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布教活動
ユダヤ教→布教しない
キリスト教→宣教師
イスラム教→布教しない、啓典の民、待つ
教団
ユダヤ教→なし
キリスト教→あり
イスラム教→なし
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メモ
自分たちを無宗教ととらえがちの日本人は、宗教を生きる上で絶対に欠かせないものとは考えてはいない。そのためなぜ宗教対立が起こるのか理解できないし、理解する必要性も感じていない。それは島国で多民族の侵略がほとんど無かった結果でもある。
が、世界はそうではない。宗教というもの、宗教対立がどういった事態を生むのか、を理解しないと世界の歴史、世界の歩みを十分な形では理解できていないことを意味する。宗教対立は、そこにかかわる宗教の本質がどこにあるかを示すものだ。宗教対立について知ることは、現代においては重要な意味をもってくる。
<ロシア正教とウクライナ正教の反目>
東方正教会をロシア人もウクライナ人も信仰している。長らくロシア正教会がウクライナ正教会を管轄してきた。これは1991年にソ連が解体し、ウクライナが独立しても変わらなかった。
2014年にロシアのクリミア併合が起きると、この事態は宗教世界にも波及し、ウクライナ正教会がロシア正教会からの独立をめざすようになった。
2018年10月、東方正教会全体で最も権威があるとされるコンスタンティノープル総主教庁は、トルコのイスタンブールで主教会議を開き、総主教のバルソロメオス1世がウクライナ正教会のロシア正教会からの独立を承認した。
ウクライナ国内では、ウクライナ独立正教会が別にあり、それも統合する形でロシア正教会からの独立を、ウクライナ正教会はキーウでの宗教会議で2018.12月に決定した。
ロシアはコンスタンティノーブル総主教庁に強く反発し、関係を断絶し、ウクライナ正教会の独立も認めていない。さらに複雑なことに、ウクライナ国内には、モスクワ総主教庁との関係を維持している、もうひとつ別のウクライナ正教会があること。
人口的には独立したウクライナ正教会が半数、モスクワ総主教庁系のウクライナ正教会も、東南部で約4分の1の人口がいる。
「第3のローマ」モスクワ
世界史の概念として「ローマ理念」というものがある。これは「古代ローマ帝国の”ローマ”の名に、普遍的・恒久的な支配や文明・秩序を象徴させる思想、である。この古代ローマ帝国と密接に結びついたのがキリスト教。
分裂した後の東ローマ帝国はビザンチン帝国とも呼ばれ首都はコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)は、「第2のローマ」と言われた。そしてビザンチン帝国滅亡後、「第3のローマ」と呼ばれるようになるのが、モスクワ大公国の首都モスクワだった。
その自負もあり、ソ連下では宗教は否定されたが、ロシアでは信教の自由はあるが、ロシア正教会は特別視され、事実上の国教の地位を確立した。
プーチン政権下でロシア正教会との関係は強化され、今回の侵攻でも「ウクライナでのロシア系正教徒屁の宗教迫害」を持ちだしている。
一方、ウクライナ正教会の側では、ロシアのルーツはキーウにあり、ウクライナにおける正教会の信仰もキーウからはじまるという自負があり、モスクワに対して自分たちの方が優位であると考えている。
カトリック教会の場合は、世��的に一つの組織に統合され、頂点にローマ教皇がいる。東方正教会の場合は、全体が一つに統合されているわけではなく、国別、地域別に組織されている。国との結びつきが大きくなり、宗教上の対立と国家同士の対立が深く結び付くことになる。
2022.5.30初版 図書館
まえがきのウクライナ関連をよみました。
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宗教、そして世界史についてちゃんと学んだことがなくて、最初は知らないことも多かったけど、最初から読み通すと最後には納得できた!用語も多いけど、面白かった。イスラム教は教団など組織がなく、説教を行うイマームも俗人、入信するには洗礼などもない。戒律の強制や罰することなどもないため、ゆるいといえる。啓典の民(同じ神を信仰するユダヤ教徒とキリスト教徒のことを仲間として捉える)は「ジズヤ」という人頭税さえ払えばイスラム教が支配的な地域でもユダヤ教やキリスト教の信仰を持ち続けても構わないとされる⇆キリスト教
