
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『すべては「好き嫌い」から始まる 仕事を自由にする思考法』(楠木建 著)/文藝春秋)vol.509
https://shirayu.com/blog/topstory/idea/8497.html
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「良し悪し」よりも「好き嫌い」。
結局「~すべき」と決めつけるより、自分が好きなものを趣味だけではなく仕事で選択する基準にしてもいいのではなかろうか、という主張の本。後半はひたすら筆者の好き嫌いを語っているので、こんな人だったのね、、という発見があり楠木先生のファンなら読んでもいいと思いますが、それ以外の方にはあまりおすすめしません。SNSでたたかれてもそれを楽しむ余裕は教授ならではではないかと…。
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過去の著書や、日頃の講演会での話が、著者の「好き」視点で実によくまとまっている。正しいかどうかではなく、好き嫌い視点を前提とすることで言いたい放題だが、深い考察と蓄積された知見に裏打ちされた真理の数々が、センス良く、そして面白おかしく飛び出すので、知っているネタでも最後まで読んでしまう。
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楠木建さん、面白すぎる。私も、好き嫌い族に入ります、っていうか以前から好き嫌い族だったことに気付きました。
それでも世の中、たくさんの人がいるし、自分の家族とさえ考えがズレることはあるので、そこは楠木建さんが言う通り、尊重したいと切に思う。
社会主義に向かっている資本主義にあるという考えも同感です。日本はある意味、完成された社会主義ではないかと以前から考えていたもので。
そういえば、この本を読んでいる途中に橋下徹さんと似てるな、と感じました。ご本人がどう思われるかは分かりませんが(笑)
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好き嫌い、と言うと、まるで子供っぽい属性かのように思えてしまうのですが、わたしはどうしても好き嫌い以外の要素で物事を捉えることができないので、もう開き直ってはいるものの、拙い要素なのだろうなあと思っていました。けれど、好き嫌い族を自称している素敵な大人もいるんだ!という、自分と全くレベルが違うとは言え、延長線上の大人としてのひとつの理想像を見せてくれた一冊。以前参加した「ALL REVIEWS書評家と行く書店ツアー」のときに購入したものです。「好き嫌い」というキーワードで購入したのですが、正解だったなー。
もちろん共感できる「好き嫌い」もあればそうでないものもあるし、わたしはもうちょっと矛盾が自分に多い気もするし、経営というよりはいまの組織に属するほうが合っていると思う。けれど考え方としてとても納得できるし、いち組織人であっても、芯のところではこう考えて生きていきたい、という姿だった。わたしにとっては変な歪みのない理論に思えた。自分の好き嫌いに沿って、他人の好き嫌いを尊重して、歪みや押し付けのない余裕ある大人になりたいな。
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・良し悪しと好き嫌いの混同。好き嫌いに寛容になる
良し悪しの文明と、好き嫌いの文化
・ダイバーシティの本質は個の尊重。ステータスが多様であるというKPIではない
多様であればあるほど、統合が必要。共通善の概念
・構造改革は狙って行うものではなく、ストーリーの要素がつながっていくことで、結果改革されるもの
・伝統→指令→自由
・産業資本主義と金融資本主義。手段の目的化、個の尊重する豊かな社会
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あー、面白かった。
