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2017年の、いや、テン年代のメルクマールとなるのは間違いなく「中動態の世界」と本書であろう。
誤配せよ
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SNSや観光、テロ、二次創作など現代に溢れている内容に哲学的な視点で書かれているところが斬新で、本書の魅力だと思う。哲学初心者の私にもとても分かりやすい内容で、その辺の難しそうな哲学本より、スラスラと内容が頭に入っていきやすかった。この本をきっかけに、哲学について勉強しようと思った。
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レビューに惹かれて読んでみたが、私には少々難解で完読できなかった。。。観光客と言う存在をを様々な形態に当てはめて表現する手法は面白いと思うが、そこに至るまでの過程が読んでいて少々面倒で、私には合わなかった。
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ゲンロン0 観光客の哲学 東浩紀 genron
読み始めは屁理屈かと思いきや
終わりに近づくほど面白くなる
始めの内は進まず何度かバカバカしくなりながらの
二章の終わり頃までの感想は
混沌の中のリアリティーと言うプロセスを明確に見せてくれる内容であった
哲学が根源性を追求するものだとすればこの物語は
才走って道草を食っている状態にあるように見える
それは過去に根ざす縄張りの穏便な安全地帯から
覗き趣味の気晴らしをしている観光で
平和を良しとして求める第三者のナンセンスを
教えてくれる反面教師のようである
観光は時の流れの中で今を捉えながら
出合いの選択をし続ける冒険の旅と比べると程遠い
覗き趣味は選択の自由自在性を奪う代わりに
支配者が奴隷にあてがう娯楽でしかない
などと思いながら読み進む内に段々と面白くなって引き込まれることになる
多彩な知識が盛り込まれているだけでなく
咀嚼された深読みによる解き明かしにうなずけもするし共感もできる
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東浩紀は『弱いつながり』以来2冊目だったので、弱い~の続編的な目線で読んだ。2017年の人文書としてはかなり読まれた1冊で、目を通してみると著者の熱量がうかがえる。わかりやすく丁寧な文体で書かれながらも、今の時代を憂い行動を起こそうというような焦りを感じる。これがゲンロンカフェなどを精力的に展開しようとする東の原動力であるかと思うと、納得がいく。言論人として、批評家としての世界とのかかわり方。こうした人と人の撹拌の意図は本書でいう「誤配」だろう。
本書のテーマは「観光客」。国民ではなく、旅人でもなく、観光客。国民国家と帝国という今までの社会論では二項対立的に語られていた概念が、政治と経済、コミュニタリアニズムとグローバリズム、社会と個人というそれぞれの文脈に分化されながらも、溶け合ってしまっているのが現代である。そのような時代においては、ヘーゲルが言うような個人→家庭→社会→国家という単線的な発展の図式は意味をなさなくなっている。だからこそ国家に閉じられた存在としての「国民」ではなく、どこにも根をもたない「旅人」でもなく、国家の住民でありながらも、自由に異国を訪れる「観光客」としてのふるまいに可能性を見つけている。観光客は、同じものを見ても住民が見つめるようにその景色を見つめることはない。観光客のまなざしは「偶然」に照らされたまなざしである。文化や言語の伝統的な文脈を通じてその景色を見るのではなく、偶然に「誤配された存在として」その景色に出会い、目撃するのである。そのような既存の世界を再解釈するまなざしに、次の時代の可能性があるのではないかと著者は訴える。
とても面白く読んだ。
18.1.19
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誤配に期待するしかないと。他者への寛容を支える哲学が家族的類似性と誤配くらいしかない、というのだが。偶然で生まれて必然の存在へと変わっていくことを家族としてとらえることに一人の母親として強烈な違和感を覚えるが、それが説明できるまでには相当かかりそうな気がする。
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難しいが、読者に振り返ってくれて親切な文章。観光客が世界を変えられるか?まだまだこの理論は発展途上です。
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ビジネスに染まった生活から距離をおいて物事を捉えるためのガイドとなる。後段の完成稿が読みたくなった。
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最の高。哲学とか思想とか興味ないって人も、読むべき教養書。
このよくわかんない世の中と、自分の生き方との接点って何なのか?を、意外な切り口からグイグイ掘っていって、示唆をくれる。
もっと、偶然を楽しんで生きていこう。
哲学や思想って、こんなダイナミックでおもろー!なのか、と気付かせてくれる一冊。
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"Author mentioned that we were separated in globalism - Libertarian - and nationalism - Communitarianism, and we lost concrete ties in our world. However the miss-delivery which is indicated in this book as "Tourist Philosophy" will be able to re-connect the separated world."