→キリスト教が広まった地域に住み、迫害を受けていたユダヤ教徒は、自分達の信仰を守るために、イスラム教の広まった地域で生活する道を選んだ。
・イスラム教には原罪の観念はない→キリスト教徒の共存は難しい
p.150 国が違えば、イスラム教を信仰するあり方が違う。それを一括してイスラム世界と捉えるのは難しいし、意味をなさない。ところがイスラム世界と言う捉え方が広がり、疑問も持たれないまま使われているのである。18世紀前において、ラテン・キリスト教世界(西ヨーロッパ)では、イスラーム世界と言う表現はほとんど用いられなかった。17世紀までは、イスラムと言うことさえ言葉さえ知られておらず、東方やアジアに住む人たちの事は、トルコ人、ペルシア人、ムーア人、ベルベル人、中国人、日本人と言った民族名で呼ばれていた。イスラム教徒が多く住み、宗教としてのイスラム教が強い影響力を持つ地域がイスラム世界として認識されるのは19世紀になってからである。羽田はそこに、イスラム世界と言う捉え方をするようになったヨーロッパ側における世界認識の変化を見ている。イスラム世界とは、ヨーロッパと対になる概念で、ヨーロッパが「近代的諸価値を実現した」+の世界であるのに対して、イスラーム世界は「前近代的な価値観を依然として保持した」マイナスの世界として捉えられるようになったと言うのである。
p.193 戦前の日本では、初代の大天皇である神武天皇は実在し、皇妃と言う暦は神武天皇の即位から始まるとされていた。しかも、江戸時代の国学者である本居宣長は、日本が他国に優れている上、皇統が上に遡り、連綿とそれが受け継がれ、王朝の交代がなかったことに求めた。それは日本の近代におけるナショナリズムの形成に大きな多大な影響を与えた。
p.232- イスラム教は普通名詞の世界
アルカイダ・アルスルバ=基盤、戒律、原則
カーバ=立方体
アルカイダは1980年代からアフガニスタンに侵攻したソ連軍と戦うためにイスラム世界の至る所から集まった義勇兵、ムジャヒディーンの間で使われるようになる。ただし、その時点でも、7月するための記事を意味するもので、特定の組織の名称ではなかった。
※イスラム教世界では聖と俗は一体化しており、何か特別なことはない。
p.264 したがって、イスラム教の信仰を獲得する、あるいはそれを強化する回心の体験を経ると、罪深さを感じる事はなく、むしろ自分は神に対する正しい信仰を確立したものであると言う自覚を得ることになる。イスラム教徒を意味する「��スリム」とは、神に己の命を捧げたことを指す。それは、一般の社会生活において自ら落ちこぼれと捉えていた人間に対しても絶対的な自信を与える。まさに選民意識を抱かせることになるのだ。そして、信仰を知らない人間が生活する外側の社会は破壊しても構わないもの、むしろ破壊すべきものとして捉えるようになる。しかも、殉教者は神によって天国に召されるわけだから、彼らは自爆テロもいとわなくなるのである。
p.266 テロを引き起こす根本的な原因は、テロリストの内面にある。そこで起こった心の転換、改心が決定的な意味を持つ。キリスト教の枠の中での改心なら、自己の罪深さを自覚するもので、悪は自らの内面にある。ところが、イスラム教では、政治運動の活動家の場合と同様に、会心によって自覚されるのは内面の悪ではなく、外側にある悪なのである。世界は根本的に間違っており、それは、神が作り出した世界からは大きく逸脱している。逸脱したものを探さなければならない。正すためには破壊が必要だ。テロリストはその方向に向かっていく。重要なのは、テロを引き起こす組織、集団に所属していることではなく、テロリスト個々人の心のあり方である。確信を得た人間は、間違った世界を正す、あるいはそうした世界に警告を与えるために、ひたすら破壊行為に向かって邁進する。彼らが自らの意図や動機について書き残したりしないのは、明確な確信があり、他者に認められることを一切必要としないからだろう。