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似たようなことばかり言うなあ、とアヤちゃんを傷つける人間に対して思う。私の少し遠くにいる(私が自分で遠くにやることにしたのも含む)生身の人たち、私のことを画面越しに見た人たちにとても似ている。①もっと苦労している人たちがいること」を理由に自らの我慢を選ぶ。②目の前にいる相手の意見よりも、見えない他人の気持ちを察することを先にやる。③昔自分が苦労してうまくいったことは他人もやるべきだと思っている。④嫌悪感やダメだと思うことそのものの理由が自分自身の感情や価値観ではない。以上4点を共通に同じようなことを同じような場面で同じように言う。なぜそこまでオリジナリティのない言葉が発せられるのか逆に不思議だけれど彼らは私が喋ると私が独自の語彙を話しすぎていて意味がわからんらしく、同じような顔をして「どうしてってそんなことそうだからそうなのに決まってるじゃない、わがままなんだよ」と言うのだった。アヤちゃんは昔からこういう奴らと戦っている。家族がそうだからタチが悪い。家族はアヤちゃんを愛してるしアヤちゃんも家族を愛している。
距離の撮り方がわからないのは私も同じだ。理解し合えないのだという結論を泣きながら出すのも同じだ。
私はアヤちゃんを理解はできない。彼らの恋愛の苦しみを本当にわかってあげられることはない。私は男が好きな女で、人口の多い都市の近くに生まれて育って、「世界に女がいないと男は戦争ばかりする」って書かれたポスターが事務室前にずっとある系の女子校に通った。環境は常にリベラルなムードで、博多から出てきた女の子の男尊女卑のお手本みたいな親戚の集まりの模様を大学の食堂で聞かされた時にピュアなショックを受けた。アラサーの今でも、本を読むたび、ネットを開くたび、ショックがある。全然慣れない。職場にもいるのに。
遭遇すると北海道の道路で野生の鹿とか狐に横切られたような気分になる。毎回写真を撮るように他人に話す。慣れてる人たちはそんぐらいいるよそりゃって返してくる。そんな私が彼らの痛みがわかるなんて言っちゃいけないなと思う。
見えるだけが真実で私が本当はどう思ってるかなんて伝わらない。私は彼氏と堂々腕を組んで歩く。スマホ見ながら実はアンフェミ野郎どもにキレすぎて今炎上騒ぎに加担しようか迷っていますなんて伝わらないから、私は誰かの敵に見える。それに傷ついてしまってなんか誰も傷つけたくないから何もしたくない引きこもりたいという不健全な気持ちになる。私も針の雨の一部なのだと痛感する毎日だ。私がそっち側ではないんですと伝える場所はどこにもない。インターネットと友人の輪の中ぐらいだ。もうやだ。嫌だ。そしてこれをポツポツ述べると「おいおい…自慢かよ…」みたいになるのももう最悪だ。誰が恵まれ自慢なんかするか。他人が傷つくのが自分のせいなことがあるのも、自分が傷つく要因がもうどうしようもない差のせいなことも、耐えられんのじゃ、って言いたいだけじゃ。
アヤちゃんを読み始めたのは友達伝いだ。私の数倍は頭がよくてウィットに飛んでいると勝手に思って奥底で尊敬していた女の子がアヤちゃんを読んでいた。だから読んでみた。「サブカルクソ女」がその女���子の自己への蔑称であった。だいぶ死語になったけどあの頃台頭した蔑称。
たしかにアヤちゃんはヴィレヴァンに置いてあった。でも、アヤちゃんの戦いは世の中のメインの戦いになりつつある。要するに他人を人間として扱わないで、自分の傷に鈍かったことを誇りに思っている、無意識な加害者たちとの戦いである。本当の敵は、誰にとってもそいつらだ。男でも女でも子供でも社畜でも専業主婦でも権力者でもそうだ。
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少年アヤさんのことは、Instagramで知った。
いつも、可愛いレトロな雑貨やおもちゃの写真をUPしている、文章を書く人。という認識で、一年くらい前からフォローしていたけれど、著作を読んだのはこれが初めてだ。
読み始めたら、通勤電車内でも(7分くらいしか乗らないから自転車で行く日が多いのに、これが読みたいから敢えて地下鉄に乗った)、乗り換えで歩く間も、隙を見ては一行でも読みたくて、三日ほどで読み終えた。(丸一日休みがあれば多分一日で読んでしまっていたと思う)。
そういう本は、スティーブン・ミルハウザーの「エドウィン・マルハウス」以来。つまり、めちゃくちゃ面白かったのだ。
日記のような、サラサラと読める優しい文章を読んで行くと、たまにグッと胸ぐらを掴まれるような瞬間があり、たまに爆笑したり、憤ったり。
本の中のアヤさんはよくポロポロと涙を流すのだけれど、読んでいる方も何度か泣いた。
「まゆちんは最高だ。そしてかけがえのない、ぼくの親友のひとりだ。しかし、こんなにも最高なまゆちんと、なぜ10年も連絡をとっていなかったというと、それはぼくがぼくであるからだ。そしてゲイだからだ。」
読み始めて13ページ、そこからアヤさんが、
(よい人生、ぼくをくるむ!)
と感じられるまでの物語。
ただ誰かを好きになっていくだけなのに、その道をまっすぐに進むことが難しい世界にいるアヤさん。
「くそマジョリティ」の中に居る、自分も含めた人々。
ただ、ただ、しあわせに生きるということが、こんなにも困難であるという現実のなかにあって、たくさん泣いて傷付いて、ときに自暴自棄にもなりながらも、大好きなひと(パートナーはもちろん、親友や家族。アヤさんも書いていたが、アヤさんの家族、友人はすごくかわいい)に囲まれている。その中でアヤさんは気付いていく。
「恵まれている、という痛みに近い感情」に。
終盤、このあたり読んでいて地下鉄でポロポロ泣いた。
「こうはいかない、おそらく大多数の人生を思わずにいられなかった。」
そう、この視点が端々にあって、そこが胸を痛く打つ。
強くじゃなく、痛く。
子育て中のママ、ひなことみずみのこと。
会社でヒールを履いて脚がぼろぼろになったまゆちんのこと。
自分ごとのように思い、泣くアヤさん。
強さは優しさあってこそなんだよなと、改めて思うけど、そもそも弱いままで良いと、そのままで良いよという世界に生きたいし、そうなるようにしていきたいと思った。
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すごくよかった。びっくりした。
本屋メガホンさんの『透明人間さよなら』をきっかけにこの本のことを知った。
日々透明にされること、その事への怒り、悲しさが記録されていた。
自分の大事なアイデンティティから目を逸らして見なかったフリを続ける、それでも別の角度からは愛情を注いでいる距離感の掴めない、それでもこれまでずっと一緒にいた、著者的には大切な存在の家族。自分を傷つけている存在を、それでもその温かい側面を無視せず捉えてまっすぐにもがいている姿に痺れた。(私は全て切り捨ててしまうタイプなので…)。
本来ならいい人、根はいい人、大事な人。そんな人たちに悪意なく自分のアインデンティを否定されたり無視されたりして、揉めたく無いけれど痛みを無かったことにはしたくなくて、という苦しさに共感した。
これを書籍にして言語化してくれる人がいて嬉しい。
これを読んで、「そりゃこれ読んだら本屋作るわ」って思った。私たちには痛みを言語化してくれる言葉や書籍、存在が必要だし、私もお金が貯まって赤字経営にならないようないい感じの場所を手に入れたら、クィアのための本屋さんを開くのもありかなと思えた。
すごくよかった。