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3章まで。ものすごくしっくりと自分の中にあったものを言葉にして読んでいると感じる。自然科学の国語については、ちょっと難しいかなと感じるところはある。
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言語、普遍語、現地語、国語の歴史・国ごとの違いそして日本が今後どうやって英語と日本語の共存を考えていくかまとめた一冊。
英語との併用は大いに考えるところ。
二か国語の取得は難しいと言われているけれども、それを再確認させてくれる。
その中での国語の重要性そして英語に関してはバイリンガルは特定の人でいいという提案。
面白かったです
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英語圏で長く暮らした筆者の、いまや「普遍語」となった英語にたいする強いフラストレーションと、危機感。
英語などヨーロッパ語とは全くことなる言語を母語とすることに対する悲しみは日々感じているところだが、日本語が滅びていくことに対する危機感は正直薄かった。
この本に感化されて三四郎を読み始め、その危機感の端っこをつかめた気がしている。
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文学を中心とした日本語教育に力を入れろという主張。
文学教育と言語教育は別次元で議論するべきだと思うので、わたしは反対。
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招かれて乗せてもらった飛行機がビジネスクラスじゃないから家畜輸送。日本家屋を、木と紙でできた小さな家と言う。国外講習で笑われる自虐と思えば、ギリ譲れる。
でも、三味線や舞踊ができる祖母を、オムレツを作らない、欧州小説を読まないなど、自分の思う分野に触れていない事で"学が無い"とするのは、僕には冗談にも聞こえない。
もしかしたら、なんたら賞とってるし450頁もあるから最後まで読めば…と100頁は耐えた。が、本題の兆ししか感じない。あ、このパターン、自伝に売れるタイトルが付いたヤツだ…。
ぜひ、本のタイトルは変えて頂いて、この人の自伝を読みたい方に届けばいいなと思います。
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あらすじが優秀なので記入します。
日本語は、明治以来の「西洋の衝撃」を通して、豊かな近代文学を生み出してきた。いま、その日本語が大きな岐路に立っている。グローバル化の進展とともに、ますます大きな存在となった<普遍語=英語>の問題を避けて、これからの時代を理解することはできない。われわれ現代人にとって言語とは何か。日本語はどこへいくのか。
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本作は、水村美苗の人生経験や文学観を通して日本語がいかに変貌してきたか、英語の世紀の中でどのような役割を果たしていくのかについて様々な側面から語られる。冒頭は『三四郎』の引用から始まり、日本語が「亡びるね」の持つ意味について考えていく。
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帰国子女ベストセラー作家が書いた愛国主義的な片手間エッセイだと本書のことを想像していた。
実際、執拗に長い前半部分の「若い頃体験記」は軽薄な印象で、本書を途中で投げ出す寸前にまで動揺した。
しかし中盤ぐらいからの言語学や、果ては文明論まで持ち出した考察は興味深い。
内容は、英語の言語大流行によってもたらされる文化禍への警告である。英語ネイティブの無邪気、無自覚、無神経を非難する。
後半からはその考察をベースに日本近代文学論のようにもなっていき、漱石の『三四郎』を日本での先見性という一般的評価だけでなく、当時の世界での位置や「大学→翻訳→国語→日本近代文学」という歴史的シンクロとして解説する。本書の肝になっている論説として、英語という普遍語を母語としないが、英語が達者な二重言語者が近代文学または近代思想、あるいは国語を発見し、生み出したというのがある。これは著者にも当てはまることだが、さらに著者は女性であるということによって本書の興味深い考察が生まれたのではと考えられる。
増補ではサイエンスにとっての「国語」にまで言及。
本書で一番印象に残ったことばは「現在、〈叡知を求める人〉は日本文学だけ読まなくなった。日本文学は〈世界性〉に取り残された人たちのふきだまりになりうる」
「人にフッと言われた言葉」などその時は気にもとめない。しかし、認識というとのはしばしば途方もなく遅れてやって来る。「真理」を垣間見る機会を与えられても、思い込みによって見えない。何日、何年、何十年と時が熟し、その思い込みをようやく捨てることが出来た時、初めてその姿を表す。そして、その時人は、自分が本当は常にその「真理」を知っていたことさえも知るのである123
日本文学はれっきとした世界の文学の一片になっている。それは源氏物語などの他に近代文学をも持っているからだ。例えばその日本の近代文学の本質の一つは、日本語が「滅びる」(日本文化が滅びる)のを嘆くことが出来るだけの近代文学性(近代社会の歪みを「作品」にするだけの文化度)を持っていたという事実である(西洋以外の国ではそういう近代文学が無いらしい)。ブリタニカ百科事典には「日本文学」の項目で「世界のもっとも主要な文学の一つ」と載せられている128
名著『想像の共同体』を書いたベネディクトアンダーソンは多言語主義者で文化の多様性を重要視して評価されたが、彼自身が英語を母語とする人間であったため、数ある言語の中で英語が「普遍語」である暴力的事実についぞ気付かなかった。150
