紙の本
新しい視点を教えてくれる
2020/07/28 12:46
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投稿者:kater - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の作品は読んだことがありませんでしたが、名前だけはNHKラジオの「すっぴん」(2020年3月終了)や同ラジオ「飛ぶ教室」で知っていました。たまたま書店でタイトルに興味を惹かれて買ったところ、言葉遣いは易しいのですが、内容は結構難しいと感じました。最初に紹介されている「ロンメル進軍」という詩集については、「えっ!?」という感じでしたが、驚きました。というのは、「1891-1944」というタイトルしか書かれていないものを読むことが課題でしたが、私は5分考えても理解できませんでしたので。
紙の本
参考となりました
2021/10/14 06:27
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投稿者:さたはけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
日頃何気なく、文章を読んでいるのですが、行間を読むというか、空間を読むということを考えたこともなかったので、受け入れがたい何かを感じました。しかしながら、著者の本当の想いを感じ取ろうとするにはそのような気持ちも大切なのかとも思いました。
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学校で教わる読み方は、「読む」ことの一部に過ぎないんだと気づかせてくれる。もっと私の中から聞こえてくる「声」の由来に敏感でありたい。「社会」と「私」の間にきちんと線引きができるように。
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永沢光雄さんの文が引用されてて、涙しそうになった。
永沢さんの文章を使ったような授業、受けてみたかった。
しかし言われてみれば私も、永沢さんの『AV女優』を読んで、教室の外へ出た人間のひとりであるような、そんな自負もある。
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以前はよく本を読んでいたけれど、ここ数年はもっとお手軽に暇を消費できるアイテムを手にしたことで、読書から離れがちでした。(アイテムとは、スマホ・ツイッター・ゲームアプリとかです)
あらためて「読むこととは?」と問われても、答えられない。
そんな毎日のなか、この本の発売をTwitterで知り、本屋にかけこみして買いました。
最初はシンプルで、学校の国語の手引き書の紹介とかでつまらないかも…と思ったところで3時間目で目が覚めました。
「えーっ、そんなことっ!」って慌てたのです。思い切り心が動いた=感動です。この他にも、恥ずかしくなったり寂しくなったり恐ろしくなったり。
そして、印刷されている文字数以上に、自問自答しました自分なりに。行間や字間を考える前に、本編で紹介されている文章を繰り返し黙読し、自分の心の動き、考えたことと向かい合いました。
ああ、これが「読むこと」なんですね、と納得。
また再び、多くの本を読みたくなりました。
私、死ぬまで本を読み続けます。
高橋様、NHK出版様、素敵な本をありがとうございます。
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出版されたのは知っていたけど読もうか迷っていて、書店で実際にパラパラめくってみた結果、必読と思い入手に至る。作者の書評は、折につけ目にすることがあり、その着眼点の鋭さには感服させられることしきり。そんな彼が、読書そのものについて論じている訳だから、それが退屈な訳がない。もちろんただの読書術論に終始することはなく、国語教育からひいては学校教育に対する疑義提示へと話は広がっていく。特に国語なんて、決まった答えがある訳もなく、でも正解ってのは存在して、それは結局、誘導尋問みたいなもんなんだな。
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本の読み方など、考えたこともなかった。小学校で習ったことも、すっかり記憶から抜け落ちてる。改めて学べて良かったと思う。
坂口安吾の昭和天皇に向けた文章には驚いた。当時、あんな文を発表できたなんて…。
『審判』も重い。『無言のがいせん』も、胸が苦しくなった。
考えさせられる文ばかりだった。今まで本を読むとき、何も考えていなかったような気がする。今後は、少し立ち止まって考えながら読むようにしよう。
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短い文章で本質を伝えるのは難しい。正論を大上段に述べると引かれる。文章も言葉も人に考えさせることが出来ることが、その価値を上げる。そのような文章を書ける人である。単なる読書論ではない。
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"優れた作家だけが、その「目に見えない」「国家」や「社会」を、「文章」という形で、浮かびあがらせることができるのです。“(引用)
やっぱり言葉はおもしろいし、読むのは楽しい
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「街中を歩きまわりなさい。空っぽの乳母車を押して。」
「ある金額のドルを選びなさい。そして想像しなさい。a その金額で買えるすべての物のことを。」
オノ・ヨーコさんが、わたしたちに「やる」ようにいっていることは、この社会では、ぜんぶ「無意味」で「無価値」なものばかりです。一円にもならない。そんなことをやっているのは、愚か者、落伍者さ。頭がオカシイんじゃないの。
まるで、砂場でお城を作っては壊し、また、別のお城を作っては壊し、そのたびに、ゲラゲラ笑っている子どもみたいです。
そんなことを大のおとながやるなんて。
だから、わたしたちは、オノ・ヨーコさんのことばに警戒し、でも、同時に、なんだか、ちょっとやってみたくなる。そのつづきを、自分で書いてみたくなる。
たとえば、こんなぐあいに。
「教室を出て、外を歩く。二度と戻って来ない」とか、「教科書を燃やし、その火にあたる」とか。(pp.40-41)
「2011年10月21日 私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい。」
89歳のときに書いたこの文章が、鶴見さんの最後の文章になりました。この文章を書き終えて6日後の10月27日、脳梗塞を発症した鶴見さんはことばの機能を失ったのです。受信は可能、発信は不可能。しゃべれず、書けない。でも、読むことはできた。そんな状態で、長い入院生活を送った鶴見さんは、翌2012年4月に退院。それから、3年の間、発信を一切することなく、けれども、読書だけはつづけたのです。2015年7月20日、肺炎で死去。享年93歳でした。