伸び盛りの社会が顕示的で外在的な装飾を求めるのに対して、成熟した社会は内在化された実質を志向する。ユニクロのコンセプトである「ライフウェア」はその典型だ。ライフウェアはZARAやH&Mのような「ファストファッション」ではない。かといって、GAPのような従来の「カジュアルウェア」でもない。「部品としての服」という考えである。普通の人々の快適な生活のベースとなる部品。部品である以上、そこには機能や用途についての提案が込められている。ときどきの流行を追うわけではないが、時間とともに進化していく。そうした部品がヒートテックでありエアリズムでありウルトラライトダウンであり、先に触れたUniqlo Uのプレーンな無地Tシャツなのである。
他のEコマースの経営者とベゾスでは、物事が起きる順番についての考え方が決定的に違っていた。多くの人々は、このような順番で考えていた。「インターネットで物理的な制約がない。だから、品ぞろえを思いっきり増やせる。で、顧客にとって便利になる。だから、お客が来る」。
「そんなわけないだろ!」とベゾスは考えた。やたらと品ぞろえが充実していても、自動販売機を置くだけなら人々は魅力を感じない。従来の売り場との本質的な違いはない。
ベゾスが考えたことの順番はこうだった。「購買意思決定のインフラをつくる。そうすると、これまでになかった利便性を提供できる。だから、お客が(その利便性を求めて)集まる。いきなりアマゾンでどんどん物を買ってくれないかもしれない。それでも日常的にアマゾンのサイトにある情報を見に来るようになる。そこに多くの人が集まっているので、アマゾンで売りたいという人々(メーカーやセラー)が出てくる。で、品ぞろえが充実する」。
他社は「品ぞろえの充実」を差別化として意図した。そこに利便性の原因を求めた。しかし、そんなふわふわしたものでは話にならない、というのがベゾスの考えだった。利便性の正体は購買意思決定支援にある。それがまず顧客を惹きつけ、その上で次にセラーを惹きつける。アマゾンにとって「品ぞろえの充実」は原因ではなく、結果に過ぎない。
変革をとくに難しくしているのは、創造よりも破壊の方にある。裏を返せば、変革の重点にして力点は破壊にこそ置かれるべきなのだ。
しかし、これがなかなかできない。とりわけ過去において成果をもたらした内的一貫性を抱える企業にとって、破壊は想像の何倍もエネルギーのいる仕事となる。結婚よりも離婚のほうがはるかに大変なのと似ている。
だから、多くの企業は破壊に手をつけず、既存の内的一貫性の上に「創造」を重ねようとする。これは家の土台をそのままに増改築を繰り返すのに等しい。家を全体として見たときには大して変わらない。これでは問題の先送りに等しい。
ごく客観的に考えれば、「ナンバー1、ナンバー2」は意思決定の基準としてとうてい正しいとはいえない。事実、振り返ってみれば、ウェルチの「ナンバー1、ナンバー2戦略」には判断ミスもたくさんあった。通信事業からの撤退を懸念する声が内外に強かったことはす���に述べた。しかし、ウェルチは、例によって「ナンバー1、ナンバー2でないから」といういつもの基準であっさり撤退してしまう。これが後にGEがインターネットの波に乗り遅れる遠因となった。ウェルチ自身もこの「間違い」を後になって認めている。
教科書的に言えば、選択と集中の基準は「ケースバイケース」であるべきだろう。だから普通の(優れた)CEOは「多角的・総合的に判断」しようとする。「正しさ」にこだわり、「ミス」を回避しようとする。だから、「残すべきものを残し、壊すべきものを壊す」というスタンスで創造的破壊に臨む。
しかし、である。GEのような巨大かつ複雑、長い歴史を持つ内的一貫性の塊のような大企業が「正しい」ことをするだけで変わるだろうか。「正しさ」を追求すると、どうしても話が複雑でわかりにくくなる。判断に時間がかかる。コンセンサスをとるのが難しいので、実行する上でも遅れをとる。
…
だから「正しさ」を犠牲にしても、判断と実行の上での明快さを優先する。多少の「間違い」を含んでいたとしても、方針や判断基準は「過剰にシンプル」でちょうど良い―。この割り切りに変革を率いるリーダーの真骨頂がある。
経営者には大別して2つのタイプがある。「三角形の経営者」と「矢印の経営者」だ。
あらゆる組織には階層的な権限配置の構造がある。どんなにフラットで自由闊達な組織であっても、そこには依然としてヒエラルキーがある。権限の階層性はいつの時代も変わらない組織の本質だ。
