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古代ギリシャのソクラテス、アリストテレスからヒューム、アダム・スミスを経て、二十世紀へ。「幸福」をキーワードにたどる哲学史
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「幸福」とは何か。巻頭に掲載された水墨画に見せながら、時には詩文を読ませながら、「幸福」の問題へといざなう。人単位の論考なので、ぶつ切れ感はあるものの、各人の考え方がよくわかる。やはり、「幸福」は至極個人的な状態なのである。
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担々と進む日々を切り裂く唯一の変化が、白いねこの死を悼むねこの号泣の場面だ。白ねこを抱き、大口を開けて泣くとらねこの絵も強烈だが、「夜に なって、朝に なって、また 夜に なって、朝に なって、ねこは 100万回も なきました」という文も強烈だ。
が、悲しみの強烈な発現は不自然ではない。それまで泣くことのなかったねこが腹の底から100万回も泣きに泣くというのは、白いねこへの愛情の深さと、白いねことの共同生活の充実ぶりをものがたって余りある。100万回も生きて死に、死んで生き返ったねこは、白いねことの充実した日々を生きることによって、本当に生きたといえる時間をもつことができたのだ。(p.28)
幸福は、普通には、喜びや、うれしさや、安心感といった感情を心持ちと関連づけて考えられてきたし、わたしたちも序章ではそのような観点に意を用いてきたが、アリストテレスは幸福を感情と結びつけて考えようとしないし、また、幸福が偶然に左右されるものとは考えない。そうではなくて、幸福は人間の思考と行動に深く結びつき、思考と行動からーもっといえば、すぐれた思考と行動である徳からーまっすぐに出てくるものだと考える。(p.61)
『道徳感情論』において教官が人間の感情の根幹をなすのに見合って、取引と交換は『国富論』において人間の経済活動の根幹をなすものとしいて提示されていると思える。共感が人と人のあいだに成立す社会的感情であるのに見合って、取引と交換は人と人とのあいだに成立する社会的行動だ。人間が本来、孤立した一個人ではなく、寄り集まってたがいに関係しつつ生きる社会的存在であることが、ここでもしっかりと踏まえられている。社会的存在である人間の、感情面での土台となるのが共感であり、行動お面での土台となるのが取引と交換であるかのごとくだ。(p.151)
『道徳感情論』も『国富論』も、幸福を主題とする書物ではないし、幸福を目標に掲げる書物でもないが、人間をその社会性においてとらえる人間観ないし社会観は幸福論への門戸を大きく開くものだった。人間が他人とかかわって社会を生きることは、感情面においても行動面においても、幸福の可能性を秘めた営みだという確信がスミスにはあり、その確信が二つの主著を明るく開かれたものにしたのだった。(p.159)
わたしには明々白々なことだが、人は幸福になろうと思わなければ絶対に幸福にはなれない。だから、自分の幸福を望まなければならないし、自分の幸福を作り出さねばならない。
もっといわれて当然なのだが、幸福になることは他人にたいする義務でもあることだ。幸福な人しか愛されない、とはよく耳にするものいいだけれども、幸福な人は愛されて当然だし、愛されるに値する人であることが忘れられている。というのも、わたしたちみんなが吸う空気のなかには不幸や憂鬱や絶望がふくまれているからで、力強い実例を示すことによって瘴気を払いのけ、みんなの生活をおなにほどか浄化してくれる人にたいしては謝意を表し、勝利の栄冠を授与しなければならないのだ。(pp222-223 アラン『幸福論』)
制度も、技術も、物も、情報も、人間の手になる人為的・人工的なものでありながら、人為的・人工的な世界の真っ只中に生きる人間が自分と分裂し、社会と分裂して生きることを強いられる。そこに現代人の不幸の根本があるとラッセルはいう。思い返せば、個人が自己への興味の虜になり、孤立した自閉の世界を生きるという病理現象も、同じ事態を別のことばで表現するものにほかならなかった。孤立と自閉へと人びとを追いこむ文明の進歩は、見かたを変えれば、人びとに退屈な状態を強いるものであった。(p.247)
幸福が穏やかさ、安らかさ、ゆるやかさを基調とすることはわたしたちがくりかえし確認してきたところだ。進歩主義につきまとう公立・迅速を尊ぶ心性や、効率と迅速を求めるがゆえの、競争、緊張、労苦、忍耐は、幸福の基調たる平穏さとうまく折り合うものではなく、むしろ平穏さを乱し、安らかさを壊す可能性の大きい心の動きだからだ。実際、個人が、あるいは集団が、効率のよさをめざし、競争に勝つべく必死に努力と忍耐を重ねているとき、当の個人ないし集団が穏やかでゆるやかな幸福の境地にあるとは思えないし、努力と忍耐のそのむこうに幸福が遠望されているとしても、努力と忍耐が度を越せば、望まれる幸福もゆるやかな平穏さにそぐわぬ熱を帯びてしまう。熱を帯びた幸福や幸福への願いは、幸福の本性にそぐわない。(pp.262-263)