・後半のドフトエフスキー論を足がかりにした、「家族の哲学」が一番興味深い。グローバリゼーションによって、「体はつながっているが、頭は別々」に分断されてしまった世界をつなぎ変える=脱構築する可能性として、「家族」が挙げられる。
ドフトエフスキーの小説における主人公像の変遷(失望したコミュニスト→アナーキスト→リバタリアン→??だったかな)という変遷を参照しつつ、世界をもっかい脱構築するにはどうすべきなのか?を素描する。
・ルソーは人間が嫌いだった。人間は他社とつながりたくなどないと思っていた。でも人間は社会を作る、それはなぜかっていうと「憐み」「憐憫」があるからなのだ、という。生まれたての子供が道端に捨てられていたら、それを見捨てることができない、という人間のプリミティブな感情こそが社会を作り上げているのだと言う。
・「不気味なもの」とは何だったのか?
・『おやすみプンプン』にも似たモチーフがある。プンプンとペガサス。個人主義(≒リバタリアン)と、博愛主義(≒コミュニタリアン)。リバタリアンも、コミュニタリアンも、比喩として死ぬ(というか殺される)。そして、リバタリアンは、血縁でも地縁でもない、まったくの他人との、疑似的な家族関係によって救われる。
これはきっと、自分の中の神様、あるいは最も信じるものをなくしても、それに似た何かに再接続することで絶望から救われる物語。
ドフトエフスキー。飼っていた犬は死んだ。その犬はこの世界に一匹しかおらず、他に代わりのないものだ。でも別の犬が、その唯一性を満たすことはなくても、代替することはできる。田中愛子は死んだけど、田中愛子/「自分」って神様がいなくなっても、疑似的な家族に救われてしまう(逆に言うと死ぬことはできない)。
それを「汚れてしまった」などと嘆くのはばかげている。死ぬ前は単に幼稚だっただけだ。人間は人間が嫌い、でも生きるために神さまを作り上げて、そのために生きるのだと思う。でも神は死んだ。だから多様な現実を引き受け、前に進む(父になる)しかない。それが大人になるってことだわねえ。世界に活かされてた側から、世界を作る側になるんだよ。人間はくだらないし何かの間違い。でもそれに嫌気がさしてあきらめるんなら死ぬしかない。死にたくないなら、「神は死んだ」ことを引き受けて生きるしかない。
・クリエイティブ都市論との接続。
ネットワーク理論によれば、Dotは多い方が多様なネットワークを形成しやすく、したがって人的集積が豊富な都市圏ほど、この「マルチチュード」は成り立つのではないか。
国家ではなく都市という単位で見れば、縮む日本は都市圏に集中せざるを得ず、都市としては、東京や大阪・名古屋という集積圏は今後も成長を続けるだろう。そしてその時、競争相手は国家ではなく同じ都市圏。
こういう接続が容易にでき、グローバリスト/ナショナリストではなく、グローバリズムを前提とした都市型の生き方(グローバルエリートとか安っぽい話ではなく、国家ではなく都市が競争単位となったとき、リバタリアンもコミュニタリアンも、双方とも統一され、再接続され、世界はまた、領域国家から都市国家に変貌してくような、そんな気がする
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大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置付け否定しようとした20世紀哲学。大衆であり労働者であり消費者たる観光客は、公共的役割を担わず歴史にも政治にも関わらず、国境を無視して惑星上を飛び回る、人文思想のまさに敵。
ことばの定義、文脈における用途からしっかり理解していかないと読めない難しさがありますが、何十年もかけて考え続けた結果でありプロセスなのですから、面白くて当然なのです。
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【農学部図書館リクエスト購入図書】☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
