紙の本
「キャラが濃い」「キャラがかぶる」など用法も広がっているこの言葉が示す社会。要するに情報世界ばかりが巨大化することによって、現実離れして歩き出した社会を象徴するものが「キャラ」、ということになるだろうか。鋭い指摘もあるが、著者はこれを肯定するのか、否定するのか。その辺がはがゆい。
2007/10/05 09:53
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「キャラが立ってる」とにやつく人と、その人に「キャラって何?」と聞いている人とが政治のトップの座を争っているという真っ最中に発売されたこの本、時宜を得た発売、といえば言えるかもしれない。著者はバンダイの「キャラクター研究所」所長。へえ、そんな研究所あったのか。どんな研究をしてるのだろう、と言う興味もあって読んでみた。
研究所の調べたデータなども使用し、鋭い指摘も結構あるがまだまだ雑な「推論」も目立つ。「日本人とキャラクターは長い歴史の中で切っても切れない蜜月関係を築いてきた、そして、その関係は日々、ますますその濃度を増しているともいえる。(第二章p62)」というけれど、「第一章 キャラクターと日本人の精神史」で記載されたのは太平洋戦争後の事例ばかりである。数十年で「長い歴史」というのは「そこまで時間感覚までも変化しているのか」と、時代に取り残された気分になった。おかめ、ひょっとこや福助さんなどのもっと古いキャラクターや、日本以外のことにももう少し触れたほうが説得力があると思うのだが。
「現実生活においても、「生身の私」と「キャラとしての私」のヒエラルキー逆転が起こるかもしれない。(p174)」と著者は予兆して終わる。肯定も否定もしない。少々はがゆい。著者は情報提供に留まり、それ以上はいわない、ということだろうか。まさに著者が書いている「データベース型の消費形態」=断片としての情報だけをランダムに消費する(p141)に向けて書かれた「情報提供のみ」の一冊になっているようだった。
「キャラ」などとは言わなかったけれど、昔から「レッテル貼る」とかいろいろな言い方で人間は「言葉で定義することで理解する」作業をしてきたはずである。言葉で切り取られた一面として単純化しなければ理解の一歩が進まないのも現実である。言葉で切り取り、「キャラ化」させたり「レッテル」を貼ったりして理解しても、それはある限定をしたものであり、現物は切り取れない様々な様相を持つものであること。それを分かった上で(悪い言葉かもしれないが)「使い分けて」現実世界を生きていく。それが大人ってもんじゃないだろうか。それができずに「キャラ化」の世界に捕まってしまう「子供状態」からどうしたら「大人」になれるのか。いや、もしかしたらそんな「大人」にならなくてもよいのか。そのあたりまで議論して欲しかった。
現実世界との接触が減り、現実から切り取られたような「キャラ化」世界を選ぶのは自由だ。しかし、たくさんは処理したり受け入れたりできなくても「地に足のついた」、「暑さにおろおろし、人の冷たさ、温かさにじたばたする」生き方でもいいじゃないですか。ああ、こんなことを言う私はどんなキャラに分類されるのだろう。そんな風に考えてしまうのも、すでに「キャラ化」世界に絡みつかれているらしい。。。。
読んでいる時もそうだったが、書評を書いたら「キャラ」がたくさんならび、文章全体がきゃらきゃらしてなんとも疲れてしまった。こういう影響もなんだか怖い。
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キャラ化し過ぎな印象。☆記憶の装置化(ex.Disneyland)☆データベース消費:HPよりブログ。
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蛯原友里が「蛯原友里」と「エビちゃん」を使い分けているという説明だけで言いたいことはわかった。それに自覚的であり、われわれもそれをわかったうえで話しているという意味で、一般化されてきているわけね。
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「キャラ化」という視点から、社会を読み解く本。
小泉劇場やライブドア騒動などは、「キャラ化」という視点でみると、とても面白い。
そういう意味では、著者の主張は納得できるのですが、もう少し踏み込んだ分析が欲しいところです。
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キャラというのがアニメ用語と感じること自体が時代感の現れなのかもしれません。図書館予約数は0(07/12/29現在)です。
