紙の本
深沢七郎氏が各地を放浪した際に旅先で出会った人々との会話や先輩作家のことなど、様々な思いが綴られたエッセイ集です!
2020/08/29 11:28
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『楢山節考』(中央公論新人賞)や『みちのくの人形たち』(谷崎潤一郎賞)をはじめ、『笛吹川』、『甲州子守唄』、『庶民烈伝』などの傑作を発表してこられた深沢七郎氏の作品です。同書は、「ボクは住所も職業もさすらいなのである」という一文から始まるもので、1960年代初め、各地を転々としながら書き継がれた文章の数々を纏めたものです。著者が旅先で出会った市井の人びととの会話や先輩作家のことなど、飄々とした独特の味わいとユーモアがにじむエッセイ集となっています。ぜひ、深沢七郎氏の一つの顔が垣間見える作品となっています。
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ロングセラー『言わなければよかったのに日記』の姉妹編(『流浪の手記』改題)。飄々とした独特の味わいとユーモアがにじむエッセイ集。〈解説〉戌井昭人
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また中公文庫で深沢七郎の本が出たから買った。こうやって出てくるものをどんどん買っていくと重複も多く、この随筆集の巻頭「流浪の手記」は結構まえに読んだちくま文庫『深沢七郎コレクション 転』にも入っていた。
しかし読み終えてからやっと気づいたのだった。深沢七郎の随筆は完全に「話体」であり、読んでいる最中はおもしろく読むけれど、流れゆく川のようなもので、あまり強い記憶を残さない。そのように流転し続ける自然の河川のようなイメージが、作家・深沢七郎の本質でもあるだろう。
本書の中では、クラシック音楽について言及したところが興味深かった。
「クラシック音楽は音を楽しむのではなく音楽に思想だとか、感情だとか、空想だとかをのせようとしたもので音楽とはちがった道だと思う。・・・音楽はリズムで表すより外に方法はないはずである。」(「渡り鳥のように」P147)
「若い時は好きだったが今は嫌いなのはベートーヴェンのように音楽に思想を盛り込もうとすることは音楽の邪道であると思うからだ。・・・やはり、土人の太鼓や日本のでは鼓が好きだ。だからボクはマンボやロカビリーが好きなのだ。」(「買わなければよかったのに日記」P170)
深沢七郎自身、作家業より音楽が好きで(ロクに本も読んでなかったように思われる)、ギターをかき鳴らしつつ、シンガーソングライターのように歌を作って弾き語りもしていたらしい。その彼が、音楽の原初の姿として「太鼓」に行き着いたというところが面白い。
それより何より、一番印象的だったのは、「白鳥の死」という一編だ。これは、私の知る限り深沢七郎の文学世界における白眉というか、異様な作品と言って良いかもしれない。ふだん「生きているのはひまつぶし」とか「生きていることは屁と同じ」などとふざけたような無ー価値観を展開している深沢だが、この一文においては、正宗白鳥という尊敬すべき先輩作家の死に際して、死生観を裸形のままに吐露し、これまで彼にはあり得なかったような真面目な?人生論を吐くのである。「(俺も、ぜったい、自分の道を)」(P236)
この文章では何故か彼の諧謔調という皮膜が破れてしまっている。
「昨日まで「正宗先生」と言っていたのだが、「センセイ」とか「サマ」などという敬称は、いらないのだ。どんな賢い者も、どんな阿呆の者でも、どんな美しい者も醜い者でも、どんなに地位があっても、権力があっても死ねば誰でも同じ物になるのだから、私はほっとするのである。」(P210)
そこでこの文章では「白鳥」と呼び捨てにされており、回想シーンの中で正宗白鳥の病床の脇に立ちながら「(弱音を吐いたか、白鳥)」などと心の中で言ったりしている。・・・いやいや、その時点ではまだ死骸になってないから。
そうして先輩作家を呼び捨てにしながら、この瀕死の病人を冷酷なまなざしで見つめている、深沢の不気味な目が出現する。
そういえば、深沢の何か得体の知れないような、一見バカのようにふるまいながらもときおり何やら怖くなってくるような気にさせる語りの水面下/亀裂、それは即物的な死のただ中から生を逆照射するような視線のたちあらわれではないのだろうか。
この文章での深沢はあまりにも残酷だ。
しかも、そうした読者を凍り付かせるような語りの果てに、死に対峙する生ある人間として、「俺も、ぜったい、この道を」という指標が浮上してきたような気がする。
この興味尽きない不思議な作家、やはり非常に面白いと思う。いろいろ既に重複してしまっているけれど、古本で揃いがあれば『深沢七郎集』全10巻、買ってみようかなあ、と思い至った。