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「幸福」は静かで穏やかな状態という筆者の考えは共感できる。
でも、すべての人にとってそうなのかというところは疑問に思う。賑やかな状況にいることを幸福と感じる人もいるかもしれない。
幸福は主観的なものだから、改めて論じにくいものと思った。
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「幸福とは何か」という壮大なテーマを扱う本書の序章で、著者は与謝蕪村の「夜色楼台図」の情景、三好達治の「雪」という詩を持ち出し、そこから著者が感じた「静けさと平穏さ」が幸せの基本的な条件ではないかという仮説を立てる。また、絵本「100万回生きたねこ」を取り上げて、描かれたねこの生涯から、ねこにとっての本当の幸せは何だったかを思索している。
そうした仮説をもとに、著者は古代ギリシャ~古代ローマ時代の哲学、18世紀の西洋近代思想、及び20世紀の西洋思想において語られる「幸福論」を検証していく。
本書で取り上げられた人物は次の通り。
■古代ギリシャ~古代ローマの哲学
ソロン
ソクラテス
アリストテレス
エピクロス
セネカ
■18世紀の近代西洋思想
ヒューム
アダム・スミス
カント
ベンサム
■20世紀の西洋思想
メーテルリンク
アラン
ラッセル
ソロンは政治権力や社会的栄達(クロイソス王)をただちに幸福とするよりも、一人の人間(戦士テッロス)の生涯を通して幸福を考えるべきだと考えた。
ソクラテスは「知」や自ら信じる「正義」のために、死をも恐れることなく生涯を終えた。客観的にみれば、死を選択したソクラテスは不幸のように思えるかもしれないが、当の本人は「知」や「正義」のために生き切ったことがむしろ幸福であったのだということを述べている。
アリストテレスの「二コマコス倫理学」(=「徳」とは何か、立派な生き方、優れた行いを問う)において、徳を考えた生き方や行動の目的を「善」とし、その最高善が「幸福」と考えられている。徳ある人は、善のために生き、行動し、究極的には幸福のために生き、行動するということだろうか。そうであれば納得できるが、著者はアリストテレスの観想的な幸福論にはやや否定的のようである。
エピクロスは、個人の感覚を重視する。次の言葉が分かりやすかった。
「幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だのがあるとか、こんなことに属するのではなくて、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである。」
また、「快とは祝福ある生の始めであり終わりである」「身体の健康と心身の平静こそが祝福ある生の目的だ」という言葉も印象的だ。
セネカは「幸福な人生について」でこう述べていた。
「我々は自然を指導者として用いねばならないのである。理性は自然を尊重し、自然から助言を求める。それゆえ、幸福に生きるということは、とりもなおさず自然に従って生きることである。」「外的なものを求めるがよい。しかし理性は再び自らの中に立ち帰らねばならない。」
ソクラテスやアリストテレスが都市国家(共同社会)の一員として生きることが、正義であり善の追究であったが、暴君ネロに仕え自殺に追いやられたセネカには、共同社会を離れた一個の生活における幸福への視点がある。
ヒュームの思想は、やや極端に感じられた。経験から得られる「印象」「感情」がすべてであるという。「感情」と「理性」という対比については、「感情」のほうが優位と考える。経験から理論や法則へと向かうのが哲学や科学の一般であるのに対し、ヒュームは頑なに経験の領域に踏みとどまろうとする。
「幸福」ということについていえば、「幸福論」というものはなく、経験の中で「幸福」と感じた瞬間が「幸福」だということになるだろうか。
「国富論」で著名なアダム・スミスもヒュームと同じくイギリス経験論者の一人であるが、そのスミスは「共感」ということを軸においていた。人間が他人とかかわり、社会とかかわる中で「共感」する生き方は、感情的にもまた行動面においても幸福の可能性を秘めたものであると考えていた。
カントは、行動の是非善悪を左右する道徳的法則は、個人の理性が己の中から紡ぎだすものであると考える。すなわち理性には自由があり、自らの意思でそれを紡ぎだす内発的、自主的なものであるとする。
カントは「幸福を望むことは人間の本性であるが、だからといってそれは義務でもなく、目的とすべきことでもない」という趣旨のことを言っている。
幸福は意志によるもの、自己選択によるものととらえてよいだろうか。