世間に名の知れた―すなわち大きな位置エネルギーをもつ―一流企業に入る。で、まるで登山のように組織の階層を上へ上へと昇っていく。山頂にある社長のポストへの到達を最終目標として、キャリアを重ねていく。ついに社長になり、一件落着、めでたしめでたし―。これが三角形の経営者だ。
三角形の経営者は本物ではない。商売の基を創り、戦略ストーリーを構想し、商売丸ごとを動かして成果を出す。商売が向かっていく先を切り拓き、外に向かって動きと流れを生み出す。矢印の経営者こそが本来のリーダーだ。
三角形の経営者は一義的に位置エネルギーを求める。「代表取締役社長」とか「CEO」のポジションは、予算や人事の権限、社内外での権威など経営者に大きな位置エネルギーをもたらす。組織が大きいほど、経営者の位置エネルギーもまた大きくなる。
一方、矢印の経営者の生命線は運動エネルギーにある。本来の経営という仕事は、いずれも「何をするのか」「何を達成したいのか」という行動を問うものであり、経営者の運動エネルギーにかかっている。三角形の経営者には代わりがいくらでもいる。しかし、矢印の経営者は、その人がいないと始まらない。昔も今もこれからも、経営者の運動エネルギーはビジネスの成果を最も大きく左右する要因の一つである。
三角形の頂点をめざして偉くなりたい人はたくさんいる。三角形の経営者はいつの時代も供給過剰だ。だから限られたポストをめぐり組織の中で熾烈な競争が起こる。一方、矢印の経営者は希少な存在だ。ゼロから商売の基を創り、戦略ストーリーを構想し、実際に商売を動かして稼げるリーダーは実に少ない。供給が需要にまったく追いついてい��い。企業経営の停滞や迷走の背景には、いつも三角形の経営者の跳梁跋扈と矢印の経営者の不在がある。
なぜそうなるのか。その理由は、多くの人が「エネルギー保存の法則」に嵌まることにある。学校の物理の時間に習った「エネルギー保存の法則」を覚えているだろう。ボールを空に向かって高く投げる。上に行くほどボールは位置エネルギーを得る。その分、運動エネルギーは喪失される。
組織の頂点に立てば、大きな力が手に入る。力とは「動因できる資源の大きさ」である。自分が一声かければ1000人が動く。一つの判断で100億円が動く。より大きな資源動員力を求めるのは人間という動物に埋め込まれた基礎的本能の一つだ。
三角形の経営者はエネルギー保存の法則の産物である。彼らも若い頃は運動エネルギーに溢れていたのかもしれない。しかし、それが次第に位置エネルギーに転化する。位置エネルギーが増えるほど、運動エネルギーは低下する。役員、社長に上り詰め、位置エネルギー満載となったときには、「こういう商売をしたい!」「これで稼いでいくぞ!」という運動エネルギーがすっからかんになる。せっかく手にした位置エネルギーの保持に汲々とするという成り行きだ。
考えてみれば、経営者にとって位置エネルギーはあくまでも手段にすぎない。大きな位置エネルギーを再び矢印の運動エネルギーに転化できてこその経営者である。ところが、三角形の経営者にとっては、社長のポジションにあるという状態それ自体が一義的な目的になってしまう。手段の目的化だ。
これだけ多くの人々が生きている世の中、ましてや「多様性の時代」である。一人ひとりの意見が合わないのは当たり前だ。「多様性が大切!」と声高に正論を振りかざす人ほど、自分と合わない意見を「間違っている!」と非難する。自分に局所的な良し悪し(つまりは自分の好き嫌い)を他者にも適用し、それがあたかも普遍的な価値観であるかのように思い込む。
単に自分と好みや意見が合わないというだけの話なのに、無理やり良し悪しの物差しを振り回し、他者の意見を「悪いこと」「間違っている」と考え、不快に感じ、攻撃する。人と自分の優劣が気になり、些細なことについてもいちいち自分の優越を示す。これは実にストレスフルで、生き辛いと思う。
そういう人たちには、この際、好き嫌い族への「転族」をお勧めしたい。生きるのがぐっと楽になるはずだ。多様性の時代とは、言い換えれば好き嫌いの時代である。人は人、自分は自分。自分と違っていても、いちいち気に留めず、放置しておけばよい。自分の意見と違っていても、「ほう、そう考える人もいるのか……」と面白がればいい。
