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親鸞の言葉が、心の中に抱えていた罪の意識と孤独から、私を救ってくれた。五木寛之氏が、過酷な引き揚げの記憶と、親鸞と歩んだ半生を語る書籍。
敗戦後、北朝鮮から引き揚げる際、言葉にできないような体験をし、「自分は許されざる者」との思いを抱いていた氏は、30歳を過ぎて、親鸞の教えに触れる。どんなに深い罪を抱いていても救われるという教えは、自分にも生きる資格があると思わせてくれた。だがその後、親鸞について勉強すればするほど、親鸞という人、その思想がわからなくなっている。
浄土真宗の門徒の親鸞像は、親鸞に関する物語などを「聞」くこと(聞法)で形作られてきた。
一種のフォークロア(民間伝承)のようなものである。近代の真宗教学はそうした迷信の類いを拒絶してきたが、伝承や物語の中の親鸞は、くっきりとした形で、その温顔まで見えてくるような感じがする。
親鸞の思想では、信じることが大切だとされる。
真宗では、一筋に親鸞の教えを守り続ける「妙好人」が大事にされてきた。だが、妙好人には、なかなかなれない。人は時に迷い、時に1つの信心に己を託して生涯を終える。だから、親鸞の思想も拝跪すべき思想として捉えるのではなく、自分の傍らに寄り添ってくれるという慈悲の感覚を大事にすべきである。
仏教には、励ましを意味する「マイトリー(慈)」と、慰めを意味する「カルナー(悲)」というものがある。この2つを重ねて、「慈悲」という表現が生まれた。
親鸞は、日本人ばなれした「理」詰めの人だった。だが、理をきわめた「慈の親鸞」の陰に、身内を亡くし悲嘆する人に寄り添い、「ほおえみ」を宿して慰める「悲の親鸞」の姿がある。