電子書籍
デモクラシー
2023/10/03 00:15
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
国が従業員とその家族を支えて行くというシステムは、我が国の固有のやり方であったが、壊れてきている。ではどうなるのか、とうすべきなのか、を書いてありますが、やや具体的ではないかなぁ。
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完全に整理し切れてはいないと思うが、現代日本の閉塞感を端々でうまく捉えている本だと思う。
結局戦後の日本を支えてきたのは、アイデンティティから福祉までを丸抱えするという企業の家族的経営であり、それが失われた現代にそれに代わる人々に対する受け皿が現れていないことが現代日本人の不安を煽っていると考えられる。
企業が従業員の生活を丸ごと面倒見るというモデルが国際競争のためにもはや維持できない以上、それに代わる社会保障は国か社会が支えるしかない。
ここでいう社会とは行政のような強制的制度を用いない互助会であったり、地域コミュニティがあたると思うが、アメリカのNPOや教会のような役割を日本の地域はまだ果たせていない。その背景には、元々企業をはじめとする特定の中間団体に属しウチとソトで態度を変えてきた日本人が、地域を軸とする人間関係に仲間意識を抱けていないことに原因があると思う。
また、ではかと言って国が社会保障を引き受ける北欧型の社会保障が成り立つかといえば、地域と同様、国民全体を対象に富の再分配を行うようなビジョンを描き、人々を納得させられるような人間が少ない。結局右肩上がりの戦後日本では、よく言われるように限られたパイの再分配という真の意味での政治は必要なく、成長する経済の果実を地域間のバランスが崩れすぎないようにそれなりに地元に誘導すれば良かったからだ。
しかし、この陥穽から抜け出すために必要なものはいったい何なのか。
今流行りの新党だろうか。社会企業家だろうか。ビジネスマインドを注入したシンクタンクだろうか。地方の創意工夫だろうか。
正にこの本が示すように、どうやってばらばらになった個人を再びデモクラシーの回路へとつなげていくことができるのか。それとももはやいわゆるデモクラシーは必要なく、ビジネスの論理の応用(社会企業家等)や新たなIT技術によるコミュニケーションの変容(ツイッター等)で解決可能な問題なのだろうか。
思うのは問われているのは正解(What)ではなく、やり方(How)であるということ。そのとき一番大事になるのは意志と共感を得る力、いわゆるリーダーシップというものだろう。
そう考えると、そもそも物事を動かすのにまず必要なのは強制力がない中で人々を巻き込んでムーブメントを起こす力=リーダーシップだ。行政や政治が強制力を持ってことにあたれるのは、ムーブメントが一定の手続きを経て権力の正統性を与えられた場合のみである。
その意味で、社会が大きくパラダイムを変えるときに官僚やコンサルタントのように正解を求めるだけでは何も生み出せないのと同じなのだろう。
となると、次の課題は、いかに大衆の支持を得るかということになるが、その際、いかに元々あった信念を曲げず、わかりやすく人々に伝え、支持を得るか。何より、ボランタリーにリーダーシップを発揮することがその人個人の競争戦略上不利になることが多い社会で暮らしている場合、めげずにリーダーシップを発揮することは経験上非常に難しくつらい。
それを乗り越えられるだけの何かが必要だ。
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区立図書館で借りた。
p9
アレクシ・ド・トクヴィルの「平等化」の概念を参照することが、問題の本質理解に役立つとえば、あるいは驚く人がいるかもしれません。
p46
フロムの脳裏にあったのは、ナチス時代のドイツにおいて、人々は自由の重みに耐えかねて、自ら自由を放棄してしまったのではないかという問題意識でした。しかしながら、ここでは、自由の重みを担うことができない人々が問題にされるとしても、個人の自由の価値それ自体は疑われていません。いわば、価値あるものに対し、現実の人間がそれを担うために必要な準備や資質が欠けていることが問題とされたのです。
p56
かつてであれば、家族での経験や、家庭のなかに反映される階級の影響を受けて、個人は社会化されていきました。その際、良きにつけ、悪しきにつけ、家族や階級ごとに、ある種の生き方が前提とされました。これに対し、現在、個人は、自分だけを頼りにして、自分の生き方を選択していかなければなりません。その場合も、前提とされるべき生き方は存在しません。それゆえに、かつてであれば「階級の運命」として受け止められていたものが、いまや個人の人生における問題として現われるのです。