それだけつよい確信がなければ、自らの命を犠牲にすることはできない。殉教者として自分は必ず天国に召されると言う絶対的な信仰がなければ、自爆テロには至らない。こうした回心を遂げた人間にとっては、すでに外側にある社会は意味をなさない。それは否定されるべき社会に他ならない。それによって、その人間は外界から切り離され、その分不純なものをそぎ落としてしまう。アタや村井秀夫から透明感が感じられたのも、そのためである。自らの行為が及ぶ破壊の程度が凄まじいものになると想像することで、彼らの心は激しく昂ぶり、そこに陶酔の境地が生まれた。それは自爆テロの実行者全体に及ぶ真理である。自爆テロは、自らの命を守ろうとしないために、それを防ぐことが難しい。しかも、根本は個人の心の中での出来事であるだけに、その意図が意図や目的が外部に知られることもほとんどない。
p.271 信仰は、必ずしも現世に価値をおかない。仏教などはその典型とも言えるが、キリスト教の痛みも、その傾向が強い。現世よりも来世に価値を置く傾向は、どの宗教にも見られる。したがって、社会の状況が悪化したと判断されれば、生きることよりも死ぬことに宗教的な価値があるとされるようになる。そこでは、信仰のために死ぬことに至上の価値が与えられる。それが、暗殺や自殺しろ、抗議の焼身自殺といったことに結びつくのだが、そこに宗教が関わっているため、その後、宗教対立のもとになることがある。
今日的な宗教対立の特徴は、テロと言うところにだけあるわけではない。現代の大きな特徴は世俗主義の広がりと言うことにあるが、そうした事態が宗教の側からすれば、自分たちを脅かすものと受け取られる。そこから新たな対立が生まれてくる。
p.296 イスラム法の���あるしゃりやは、イスラム教徒の生活全般を規定するものである。あるいは、イスラム教では、世俗の生活を捨てた聖職者と言うものが存在しないことも既に触れた。その点で、イスラム教は聖俗が一体化した聖教一致の世界であるともいえる。だがそれは、あくまで政教分離が行われた世界からの見方であり、そもそもイスラム教には聖と俗、宗教生活とそれと関わらない世俗の生活を区別すると言う発想がない。それに対して、礼指定を原則とするフランスの社会は、宗教に対する信仰をあくまで個人のものとして捉え、公的な空間の中にそれが侵入してくることを拒む。そこにはフランス革命以来のカトリック教会との関係性が深く関わっている。その点で、イスラム教の信仰が、フランスの社会においてそのまま受け入れられる事は難しいのだ。フランスでは、公的な領域投資的な領域と分け、宗教の信仰が公的な領域に入ってくることを禁じる。徹底した生協分離を求めるわけだが、礼拝節と言うことに関して、キリスト教の教会は国や自治体の所有で、それをキリスト教徒が利用する形になっているのわけだが、イスラム教のモスクは、1905年の政教分離法以降に建てられたものなので、国や自治体の所有にはならない。そこには差別の意図は無いわけだが、結果的にモスクの運営に制約を与えている。土地を取得した上に維持費を捻出しなければならないからである。
p.298 こうした事情はフランス特有のもので、同じヨーロッパであっても他の国では起こらない。西尾ロッパでは、既に見たように、フランスと同じくイスラム系の移民が増加し、そのために軋轢が起こり、差別の問題も発生している。だが、フランスのライシテのような厳格な政教分離を求めてられていないため、ヒジャブの公立高校での着用がそのまま気にされるような事は無い。ライシテと言う世俗主義的な政策は、イスラム教徒の側からすると、自分たちを迫害するものと映る。フランスと言う国家は、イスラム教の進行を否定しているのではないか。そのように受け取れる面がある事は否定できない。そうした中、イスラム教を揶揄する風刺画が描かれ、雑誌に掲載されれば、そうした感情はさらに刺激され、それがテロと結びついていた。しかも、フランスの大統領は、宗教を揶揄する権利があるとして、その点で譲らない。フランスには宗教対立を煽る仕組みが築き上げられてしまったとも言えるのだ。
