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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
学生時代に、ドナルドキーン氏という外国人なのに、日本の学者として有名な人物がいるから、読むように、と言われ、ドナルドキーン氏の著作物を読んで以来、数冊読んでいます。異国人ならではの見解がなかなか……
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文楽に関しては、ここに書かれている作品はほぼ実見しています。それだけに、ドナルド・キーン氏の知性が凡人の及ぶところではないことが、ひしひしとわかります。文楽は、文学的には近松でピークになり、その後は、人形や人形遣いの進化によって演出部分が発展し、芸能としての隆盛を築いたのですね。床本が何故複雑化へと進化したか、俯瞰的に理解できました。文楽を理解する上で、ベースとなる文献です。
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浮世草子、歌舞伎、浄瑠璃、国学と和歌、芭蕉以後の俳諧に触れる。以下、特に印象に残った箇所。
物のあはれの深さを書きのべたのが『源氏物語』であるから、儒仏の書にあるような善悪を書いているのではない。蓮の花を愛する人は、きたない泥水の中にそれを植えねばならないのと同様、『源氏物語』中の好色とも見える恋のかずかずも、不義の泥のためではなく、人の世の蓮花を見んがためである。
宣長にとって『源氏物語』の偉大さは、まさにその蓮の花の美しさにあったわけである。儒仏の教にとらわれて物語の中に教訓を探し求めるのは、「植おふしたる(植え育てた)桜の木を、伐りくだきて、薪にしたらむがごとし」であった。人間のもっとも深奥の感情に直接触れ、教誨はもちろん合理的な説明をいっさい付加しようとしていないがゆえに『源氏物語』は、至高の藝術的創造をなしえたのである、という立場だった。
人が『源氏物語』を読むのは、楽しみながら善悪の道を学ぶためでもなければ、単なるひまつぶしのためだけでもない。それは、物のあはれを知る心を養うためである。そして、物のあはれの奥には神の道がある。
すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず。これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり。かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書(ぶみ)などをよく見るにあり。然して古人のみやびたる情(こころ)をしり、すべて古の雅たる世の有さまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也。
p288