p57
このような事態を、ベックは印象的な表現で言い表しています。
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<図書館で借りた>
個人主義といわれるが、本当の意味で<私>と対峙できていない。
(1)<私>が何を望んでいるのかを感じとり、(2)その<私>の望みが<私たち>の中でどのような位置付けが可能かを描くレベルに発展させると、(3)<私たち>のコラボの方法が見えてくるのだろう。
私の考えは以前(3)に固執していたが、それがここ数カ月の体験で(1)に移行した。しかし、今はそこに(2)の視点が欠落していたことを、本書で確認できた。
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「現代社会の特徴を捉えるには、〈私〉という視点は欠かせない」という視点からのデモクラシー論。おそろしく説得力がありました。トクヴィルに関する他の本も読みたくなりました。
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まだ読み途中なので覚え書き程度に。
内容は充実で現代を生きる上で重要と思われる。が、言いまわしがもう少し簡潔だと良いか。丁寧に説明しようとしている熱意はとても感じられる。
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格差社会が出現したのではなく、格差が意識されるようになった・・と理解していいのかな。平等(垣根を取り除く)になることは、精神的には追いつめられるのと同義なのかぁ・・・。
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縁があって買った本。砂粒の集まりみたい社会とその民主主義の問題やなにかをなるべくわかりやすく書いてある…ように思うが、終盤を忘れてしまったので偉そうなことは言えない。
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「はじめに」と「むすび」が素晴らしくよくまとまっていて、それだけでもいいくらい。
新書にはよくあることだけれど、本書も、基礎知識があまりない人には難しく、社会科学を学んだ人には物足りない内容なのでは。初学者向けというのかも。
新しいと思える発想などは特になかった。平等意識の変容はよく言われていて、「定説」らしきものもあるし、実際変わっているのは間違いないのだろうけど、実感として理解できない。私が若くて変容後世代だからかな…。
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デモクラシーって言葉の響きからはなんか古臭い響きを感じるけど、現代的な不安や孤独や憤りは実はデモクラシーの機能不全から発しているのだ、とのこと。
孤独や不安や拝金主義や刹那主義は、生きる意味の不足から生まれる。
人生に意味と方向性を感じることができなければ、目の前の快不快だけに注目して生きるか、幻想の中に生きるしかない。
しかしあらゆる物事の価値基準を社会や伝統でなく、自分の中にだけ求めていれば、「生まれて死んでいくことに意味はない」という事実によって絶望とニヒリズムに追い込まれてしまうのは必至。個人には、役割と位置を与えて価値の源泉となる社会が必要。
今足りないのはきっと生きる意味というようなものなのだけど、実質として何が価値有ることなのかは分からないから、まずは手続きとしてデモクラシーを整備してみんなで一歩一歩確認しあって所属するに足る社会を作っていきましょう、という本書の主張は納得感がある。
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タイトルにあるとおり、「私」という視点から現代社会について書かれている。「私」に焦点をあわせざるえない現代とは、言い換えれば、「社会」の底が抜けた「セカイ系」的な世界認識とも言えよう。そのなかで、デモクラシーはどのように成立しうるのかについて考察されている。現代日本を人文系学問のテクストから読み解くスタイル。現代社会を理解するうえで、参照点となる著作のレビューとしても役立つ良書。
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トクヴィルの「平等化」という概念を出発点にして、近年の政治学・社会学の知見を踏まえつつ、平易な筆致でコンパクトかつ包括的な視野でまとめた良書。