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物事をリアルで捉えるのではなく、それを記号化したもの=キャラとして接する人が増えている。というよりも日本社会全体がその傾向が強いと著者は訴えている。キャラクターグッズというものが潜在的に抱えている意味までは理解でき内面もあるが、なかなか興味深い一冊。
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まさに私『かふぇもか。』の事が言われていてドキッとした著書。その意味で自分は今を生きる若者で同時代に順応してんだなーって思った。ケータイ小説の章に惹かれて読むも調べたい事とあまり関係なかった。それにしても社会学科に入ってから筆者の経歴が大分気になるようになった。これはいいことですね、きっと。小泉元首相がキャラ先行だったのと、大きい物語を除外した消費スタイルになったことは同意する。その意味で、安倍元首相はかわいそうであったなと感じた。
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現象としては分かるよ!!俺もキャラ化するべきだなーって…
けど、本としては欠陥!!対策としては、芸能人、メディア、携帯端末、小説、商品、全てを包括して書くことという水平的な記述よりも、ひとつひとつのチャプターの深さを垂直的に考察するべきだった思う。
そもそも、キャラ化とは…という定義がなされていない!
あと、先行研究の評価なんだけど…「キャラ化」を裏付ける根拠の信憑性、妥当性としてジャン・フランソワ・リオタールの「大きな物語」の凋落に依拠しているんだけど、このおじさん『ポストモダンの条件』読んでねえー。もう一点、インターネットの「キャラ化」について、東浩紀の『動物化するポストモダン』にもたらされる知見に依拠しているんだろうけど…
p142―これまでのWebサイトでは、常に段階が問題になった。ビューワーは上位階層からその興味に従って下位階層へとその世界観を探索する。その中にある掲示板や日記は単独で存在しているのではなく、あくまでWebサイト全体の「大きな物語」によって規定されているのだ―
と『Webサイト全体の「大きな物語」』に言及しているんだけど、当の東氏は、インターネットについて、―そこには中心がない。つまり、すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない―『動物化するポストモダン』p52
といってはります!!
そんな感じの残念な本
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一気に最後まで読んでしまいましたが、それは面白いからではなく、中身が薄いから。
東浩紀やなんかの論説を年寄り向けにわかりやすく翻訳したようなイメージでしょうか。自説は無し。
特に問題なのは、「リアル」さ全くが浮き上がってこと。
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なぜ日本だけ、キャラクター産業が活発なのか?ということに興味があって、読みました。
内容は薄めで、答えは端的にいつと「癒し」だそうです。うーん
後半はキャラクターを多義的にとらえて考察しているけど、事象を並べているだけで、うーんという感じでした。
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若者のコミュニケーションはキャラ化、そしてパターン化しているという主張に、共感と背筋が凍るような感覚を覚えた。
もしお決まりから外れたら、誰ともコミュニケートできなくなるのではないか。
お約束のなかでどんどん人を追い詰めても気がつけない、その日とは声が上げられないのではないか。
一つ疑問に思ったのは、若者はキャラを演じていると言うならば、中高年たちのコミュニケートはどんなものだろう。
中高年たちにも、キャラ化する土壌はある。それなのに、キャラ化していないというならば、どういうものなのだ。
そしてなぜキャラ化していない人がいるのだろう。
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なんでもかんでも「キャラ」と絡めるせいで、こじつけに近いものがやたらと多い。あと「キャラ」という言葉の定義がしっかりされていないから、前半と後半で同じ言葉が違うもの/現象を示しているのがすごく気になった。これ読むなら動ポ読んだ方がいい気がする。