どうですか。すごく静かな文章だと思いませんか。逆にいうなら、世間や社会で生きているわたしたち、学校で教わっているわたしたちが読む文章は、ちょっとうるさすぎるのかもしれません。
それは、おそらく、「社会」で生きている人たちに向けて書かれた文章ばかり読んでいるからじゃないでしょうか。(p.54)
わたしには、ひとつ、大切にしている原則があります。(中略)それは、たくさん問題を生み出せば生み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ、「いい文章」だ、ということです。つまり、その文章は、問題山積みのために、それを読む読者をずっと考えつづけさせてくれることができるのです。(中略)問題山積みの文章だけが、「危険!近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている、わたしは、そう考えています。(pp.64-65)
(坂口安吾)「陛下は当分、宮城にとじこもって、お好きな生物学にでも熱中されるがよろしい。そして、そのうち、国民から忘られ、そして、忘れられたころに、東京もどうやら復興しているであろう。そして復興した銀座へ、研究室からフラリと散歩にでてこられるがよろしい。陛下と気のついた通行人の幾人かは、別にオジギもしないであろうが、道をゆずってあげるであろう。
そのとき、東京も復興したが、人間も復興したのだ。否、今まで狐憑きだった日本に、始めて、人間が生れ、人間の礼節や、人間の人情や、人間の学問が行なわれるようになった証拠なのである。
陛下よ。まことに、つつましやかな、人間の敬愛を受けようとは思われぬか。」(p.73)
坂口さんの、この文章は、いや、この声は「天皇」にまっすぐ向けられています。こんなふうに、「天皇」に直接、声をかけようとした人はいませんでした。だって、「天皇」は、長い間、「人間」ではなかったのですから。
戦争が終わり、「天皇」は「人間」になったはずだったのに。なにも変わらなかった。それで、いいのでしょうか。だから、坂口さんは、「人間」であるはずの「天皇」に、直接、声をかけようとしたのです。
これほど、「天皇」に接近した「文章」を書いた人はいませんでした。
聖なる者として見上げるように書いた人、遠くからそっと眺めて書いた人、畏れ多くてとても見ることなどできないと書いた人、いやいや、あの方は「人」ではなく「神」なのだから、どう書いていいのかわからない、と書いた人。もちろん、中には、ああいう権力者は大嫌いだと書いた人も、戦争責任をとり処刑されねばならないと書いた人もいたのです。
けれども、そこにいる、そこのあんた、きょろきょろしなさんな、あなたのことだよ、といって、、方に手を置き話しかけた人はいなかったのです。(pp.78-79)
学校は、「社会」のことばを教える、いやもっと露骨にいうなら「植えつける」場所であり、その「社会」が、その奥に、どんなことばを隠し持っているかを見つけることは、ひどく困難です。
武田泰淳が書いたのは、「社会」によって滅ぼされた人間が、その最後の瞬間に、自分に植えつけられた「ことば」の正体を、だれか、別の「個人」に伝えようとする物語だったようにわたしには思えるのです。(p.102)
「いまは、病気をして、社会から隔絶され、人間にとって、何が一番大切なことなのか、というようなことを、考える。
浮かんでくるのは自分がキャッチボールをしているシーンだ。ボールは、一人からもう一人へ、いったりきたりしている。だんだん日が傾いて、二人の影も長くなりながら、彼らのまわりをめぐる。キャッチボールは続く。自分のなかに二つの場所をもつこと。二人の感情をもつこと。その大切さ。それが、いま私が痛感していることである。」(加藤典洋「もう一人の自分をもつこと」(2019年3月2日))(p.114)
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本書の帯によると「作家40年、初の読書論」となっているけど、初だっけ?
それはそれとして、パっと見た目は大きな字で簡素に書かれているので、子供向けと思われそうだけれど、内容はかなり濃くて大人である僕(年齢的には間違いなく大人)にもなかなか考えさせられるようなことが書かれている。
ただまぁ「読書論」という言葉から連想されるような内容とはちょっと違うのかな。
高橋氏は「小説の書き方」なんて本も出しているけれど、これだって「小説の書き方」という言葉から連想されるような内容じゃなかったしね。
なにはともあれ「何」を「どう読む」のか。
「どう読む」のかも大切だろうけれど、「何」を読むのか、もしかしたらこちらの方が大切かも知れない、なんてことを考えながら読み進めていた。
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子供の頃から習うけど、本当に読めているんだろうか。
そもそも習ったから読めるんだろうか。
そんな問いから始まり、読む事を考える。
いくつかのテキストを読み、一緒に考える。
大事な事が書かれている。
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「学校では教えない」といのはよく売り文句になるが、この本はそれとは違って、「学校が教えたくない」、あるいは「社会が教えたくない」本の読み方です
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学校の教科書で学ぶ読書の仕方は、登場人物の人柄をとらえる、表現の工夫を見つける、情景描写から人物の心情を考える、最も強く語りかけてきたことを考える、文章に対する自分の考えを持つなど。
著者は、そんな前置をしながら、学校では教えてくれない文章も紹介し、あたりまえと思われることを覆すような非常に奥深い読書論を論じる。
著者によると、問題山積みの文章こそ、読者を変えるいい文章だそうで、「社会」のことばを植え付ける学校の授業とは一線を画している。
オーソドックスとはいえない切り口の読書論であり、残念ながら、なかなか理解しづらいまま、読み終えた。
だが、坂口安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」における天皇に直接語りかける貴重な文章は共感でき、武田泰淳の「審判」に出てくる日中戦争での中国人殺害場面に「社会」が送り込んだ「声」の恐ろしさが表されているという点はなんとなく理解できた。
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低年齢向けでした。
読んで解釈までを教える現代の教育現場では本当に読むことにはなっていない。読んで自分で考えよう。
といったような本でした。