異なる価値観と出会うことによって、自己の価値観がより明確に意識され、たまには自分の考えが変わることもある。この繰り返しで自己の価値観が徐々に錬成されていく。ここが人間生活のコクのあるところだ。良し悪し族はこの美味しいところをみすみす見過ごしている。
改めて考えてみると、ダイバーシティというのはわりとトリッキーな概念だ。良し悪し族はいくつかの重要な論点を見落としているように思う。ここでは3点を指摘しておきたい。
第1に、ダイバーシティは本来的に一人ひとりの「個��」に対応した概念である。しかし、ともすると話が「性別」とか「世代」や「性的指向性」といったデモグラフィック(人口統計的)なカテゴリーにすり替わる傾向にある。
もちろんこれには理由がある。そもそも個人は多種多様である。同じ日本人の男性の50代でも阪神ファンもいれば巨人ファンもいる。…組織の中でしっかりとした役割分担のもとで働くのが好きな人もいれば、自由勝手に動くほうが好きで成果の出る人もいる。
こういうことを言い出すと個別的に過ぎて話がまとまらなくなる。だから性別や国籍という象徴的なカテゴリーに代表させて、個人の多様性を云々する。ところが、デモグラフィックな特徴は個人の多様性のごく一部にして表面的にすぎない。
…
見過ごされている点の第2は、「統合」の重要性である。
多様性が高まれば高まるほど、一方で強力な統合装置が必要になる。世界共通語としての英語がその好例だ。さまざまな国から言語や文化が違う人々が集まって会議をする。…
話を先のサイボウズの例に戻す。サイボウズはチームワークを支える「グループウェア」をクラウドベースで提供する会社である。ミッションは「最高のグループウェアを創る」。多様性の高い組織にあって、このミッションが統合装置として機能している。
個人はできるだけ自分の好きなように仕事をすればいい。しかし、すべては「最高のグループウェア」のためにある。このミッションに合致しなければ、それが個人の「好き」であっても、会社として受け入れない。逆に言えば、「最高のグループウェア」に資することであれば、あとは自分のスタイルで好きなようにやってくれ、という話である。
サイボウズでは「この一点では争わない」というミッションが全員に浸透している。だから個人レベルでのインクルージョンに踏み込める。強力な統合がなければ、本当に多様になるとマネジメントの手に負えなくなり、組織として崩壊してしまう。
ここでのポイントは、一般的な良し悪しでは統合装置として不十分ということだ。「最高のグループウェア」はサイボウズが自由意思で打ち立てた旗印、すわなちこの会社に局所的な「好き嫌い」である。このミッションに共感できず、コミットできない人はサイボウズにいるよりも、どこか別のもっと好きになれる会社に行ったほうがいい。会社と個人は好き嫌いでつながっているのであって、誰にとっても「良い会社」というのは元から存在しない。
組織なり経営の本質は多様性よりも統合のほうにある。そして統合装置はその組織に固有の好き嫌いを抜きにしてはあり得ない。良し悪しを叫ぶだけでは統合はできない。良し悪し族主導のダイバーシティが「性別」とか「国籍」とかのデモグラフィックな次元に留まり、その先にある本格的な好き嫌いがインクルージョンに至らない背景には、統合の不全がある。
第3の論点として、ダイバーシティの議論は分析単位のとり方に大きく依存している。良し悪し族はこの点を見落としている。
女性が活躍し、女性管理職の多い会社のほうが組織内の多様性が高く、「良い会社」である。その通りなのだが、その一つ上位のレイヤーである社会全体で見ればどうなるか。良し悪し族の主導の下にみんなが「良い���とされる方向に足並みをそろえて進んでいくと、結果として個別組織の個性が失われる。組織内部の多様性は増しても、社会レベルでの多様性はかえって低下する。
…
ダイバーシティは「良い」ことだが、それ自体は目的にならない。結果である。それぞれが自由意思で好きなことを追求する。その結果として多様性が生まれる。この順番が大切だ。好き嫌いこそ経営や組織の本領がある。
理念がないと、資本主義の経営はややもすると金融資本主義的な方向に転がっていく。理念とは、その組織なり企業に固有の価値基準であり、ようするに好き嫌いである。理念のない会社は、もはや会社ではない。理念という名の好き嫌いを基盤とする企業は、資本主義の行き過ぎ、手段の目的化に対する対抗軸になる。