ベンサムの言葉に「最大多数の最大幸福」という言葉がある。功利主義の代名詞的な言葉であり、その着眼は経済活動に軸足を置いている。「利益、快楽、善、幸福」vs.「損害、苦痛、悪、不幸」の構図がある。
「何をもって幸福が成り立つかといえば、快楽を享受することと苦痛を感じないでいられることがそれだ」
この考えを個人にのみ適用しているうちはよいが、ベンサムは個人の幸福の総和が共同体の幸福と考え、共同体の幸福を重視することで、一部の個人の不幸に目をつぶろうとする不合理さがあると思える。これは、今の現実社会にも実際に存在することだ。
メーテルリンクの「青い鳥」。青い鳥は「幸福」の象徴として描かれている。捕まえたと思ったら、逃げられていた。それでも思いもよらぬところで見つけることもできる。「幸福」を掴むことは難しいけれども、「希望」を失わないで求め続ける姿を現しているようでもある。
現代の幸福論として、アランの幸福論とラッセルの幸福論が紹介されている。
アランの幸福論は、日常の出来事の中に感じられる幸福について述べられた言わばエッセイ的なもの(プロポ)の寄せ集めである。
「幸福は私たちのもとからいつでも逃げていくといわれる。人からもらった幸福についてはそれは本当だ。人からもらう幸福など存在しないからだ。しかし、自分の作り出した幸福はだましたりしない。それは学ことであり、人はいつでも学んでいるのだから」
また「自分の心と体を落ち着きのある安定した状態に置き、冷静に外界と対峙する。それが人間にふさわしい一の取り方だ」とアランは言う。
自他ともの幸福という発想がある。相手の幸福を思い、それが達成されることが自分の幸福につながるという発想だ。それをさらに発展させ、相手も自分の幸福を願い、その達成によって自らの幸福を得ようとしている。そうであるならば、自分の���福は他人に対する義務でもあるという。この発想にははっとさせられた。
最後にラッセル。
一見深刻そうに見える不幸についても、その不幸を脱することは可能であり、不幸を幸福に転じることは可能だと考える。不幸の大半はまちがった世界観、まちがった倫理、まちがった生活習慣によるもので、それらを正すことができるのだという。
現代でいうならば、外界とのつながりが希薄となり、疎外感に見舞われた自閉状態がある現実に対し、外界に興味をもつことが幸福獲得への一歩であるというのがラッセルの考えだ。
西洋の幸福論を概略的に学ぶことができ、それぞれに共通する視点もあるし、着眼点が異なるということも感じられた。そのなかで、ただ座して「幸福」が得られるというものではないということに確信がもてたことと、「幸福」の機会は、誰にも平等に与えられているものであるということが再確認できたように感じる。
先人の言葉をヒントに、我々が自らが進めていくものであるのかな。
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プラトン・アリストテレスの古代から、西洋近代、20世紀の哲学者まで、幸福についての捉え方がまとまっていて勉強になります。
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西洋を中心に、単純な「快・不快」では割り切れない「幸・不幸」の歴史について。
自己の捉え方の移り変わりとともに幸福についての考えも変わっていくのがよくわかりたのしい。
近代の幸福論はヒューム『人間本性論』から始まる。感覚、印象、観念、知性、感情、道徳、行為、経験の読みやすい解説。
そしてアダム・スミス、ベンサム、ラッセル。
ラッセルのパラドックスと論理学でしか知らなかったラッセルに、『幸福論』という著書があってちょっと驚いたというか結構ラッセルのところが読み応えがあった。
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レポート書くために読んだ本。
功利主義を中心として書こうとしてたけど、それについてあんまり書かれてなかったのが残念。
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哲学における「幸福」とは何かを、時代を追って振り返りつつ、私たちにとっての幸福を考える好著。
幸福論と西洋哲学の相性の悪さが、内容の豊穣さを生んでいる。
エッセイとして、静かに内省的に読める。自分の人生を振り返る糧になる。
222pの「幸福になる義務」の節、そして、終論は味わい深い。
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・幸福とは「心身の健全さ」である
・幸福になるためにすべきことは「穏やかな前進」である
・結果的に「自分自身に対して無関心になる」ことが幸福論のゴール
