認知症になってもその人らしさは失われない
2023/02/15 12:28
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投稿者:魚大好き - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初から最後まで胸が締めつけらる思いで読んだ。
能力ではなく感情を見る努力をすること。認知症になっても感情は残りその人らしさは失われないことを知ることができた。
脳科学者として母親の行動を観察しつつも、感情が先立ちイライラしてしまうことも正直に書いてあり共感できた。どんなに知識があっても実際に体験をすると思い通りにならないことが多々あり、自分の心に余裕を持つことがいかに大事かを考えさせられた。お互いにストレスを感じないようにするにはどうしたらいいかが大きな課題ではある。家族が友人が自分が認知症になるかもしれないと思うと一読して損はない内容。
本当にオススメできる本。内容はもちろん著者の文章力も素晴らしい!
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前に読んだ本だが文庫化を機に再読。
認知症のメカニズムと関連した脳科学・認知科学の知識が、実例を、しかも実感を持って書かれているだけによくわかる。ただ、結論部の”感情”についての議論の後半部分はちょっとまとまっていないと感じた。著者が母の現状について、それでも意味があることを納得したくて、唯一大きく残っている「感情」に重きを置きたい、とも読める。行動に付随するものとしての感情と、その人らしい反応としての感情は、同じものなのだろうか。その人ならではの反応は、やはり”性格”のようなもので、反射的に表れる”感情”とは重なるところもあるけれど、重ならないところもあるのでは。
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恩蔵絢子(1979年~)氏は、上智大学理工学部卒、東工大大学院総合理工学研究科知能システム科学専攻博士課程修了の脳科学者。早大、日本女子大学等の非常勤講師。専門は自意識と感情。
本書は、2018年に出版、2021年に文庫化された。
本書は、脳科学者である著者の母親が65歳でアルツハイマー型認知症を発症し、その後、著者が、娘として、脳科学者として、葛藤する2年半の日々の記録を綴ったものである。
これまでも認知症について書かれた本は多数出ているが、本書の特徴はやはり、認知症の進行する母親の言動について、一緒に暮らし、もともとの母親の性格をよく知っている著者が、脳科学の見地から、何が原因なのか、即ち「脳にどんな変化が起こっているのか」を細かく分析・記録しているという点であろう。
また、副題に「記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?」とあるが、客観的事実としては、新しいことが覚えられなくなり、今まで簡単にやっていたことができなくなり、状況判断が適切にできなくなる母親を見て、母親が母親でなくなっていくように感じていた著者が、「その人らしさとは何か?」について考え、「記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?」という問いに対して、著者なりの答を見出していくプロセスとしても興味深く読むことができる。
私にとって脳科学は関心のある分野の一つで、これまで、オリバー・サックス、ラマチャンドラン、茂木健一郎らの著書や、自閉症スペクトラム障害を含む発達障害(者)について書かれたノンフィクション物、一般書などを読んできたが、自ら50歳を過ぎ、自分や家族が認知症を発症した場合のことも気になり、本書を手に取った。
読み終えて、認知症の典型的な症状や、その医学的(脳科学的)な原因については概ね理解できたし、著者の「認知症になっても、母の母らしさは損なわれることはなかった。認知症はその人らしさを失う病気ではなかったのだ。」という“結論”にも基本的には同意する。
しかし、それでも、自分や家族が認知症になったとしたらと想像すると不安が先に立つものだが、本書には、著者が母親とぶつかった場面や、ネガティブな気持ちになった場面なども赤裸々に語られており、そうした現実的な側面を含めて、有用な一冊と言えるだろう。
(2022年1月了)
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母が脳科学者ではなくて、著者が脳科学者である
認知症になっても、本人が失敗してもいいから、「自分に選択の余地があって責任を持って生活できること」が幸せを感じ、活動的になる秘訣だ、と。
主体性の感覚が得られている時は幸福感を抱いて安心できると。
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職業としての脳科学者である著者のお母さまも認知症になる。
知識も症例も一般人よりずっとあるのに対処対応はその時によるもの。