p.311 1つの例として女性の扱いと言うことにを考えても、それぞれの宗教が説く内容は現代からすれば差別的である。仏教には、女性は成仏できないと言う考え方がある。一神教の神は男性であり、ケイ素今日の三位一体には女性ないしは女性的なものが含まれない。イスラム教も、あくまで男性中心の宗教であり、女性は保護の対象とはなっても、男性に従う者として見なされている。女性差別の根本に宗教がある。そうした認識があるからこそ、先進国では、宗教の衰退と言う現象が顕著になっているのではないだろうか。
p.315 では、宗教対立を激化させないために、私たちはどういった手立てがあるのだろうか。そこに施策があるわけではない。宗教は1つだと訴え、その方向に持っていこうとしても、それは難しい。その中で私たちができることがあるとすれば、宗教対立として作られる��々の事例について深く研究を進めていくことである。ここまで見てきたように、宗教同士が対立しているといっても、それは単純に教えが異なるからではない。そこには、土地やかね、支配と被支配の問題など、様々な事柄が関わっている。それを単純に宗教対立として捉えてしまっては、自体の本質を見抜くことができない。宗教対立と言う捉え方自体を、私たちは皆をしていく必要がある。もちろん、異なる宗教の間で、競技の違いから対立が起こるような事はあるが、それは論争によって解決すべき事柄であり、相手の存在を否定し、武力によって打ち倒すべきものではない。実際、教えの違いが単純に宗教対立を生んできたわけではない。宗教対立が起こったときの社会的、あるいは経済的な原因を明らかにすることで、物の見方は大きく変わってくる。本当は何が原因なのか。それを究明することで、私たちの理解は変わってくるし、それは宗教対立激化しないことに結びつくかもしれない。宗教対立であると煽れば、時代はより深刻なものになっていく。信じると言う行為は、人を頑なにさせる面があるからである。私たちは、常に思考停止に陥らず、物事が起こる根本的な原因を突き止めていく努力を惜しむべきではない。ある意味、宗教対立と言われる時代は、宗教の対立ではないと捉えることで、解決が図られ、平和がもたらされることになるかもしれない。もちろん、これまでの歴史を考えれば、事態は容易なものではない。そこには過去の出来事が深く関わり、それは「なかったこと」にはできないからだ。ある意味、特に新先進国に見られる宗教の衰退と言う事態は、歓迎されるべきものかもしれない。宗教が力を失うと言うことが、それを熱狂が薄れると言うことであり、私たちはそれによって冷静さを保つことができるからである。しかし、いちど力を失った宗教が、再び盛り返すようなこともある。近年のイスラム教の復興等は、その代表である。そして、イスラム教の復興は、原理主義を生み、新たな宗教の対立を引き起こしてきた。ただ、イスラム教には、ここまで述べてきたように、他の宗教と共存するシステムが確立されている。そのシステムをいかに機能させるか。そこに、宗教対立を引き起こさない手立てを講じる余地を見いだすことができるかもしれないのである。…私たちは単に戦争反対を叫ぶだけでなく、紛争当事者における宗教的事情について、改めて考察を深め、自体を正しく理解していくしかない。そうした試みをすることで、なぜ今日の事態が起こったのかの原因の一端を知ることができるのである。
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高校は世界史選択だったのだけど全く興味を持てず成績も散々だった。本作を読んでいると名前だけは知っている出来事がたくさん出てきて、なるほどちゃんと切り口を絞って捉えるともう少し分かりやすかったのかもな、と当時を思い出して感じた。とはいえ本作も教科書的な書かれかたで途中ちょっと挫折しそうになってしまったので、一般書として出すなら読み物としてもう少しエンタメ性というかキャッチーさが欲しかったな、と思ってしまった。
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宗教対立、と一言で括ってしまうことの危険性を説いた本だと感じました。
宗教というと、どうしても、どこかスピリチュアルなものだ〜と距離を置いてしまうというか……また、信仰というものの強さと頑なさを知っているからこそ、思考停止になってしまっていた面もあったのだなと実感させられました。