「倫理的な緊張に堪え忍び、ストイックな努力を積み重ねることによって得られる価値序列の最上位に位置するもの」といった幸福観に対して、「静かで、穏やかで、身近にあるゆるやかなもの」という幸福観を比較提示しているのが本書の大枠だと思います。
何故かは分かりませんが、自分自身が前者の幸福観に支配されていたことが本書を読んで分かりました。
何というか、「幸福になれない(と感じている)のは、幸福になるのがとても大変なことだからだ」と自分に言い聞かせていたような気がしました。
「幸福とは身近なものであり、だからといって簡単に手に入るものではないけれど、少なくとも修行のような人生を経なければ得られないような高みにあるものではない」というのが、本書を読んで感じた幸福に対するイメージです。
幸福になるためにすべきことを一言でまとめると、「穏やかな前進」になるかと思いました。
本書から得た気付きは2点あり、一つは「幸福とは瞬間ではなく期間に対する言葉である」こと、もう一つは「幸福には成立と持続の2側面がある」ことです。
よく「幸福は"ある"ものだ」という意見と、「幸福は"なる"ものだ」という意見の対立を見ることがありますが、前者は幸福の「成立」に、後者は幸福の「持続」に対応しているのかと思いました。
それらはどちらが正しいというものではなく、幸福を構成する2側面であると考えると、辻褄が合うような気がしました。
つまり、幸福で"ある"ために「身近にある心の穏やかさの重要性に気づく」必要があり、また幸福に"なる"(幸福である状態を持続する)ために「外への興味・関心に集中し、小さな前進の努力を重ねる」必要があるのだと理解しました。
これらを一つにまとめると、「穏やかな前進」になりました。
本書を読んで幸福というとらえどころの無いものに対する見方がかなり定まったように思います。
やはり色々考えても幸福というものはなかなか判然とせず、雲を掴むような感覚を感じるなぁと思います。
幸福論と哲学的思考は相性が悪い、と本書に書かれていましたが、全くその通りだなと思います。
幸福について真剣に考えた結果よく分からなくなった、という体験自体が大きな学びかなと思い始めました。
自己の内面に向きすぎると必ず不幸になる、という話からも、「幸福って何だろう?」なんていう取り留めもない考えはほどほどにして、「幸福とかよく分からんけどとりあえず外の世界にある面白そうなものを探そう」というのが明日からの心構えになりそうです。
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本書はヘーゲルの本の翻訳などで知られている長谷川氏による「幸福論」の概説です。本書では、ソクラテスから始まり、アリストテレス、セネカ、そしてヒューム、アダム・スミス、ベンサムを経て、20世紀のアラン、ラッセルにいたる哲学者が幸福をどう捉えていたか、を解説しつつ、実は長谷川氏本人の「幸福論」も展開されている本です。結論から言えば非常に満足していますし、長谷川氏が冒頭に述べている「静かで平穏で身近」なところに幸せはある、という主張に100%同意できました。しかし、めまぐるしく外部環境が変化し、競争や効率性に対する強迫観念が渦巻いている現代社会に生きる我々からすれば、「静かで平穏で身近なところにある幸せ」は、少し贅沢で得るのが難しいものになっているのかもしれません。
個人的には、最後に紹介されていたバートランド・ラッセルの幸福論に強く共感しました。ラッセルが不幸の原因として戒めている「自分自身への興味」は、仏教的に言えば自我への執着でしょう。ラッセルは、対策として興味を自分の外に向けるべきだと述べていますが、仏教であればむしろ自己を見つめ続けよ、さすれば自己など無いこと(無我)を悟り、自分という存在は他者とつながっているということを認識するのだ、という道筋を示されるのかと思います。その意味では仏教の幸福論(例えば密教や禅宗、浄土宗などでどう考えられているか)というテーマも取り上げてもらえるとさらに面白かったかなとは思いました。
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本を読みながら、印象に残った箇所、覚えておきたい箇所をノートに写すようにしているのだけれど、この本は、全部写したくなるくらい最初から最後まで感動的な一冊だった。クセノフォン、エピクロス、セネカなど古代ギリシャから始まり、ベーコン、デカルト、ヒュームなど西洋近代を経て、アダム・スミス、カント、アラン、ラッセルの幸福論を復習っていく。時代とともに人々が「幸福」という観念に見出すものが移り変わることを学び、それを経て、2023年の今、どういう状態が「幸福」と言えるのかを考察する。
最も印象に残ったのは本の後半、「幸福」と「自由」、「幸福」と「思考」あるいは「理論」がそれぞれ相反する観念であるという点。安定して静謐な状態の中でもたらされる幸福と、向上心やときに競争心をも必要とする自由や思考。その二つは方向性の違う観念なので、両立可能なものではない。手に入るのがどちらか一方の場合、いま自分は幸せになりたいのか、自由になりたいのか。穏やかに暮らしたいのか、刺激を求めているのか。そのときどき、自らに問いかけて立ち位置を確認しながら生きていく必要があると感じた。