認知症についての、学者的なものや医療的なものではなく、その生活者としてのエピソードが綴られほっこりするものもある。
認知症になると幸せじゃなくなるのか
認知症になったら殺してくれと言っていた人が発症しても幸せそうにしている
この辺りがとても良かった。
冷蔵庫を開けてなにを出そうとしたのか
買い物に行くと何を買うつもりできたのか
あぁ私もいつかは何もかもわからなくなる
そう思うと悲観してしまうこともあったけど
認知症でも幸せに生きれそうだそう思えた
大丈夫大丈夫。
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父方の祖母に最後に会ったのは十歳くらいの頃、病院でのことだった。
遠くに住んでいたから、祖父を急に亡くしたあと、認知症になった祖母に会ったのはその一度だけだった。私のことを、私の妹の名前でしか呼ばず(年子で名前も似ているので混同したのか、妹のほうを気に入っていたのか)、息子である父の顔も忘れてしまった祖母は、それまでの印象とは違う、子供のように純粋な笑顔を私に向けた。自分の名前を呼ばれないことや、息子である私の父を覚えていないことで、おそらく私はショックを受けたのだろう。そのあとも父は何度も会いに行っていたが、私自身は再び会うことなく祖母は亡くなり、お葬式へも行ったはずだが思い出せない。
この本を読んだことで、久しぶりに祖母との様々な記憶が蘇ってきた。お正月に会いに行くと、いつも頭のついた大きな海老を塩焼きにして出してくれた。祖母なりの最上の御馳走だったのだろう、私は今でも殻ごと塩焼きにした海老が大好きだ。朝ごはんはいつも、炊きたての真っ白なごはんと味噌汁に、ハムとピーマンと卵をフライパンで焼いたもの。三色の彩りがきれいだった。アイスクリームのことをなぜか「クリーム」と呼んでいて、「クリーム買うてき」と岐阜の方言で言いながらお小遣いをくれた。優しい声だった。
祖母自身は幸せだったのかもしれない。本書を読み、子供のような笑顔を思い出して、そう思った。自分が悲しかったから、私は父まで悲しかったことにしてしまったのだろうか。あるいは「名前を間違えられた」=「忘れられた」=「悲しい」、というラベルは、大人になってから付けたもので、子どもの頃の私は、「ああ、以前と違う人になったんだな」と思っただけだったかもしれない。本当のことは、自分の過去でもわからない。記憶は、本書でも書かれているように、思い出すたびに変わり続けていく。
あのとき、祖母があらわした表情のまま、心から幸せそうに見えるそのままを、ようやく今私は受け取った。過去の出来事は変わらなくても、見方が変わることで、出来事の意味は変化する。幼い私と父と祖母、私の中にこれからも存在し続ける三人が、「忘れられる=悲しい」という通念のレッテルから救い出された。私はきっと祖母のあの笑顔を、安心してこれからも思い出すことができるだろう。レッテルによる痛みが、想起を妨げていたのかもしれない。
著者が専門とする脳科学と、認知症についての最新の知見を得ながら自ら徹底的に考えた「その人らしさとは何か」の探究の道筋を辿るうちに、自分という存在もまた許容されているように感じられた。「その人らしさ」は、能力の多寡によって「だけ」でできているのではない。むしろ中心にあるのは、感情の動きという、これまでの通念では理性によってコントロールされ、そのまま表出すべきではないとされていたものが、実は自分が生まれる以前から、そして意識しないままに自分でも積み重ねてきた生命の叡智であり、各々の個性を形づくっているということだ。緻密な道筋で語られるこの事実に驚くとともに納得し、私自身も他の一人一人と同様に、全く同じものはどこにもない、一��きりの可能性のあらわれた存在であると感じることができたのだ。
愛情深い洞察が、著者の母のみならず、ひとつひとつの生命の肯定として聞こえてくる。「自分らしさとは何か」に悩む人に向けた耳障りのいい言葉が連なっている本は数多あるが、まったく質が異なる。そういう本は往々にして、新たな依存心の矛先を示しているように私には思えてしまうのだが、本書は著者とともに、読者も自ら思考し、自分自身を救い出す力を自然と喚起される。認知症の母親と暮らす上で起こる、現実生活の細やかなディテールと、そこから導かれた考察を読むうちに、読んでいる私まで、存在を許されている安全地帯に連れてきてもらったように感じられた。この安全地帯から、我々読者も、自分に備わった力を発揮することができるはずだ。表面を取り繕うのではなく、心から他者を肯定するように行動していなければ、文章にこのような感じは決して現れないものではないかと思う。そういう著者の心の質感が、文体から感じられる。
「死んだ後までつながる方法があるのなら、家族で行って見ておきたい、と思った」、と著者は「あとがき」の冒頭で言う。あまりに自然な言い方に、私はまたも動揺した。人柄の現れた、衒いのない文体がそうさせるのだろう。ここまで本書を読んできた人なら、彼女の言葉に嘘も誇張もないことを私と同じように感じているはずだ(そんなに自分を責めなくても……と思ったこともきっと一度ではないだろう)。