デモクラシーつまり民主制とは、社会のありかたないし政治というものを、私たちが決める制度である。だからタイトルは、私が私たちの社会を決める時代という、ごく当たり前の事を言っているようにも見える。
しかし、「私から私たちへ」と繋がる回路が、現代は困難を迎えているというのが筆者の視点である。しかもそれは近代の出発点から埋め込まれていたという。筆者はトクヴィルの「平等化」という概念から〈私〉というものを特徴づける。
「〈私〉は、一人ひとりが強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人ひとりの自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており誰一人特別な存在はいません。」(まえがきⅷ)
つまり〈私〉とは、私が独特であるという固有性/独特である私という凡庸さ、という二つに引き裂かれた存在だと言える。〈私〉とは、他者と比較しながら私自身によって私を定義することを強いられる。
もちろんこの〈私〉という定義は、ある意味古典的ともいえる認識である。しかし「〈私〉時代」とタイトルにあるように、また本書の第一章の始めが「グローバルな平等化の波」とあるように、世界規模で〈私〉化が展開されているのが、現代なのである。
本書は「平等化」「〈私〉」を鍵概念として、世界また日本における平等意識の変容(第一章)、「社会的不平等の個人化」とも特徴付けられる現代の個人主義の意味変容(第二章)、現代日本の政治における私ー公の短絡とナショナリズム(第三章)を分析していく。
そして第四章において、熟議民主主義的なプロセスの効果として現れる「共感」(スミス)を他者への回路として、「希望の分配のメカニズム」としての社会を再構築することが企図される。
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民主主義社会に生きているはずなのに、民主主義ってなんだかよく分からない。破綻しているとか言われているし。民主主義って何?
民主主義のもとでは、正解を出すこと以上にみんなが納得して決めたかどうかが大きい。
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[ 内容 ]
一人ひとりが <私> 意識を持ち、自分らしさを模索する現代。
分断された <私> と <私> を結びつけ、デモクラシーを発展させることは可能か。
平等意識の変容と新しい個人主義の出現を踏まえ、これからのデモクラシーを構想する。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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〈私〉が唯一の価値基準となった現代にデモクラシーを取り戻すことを論じた本。
現代では〈私〉のことは〈私〉が決めることが前提となっていますが、〈私〉だけでは解決できないことも当然ある。そこで、〈私たち〉の意志で問題を解決すること(=デモクラシー)が必要となる。
興味深いのは、現代は「前のめり」の社会になっているという論。全ての人がその仕事の”プロ”であることが求められ。待つことを許さない社会。その中では、今までと異なり、人生の見通しが立たないまま自己コントロールだけが求められる。
そして、こうなった経緯には20世紀から福祉国家化が進み、家族の中でも個人化が進んだため、前提なしの状態で自分の生き方を決める必要性が出てきたため。
ハージの「パラノイア・ナショナリズム」や「人間は希望する主体」といった論も面白い。前者は小熊英二『”癒し”のナショナリズム』で示されたような、”憂慮する市民”が不当に厚遇されているとされる人々(在日永住外国人など)に憤りを示す行為に見られる新たのナショナリズムの潮流。そして後者は、人間を希望する主体であるとし、社会は希望と社会的機会を与えるために存在するという論。もともと、国家と社会は単なる〈強制、被強制〉だけでなく、相互補完的な一面もある。
現代人は自己に閉じこもり、政治や公共について無関心だが、他者の影響を受けやすいという論(リースマンの”他者志向”)がある。この背景には現代人が「自分は然るべきリスペクト(日本語の”尊敬”と異なり、リスペクトする側とされる側の立場が対等の場合でも用いる)」を受けていないと考えているためだとされます。そこで、著者は自己へのこだわりと他者との比較を「共感」で繋ぐ必要があると主張する。
何だか、分かったような分からなかったようで消化不良。もう一度時間をおいて読みたい。全体的には同意できる内容だった。