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日本人が「仮想現実」とどのような関係にあるかを「キャラ」を通して解き明かす本
最近の日本人は生身の現実よりもバーチャルな「仮想現実」にリアリティを感じる傾向が強い
キャラクターの効能やら日本における位置づけは理解できるのだが、キャラが先行しすぎていて押し付けがましく強引に論理を組み立てている感じがする箇所があった
一つ大いに共感できたところは、日本人のコミュニケーションの主体が「キャラ」であり、「キャラ」がなければその集団における居場所がないのも同然だと述べていることである
自分の意見を述べたり、話し合いをしたりといった深い
コミュニケーションよりも表層的なコミュニケーションを取るほうが好まれる現代においては、話題共有しやすい「キャラ」を作る事が無意識のうちに求められているのかもしれない
それに失敗したら社会的な抹殺や儀礼的な無関心を受けてしまう=アイデンティティの喪失である
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つい最近「キャラ」というものについて考える機会があり、関心を持っていた所でたまたま本書が目についた。『キャラ化するニッポン』という題で著者はバンダイキャラクター研究所所長、なるほどこれは面白そうだということで読んでみることにした。
「キャラ化」とは私たちが生身の現実世界よりも仮想現実、キャラに強い魅力やリアリティを感じる現象のことである。その一例としてストレス度の高い小学生がアニメキャラクターに親友や父親以上の安心を覚える、なんて驚きのデータもあるそうだ。また人々が漫画やアニメのキャラクターに愛着を感じること以外にも日本では様々な分野において「キャラ化」が進んでいると著者は言う。
例えば政治における「キャラ化」の端的な例として挙げられているのが宮崎県の東国原知事。ひと昔前であれば地方の一知事がTVのワイドショーなんかに出ていれば「そんな暇があるならもっと働け!」と言われようものなのだが、実際は絶大な人気・知名度を得ている。「キャラ」としての東国原知事に「キャラ化」した民衆が魅力を感じた、ということだろう。
本書ではこうした「キャラ化」の事例が政治の他にも経済・芸能・コミュニケーション等々取り上げられている。特にコミュニケーションの「キャラ化」は筑波大学で伺った内容とも関連しているところもあり、興味深い事例も多かった。ただ「キャラ化」の事例紹介に終始している感じがあり、その社会背景や今後の展望についてはデータも少なく論も浅く残念だった。
一方この著者が上手いと思えるのはこの「キャラ化」という現象に対して中途半端に自分の意見を差しはさんでいない所。恐らくあえて自分の意見を排除しているのだろう(そのせいで論が浅くなってしまっている気もするが)。著者の主張がないため少し歯がゆさがあるのだが、そうすることによって読者が「キャラ化」の是非について自分自身で考えて欲しい、と言う意図が読みとれる。個人的な意見としては過剰な「キャラ化」には根拠のない不安を覚えるものだが・・・僕自身、「キャラ化」しているという自覚もあるので何とも言えない気分である。
日本が「キャラ化」しているというのは間違いない事実だ。ではこの「キャラ化」が進んでいる社会がこのままいくと10年後、20年後どうなっていくのか・・・是非考えて欲しい。その取っ掛かりとしての1冊である。
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「○○キャラ」というようにキャラによるパーソナリティの決定が最近多いなと感じてこの流れは何だろうと思って手にとった。
正直、人を「○○キャラ」という風に規定し、その通りの言動をしないとキャラと行動が一致しないなどという会話にやや下らなさを感じている。人間はそんなに単純ではない。
一方で、「キャラ」を立てることで人との関係を円滑にすることもできるのだなとも感じる。
キャラを立てることが「エッジ」を立てるまでの間の代わりなのか。
またキャラの決まり方が集団の中での相対的なポジションで決まる。
「対外的パーソナリティと対内的パーソナリティ」・「身体と内面」の間で整合性が取れていればいいのだが、ここにギャップがある中でキャラを演じつづけて本当にその人間を理解できることになるのかななどと考えてしまった。
人の認知を怠けすぎていないだろうか。
キャラ問題については俯瞰的にこの状況をもう少し見て行きたい。