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内容は難しいのだけれど、「そうか!」と視界が開ける瞬間が多々ある。著者はたくさんの文献にあたってそれらをきちんと把握し、その延長線上にこれまでの著者自身の思索との結晶として、この哲学を出現させている。とはいえ、延長線上でありながら、その行き詰まりゆえにオルタナティブなものになっています。持続的イノベーションとして行き着いた哲学ではなく、オルタナティブであり、従来の価値観、ヒエラルキーを壊す、破壊的イノべーションになりうる萌芽としての哲学でしょうか。誤配がおこる、観光客をイメージした生き方が、ナショナリズムやグローバリズムに板挟みになった世界で、自分を分裂させず、保ち、そして連帯を生む生き方になるのではないかというのが、一番の筋だったでしょうか。そのために説き明かしてくれた世界の二層構造、国家と市民社会、政治と経済、思考と欲望。著者は、それを独特の言い方で、「人間と動物」とも表現しています。ここらあたりは、クリアな視点で世界を見つめるのにおもしろい視座でした。また、途中で、ネットワーク理論にも触れています。これは食物連鎖や人間関係を数学的に解明した複雑系の理論なのですが、それを援用することで、これまでの社会思想では見てきていない視界があることを指摘し、ゆえに、これまでの社会思想の欠落部分を捉えなおし、改変できる、可能性の大地を照らしているのを著者は目にとめて、思考に取り入れています。僕の印象だと、著者の哲学は、偶然だとか二層の重なりだとか、量子論の考え方からヒントを得たり類推したりして編んでいるところが、とくに発想面ではけっこうあるのではないかなあという感じがします。著者の小説、『クオンタム・ファミリーズ』だって、名前からしてもう量子論ですし。
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改めて読み直した。素晴らしい哲学書は何度読んでも読み応えがあるし、新たな発見があるなと再認識した。
この本ほど大量の哲学者たちの引用&要約されているものはあまり読んだことがなく(特に要約力が高すぎる)、その圧倒的な読みやすさからも、この本自体があたかも哲学への観光のようだった。
再読した現在、BlackLivesMatterデモが加速していて、なんでこんな地獄みたいな社会になったのだろうか、とぼんやりだけど切実なガッカリ感が自分の中にあったが、この本はそのガッカリ感に言葉をくれた気がする(直接的な主題ではないが)。
とにかく素晴らしい本でした。内容はもちろん、読み物として素晴らしい。
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読後の率直な感想として、哲学の限界と弱点に対して徹底的に向き合って、哲学書として哲学的なアプローチで真っ向から乗り越えようとしている姿勢を強く感じた。20年以上も人文・哲学のジャンルで戦ってきたから東さんだからこその、使命を感じた。
本書の中でも触れられている通り、しばしば人文・哲学の言葉は抽象的な魔法のような言葉で、具体性を持つことなく完結してしまう。マルチチュードの概念も、反体制的な抵抗運動を指す言葉であり、デモのように強い政治性を持つ活動を行わなくとも連帯される(!)というような理想的な概念である。しかしその実は、否定神学的で具体性はなく、声を上げればネットの力でなんとかなるレベルの議論しかされていない。
そうした人文・哲学の所作をアップデートするために、①郵便的マルチチュードという概念を導入し(少し哲学の所作を超えられてない気がする)②哲学的な概念に数学的な裏付けを試みている。
特に、②は二層構造の数学的な裏付けとして位置づけているところは面白い。抽象的な哲学に対して、具体的な数学を取り入れて、なんとか哲学的な思考に具体的なロジックを担保しようとするアプローチは胸を打つ(逆に数学に社会的な哲学的な意味をもたせるという視点も共感)
しかし、同時に哲学の所作を乗り越えることが極めて困難であることの葛藤もひしひしと感じた。
本書の中でも、
・ソーカル事件に触れながら、数学を自己流による解釈で概念だけ抽出し誤った疑似科学になっていりうリスクがあると指摘していたり(実際、ソーカル的ではないと立証するに至っていないように見える)
・実際に②の数学的なアプローチも具体的に論証しきれていないとしていたり
・観光客が誤配のようなコミュニケーション(現地人と話すなど)をすれば、それが即すなわち反体制的なマルチチュードになるかといえばそうでないとしていたり、
・それに対して、本書の位置づけはあくまで草案であり、具体的な議論は次の仕事に譲るような記述になっている。
本当に難しいんだと思う。それでも、ここまで詳細に哲学・政治学のテキスト・議論を引用しながらまとめあげ、それを真っ向からアップデートする試みは東さんしかできないと感じました。