大衆消費社会の中で流行る文学は、確率的につまらない本が多い。それは普段本を読まない人が読む本であるし、ポップミュージックと同様、流行に敏感に反応するのを、まさに生物学的に宿命づけられている「若者」(流行に遅れてはツガイを見つけられない)のあいだで流行るからである。298
現在は知的な関心がある人ほど「今の日本の文学」だけは読まない。国語が生まれて百年以上が経ち「自分たちの言葉」だけで語れる日本の文学は、それで充足するようになり、「世界性」に注意を払わなくなった。ついには「世界性」から取り残された人たちの吹きだまりとなった。日本語で書かれた科学論文や歴史書や社会学の本は「世界性」があるのに、日本文学だけ無くなった。330
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自分が知らないものはとりあえずこき下ろすし、自分が知っているものに対しても長ったらしい理屈をつけてこき下ろすヒステリックババアの日記にしか読めない。何でこんなものが小林秀雄賞を獲ったんだ?小林秀雄に失礼すぎるだろう。
「憂国」を悪癖として自覚しているのならチラシの裏にでも書いておけばいい(というかそもそも5,60ページくらいであまりのひどさにパラパラとしか読めなかった)。
ジジババか、余程この雑多なひん曲がった文章の中から要点を抜き出せる人ならば読んでいて意義を見出せるのかもしれないけれど、学術的な文章ではないこの随想を読まなくても他に読むべき本はいくらでもあると思う。
七章にある「英語教育の前に日本語教育を何とかしろ」というところくらいはまあそうだよね、と思うが、そのくらい。ブックオフに売って他の人が読んでしまうのも憚られるのでゴミ箱に捨てます。
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〈国語〉の誕生、日本近代文学については知っていることもあったが面白く読めた。インターネット時代と英語との現状分析と未来予測については、疑問に感じる。
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朝日新聞の模擬入試の欄で紹介されていた。
フランスでの講演及び日本の明治の日本語について。さらに漱石までは納得できるものであったが。最後で福田の引用をしてから文調がおかしくなってきた。最後は日本精神ということになってきてあまり論理での説明が省略されてきてしまった。4章の日本語という国語の誕生、までは読んでなるほどと納得させられることがあるが、それ以後はだいぶ怪しい。漱石の三四郎や文学論の引用はなるほどよく勉強していることはうかがえるが、英語教育についての論は少し勉強不足なのかもしれない。
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シャドーイングの題材で紹介されたことから興味を持った。
英語化が進む中で日本語がどうなっていくのか、ということが書かれているが、冒頭の随想部分で挫折してしまった。
またどこかで読みたい。
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総合政策学科 伊藤由希子先生 推薦!
たとえ論文発表は英語であるとしても、日本語は私たちの思考を表現する大事な資産。
言葉で論じる職業にある以上、日本語を大事に使おうと考えさせられます。
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言葉とは思考であり、文化であり、歴史であり、国の存在そのものである。個人的には英語は話せるようになりたいが、国語教育が蔑ろにされるのはやめてほしい。以前、山田詠美だったと思うが、教科書に自身の著作が載ることになったときに、教科書でしか読めない文豪の作品を載せるべきではないかと言っていたように記憶している。まさにその理由がここに書いてある。
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久しぶりに痺れる本に出会った。
著者の水村美苗は学者であり作家である。名門イェール大学・大学院でフランス文学を専攻し、アメリカの大学で日本近代文学を教えながら日本語で小説を書いた。本書の発刊は2008年。5年をかけて書き上げたことからも著者の情熱が伝わってくる。
書き出しは著者の体験が小説のように綴られる。もうすでにこの文体が心地よい。しかし、そこからは緻密な調査と考察が積み重ねられ、一つの結論に向かっていく。それは「日本語は亡びうる」という結論である。
島国日本では連綿と日本語が使われてきた。それは時代に応じて変化はすれど、なくなるとは想像していない。しかし、日本語はなくなる可能性がある。
インターネットが出現して、英語一強の傾向が加速した。中国でも韓国でもアメリカの大学に行かせるのが流行っている。「もっと英語を」の声は日本でも高まり、小学校でも英語が必修になった。この流れに抗わなければ、日本語はなくなってしまう。
では、そのためにはどうすれば良いか。具体的には日本近代文学を読めと著者は言う。明治維新の後、欧米の書物を翻訳する中で、日本の書き言葉は昇華した。言葉と向き合い、日本と向き合い、日本人と向き合ったからこそ、明治・大正・昭和初期までの文学こそ読む価値がある。そこから日本語を守ることを考えよと著者は言うのだ。
結論までの道程では河合隼雄や坂口安吾を切りながら力強い論拠を積み上げていく。それは学者・水村美苗の明晰な頭脳を示している。
小説家であり学者でもある著者の力を存分に発揮した本書。著者の筆力に痺れる一書であった。