私は誰に対しても、そんな風に思ったことがない。もちろん普通に、育ててくれた両親や家族のことは大切に思っているのだが、「死んだ後までつながる方法」まで考えたことはない。
自然にこうした言葉が出てくるような関係をもともと持っていた人だからこそ、このような真摯な頭脳と感性の鍛錬が可能だったのか。もしくはこの本に書かれている痛切な経験が、著者にこのような自覚を齎したのか。
両方なのではないか、と感じながら文庫版のあとがきを読む。
人間が自由であるとはどういうことだろう。
著者は現実と「闘って」いるのでは決してない。家族のことを、自由を阻む「敵」だとか「軛」だなどと感じているのでもない。
そのような抽象的な「自由」を求めているのではなく、どんな状況にある人でも求めてやまない、人間の尊厳を実感し続けるための原資である、心の自由が損なわれないことを、どのようにしたら誰もが感じ続けることができるのかを、具体的に実践的に考え続けている。
どこまでも真摯なその姿が、これからもいつまでも私の心に残り続けるだろう。
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認知症の家族を通して脳科学の専門的知見からその症状の学問的紹介と対処方法に加え、自己とは何か?について深く考えさせられた名著。
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人とはまことに多面的な生き物で、いろんな特性を持っていますが、現代の学校教育では読み書きそろばんと記憶力ばかりが重要視され、それ以外の特性はちっとも評価されない。算数や漢字が苦手だと、勉強ができないヤツだと決めつけられる。このことが、私は以前から不満でした。でも、これからの世の中、AIが発達すれば、読み書きそろばん・記憶力なんかはAIには全く歯が立たなくなるでしょう。その後、人をはかる物差しはどうなるでしょう?
この本を読んで、その物差しは、認知症になった方をはかるのと似ているんじゃないかと思いました。失っていく能力を嘆くのではなく、それでも残る人の心の芯に光をあてて、その人を見る。それができるようになりたいと思います。
著者の脳科学的説明はとても分かりやすく、一方で、娘として母を支える中でのイライラなども飾らずに記され、実際に私が支える立場になった時のための心構えとして、とても役立ちました。
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認知症に関する本を何冊か読んできたが、この本は今まで読んだ本とは視点が違い、興味深く読んだ。
著者が脳科学者であり、自身の母親が認知症になった事がきっかけとなり、認知症について脳科学の知識と照らし合わせて考察している。
「能力」は無くなっても「感情」は残る。
文庫版あとがき、を読むと、著者も母親の事を理解しつつも実際一緒に生活するのは大変なんだな、としみじみ思った。
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認知症のこと知らないから
こわいこわいイメージで
手にとり、読み進めました。
自分と他者の境界が曖昧になる、
とか読んだらこわいこわい。
家族の顔がわからなくなる、
こわいこわい。
(以下ネタバレ)
でも、その人でなくなるわけではない。
感情の記憶、感情に見られる個性は
強く残るようですよ、と
教えてくれた。
ありがとう。
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一昔前のアイヌ民族では呆けた老人と言葉が通じなくなったとき神用語を話すようになったと、神様のような存在になったと考えることによって仲良く暮らしたらしい。
アイヌ民族のようにあれたら認知症介護も随分気が楽になれるでしょうね。
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身近な家族が認知症になることは、本人、そして家族も辛いことだと思う。
認知症のお母様の行動を脳科学者としての立場から分析されていて興味深い本だった。
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養老ブックガイドから。脳関係を立て続けに。こうやって読んでいくと、違う立場から見える共通点、みたいなのが浮かび上がってきて興味深い。
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アルツハイマー型認知症の母親と脳科学者の娘、そして父親の三人の生活。
同居ゆえのたいへんさはさらっと。
認知症についてプラス思考で書かれている。
……同居できる幸せ、見守れる幸せ。もちろんきれいごとじゃすまないのだが、ちくちくと気が咎める。
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こういう見方もあるのか。感情の動きもまた個性である。それはそう。思い出もなくなってもその人らしさが残っているのは私も感じた。祖母は私が母になった時も祖母らしかったし、どちらのどなたでしょうかといったときも祖母らしかった。