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幸福論の西洋哲学史の解説書である。三好達治の詩やメーテルリンクの青い鳥などを取り上げてわかりやすくイメージを説明してくれる。当然ながら「幸福」の定義は時代と場所によって違う。ギリシャローマの「幸福」は神と結びついていた。神に認められることが幸福であり、徳や善から導かれる行動こそが幸福なのだ。次に近代になると社会性が現れ、そこに「共感」という概念が出てくる。カント以降、幸福は生活への満足であり道徳とは一線を引かれる。そしてアランからラッセルへ。自己への興味から外界への興味が幸福を生む。孤立や自省から逃れ、興味の対象をより広範囲に広げ好意的に捉えられるものを増やしていくことこそが幸福を獲得する方法となる。近代以降、進化が良いことという思い込みに囚われて進化の奴隷となってきた現代人にとって、文明の発展が人々の孤立と自閉を生み出しているという悲観的な現代で締めくくられる。しかしラッセルが「幸福論」を書いたのは100年近く前。現代を語るのに現代哲学にまったく触れないのは物足りない。著者が高齢なこともあるだろうが現代に対してなぜこうも悲観的なのか。光はないのか。
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幸福論が書きたくて参考図書として購入。そもそも、哲学で幸福を論じるのは難しいことなんだな。人によって感じ方も違うし、時代背景でも大きく変わるだろうし。それでも、ある程度共通する幸せってあるのではないだろうか。本書にはいろいろとそのヒントが書かれていた。僕が最も悩んでいるのは次のことだ。幸せになるために、いまを耐え忍ぶというのは幸せなことなのだろうか。志望校に合格するという未来には、きっと自分の幸せがあるはず。そのために、いま好きなことやりたいことを我慢して、好きでもないやりたくもないことを無理強いされている。それって、やっぱり何か違う。学ぶこと自体が楽しいと思える子だったら何の問題もない。毎日の勉強が苦しいと思っている子に、将来の夢に向かってがんばれと言い続けるのは正しいことなのだろうか。僕の幸せって、仕事を終えて帰ってきて、夕飯食べながら録画しておいたドラマを見ること。そんな日常の些細なことなのだ。ちょいむずの数学の問題が解けた~というときもまあまあ幸せ。それから、ときどき、人生のアクセントとして、誰かや何かとの出会いがあったりすればいい。たまたま、今日は郡司さんの本で知った中村恭子さんの日本画を、わざわざ大阪中之島まで見に行った。素晴らしい作品だった。その色鮮やかさ、繊細さ、さらにユーモラスな表情など、もう、ちょっと衝撃的な出会いであった。作者ご本人にも会えて、少しだけお話ができた。こんな出会いが、僕にとっては格別に幸せな時間なのだ。村上春樹がよく言っている。小確幸=小さいけれど確かな幸せ。これがやっぱり万人に共通な幸せなのだと思う。でも、大金持ちだとか、大きな権力をもった人とか、また違うのかなあ。でもなあ・・・。ということで、幸福論を12回連載することになった暁には、小確幸の具体例を挙げながら、こんなのが幸せなんじゃないかなあ、という語り口で行こう、と思う。
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まず文章が硬すぎる。アリストテレスを道学者風などと批判的に分析するが、著者もそれに劣らず、といった感がある。おそらく最後に検討したラッセルに依拠して、人の幸せとは、地味でひかえ目で身近な穏やかな生活を隣人と片寄せあって過ごすこと、というのが著者の「幸福観」であると思われる。その帰結から、古代、近代、20世紀の西欧哲学者の幸福論が論断されていて、全体に客観的な記述ではない。
勿論、いいたいことはわかるし、間違っているとは思えないが、個々人が他者との共存を守る範囲では、派手で目立つ華やかな生活を送ろうとすることも、個人の自由であるし、その人の「幸せ」であることは否定しえないように思う。国との関係では「大状況の色に染まらない、自分独自の幸福」というのは、その通りではあるが、著者の主張は、身の丈に合った慎ましい生活を甘受せよ、という押しつけ風にどうしても聞こえてしまう。
他方で、経済学の祖・アダム・スミスが共感の道徳を踏まえて、各人の差異に応じて、他人との取引・交換をするという社会活動こそが経済活動の根幹をなす、と考えていたという趣旨の分析は面白かった。また時代ごとの社会の変化・当時の思想潮流とを踏まえて、哲学史が検討されているのも参考になる。
それにしても、やはり全体として堅苦しさがあることは否めない。