時代に即して利用されたり、隠れ蓑にされたり、拠り所にされたりしてきている宗教。姿形を変えながら歴史に現れている宗教を、単純に理解しようとしてはいけない。でも、理解し切ろうとするとあらゆる分野の知識が要るからメチャメチャ難しい……!というもやもや。
タイトルで、「わかる」と「かわる」の対比なのは何故なんだろうと考えていたのですが、(かわる、はわかる、の誤記とまで思ってしまってた)読み終わってなるほど……となりました。
世界史の見方が変わる!!分かった気になってたよね?とメッチャ揺さぶられます……
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専門用語が多くて私には難しかった
が、なんとなく各宗教の立ち位置が理解できたような出来なかったような?
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宗教対立の背景には、つねに土地の問題がからんでいる。土地をめぐる争いがなければ、宗教対立が激化することもない。教えの違いがかかわってくることもあるが、それだけなら、学問上の論争が起こるだけで終わる。宗教対立が深刻化するのは、土地、領地がかかわってきたときである。~
ローマ帝国のキリスト教迫害も公認についても怪しいという話があったが、特に宗教勢力の迫害については、もっとよく見ないと本当のところは分からない。
とにかく解説というものの持つ落とし穴が最も危険なのは、こと宗教という現象についてだな。
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表紙や帯の印象で選んだけど、内容がいきなり専門的で私には難しかった…。
もっとライトに、なんで今世界がこうなってるのかを知りたかったんだけど…。
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世界で起こる出来事の背後に宗教対立がある。それは、最近起こった世界的に重大な出来事の場合にもそうである。しかし、現代の日本人には宗教対立は先鋭な問題として感じられてはいない。私たちは、宗教というもの、あるいは異なる宗教同士の対立がどういった事態を生むかを理解できていない。それは、世界の歴史、世界の歩みを十分な形では理解できていないことを意味する。国際化が著しく進んできた現在の状況のなかで、果たしてそれで世界を知り、他の国々とかかわり、日本の進路を定めていくことができるのだろうか。そこには大きな問題がある。(本文より)
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数日間かけてじっくりと調べながら読んだ。
ゆっくりじっくり読めば、中学までしか世界史を習っていない私でも理解できるものだった。
個人的には入門レベルのこと+α載っていて、とてもちょうどいい塩梅。
各宗教の成り立ちから対立している理由まで、わかりやすいかは個人差だと思う詳しさで載っていて良かった。
アメリカ文学やフランス文学で読んだことあるような事柄もあったり。
また読み直したいし、聖書とかコーランとかも気になるなあ。
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▼個人的に断続的に継続している
「世界史を楽しもう読書~~2024年は第1次世界大戦から「パリは燃えているか」までを主に~~」
というテーマに一応沿って読んでみようと随分以前に購入して「積ん読」化しかかっていたんですが再始動して一気に読了。
▼パレスチナ問題、まさにホットなイスラエル×過激イスラム勢力。ウクライナ問題、百年一日のロシアの脅威。
そういった2024年現在にも大いに繋がる話の、言ってみれば超基礎知識編なんですが、超基礎知識こそ手練れの人が語ってくれないと全然、腑に落ちない。分かりにくい。というわけでこの手の本は、書き手が信頼できれば同じような主題のものでもけっこう読んでしまいます。
▼つまりはユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教、そして儒教まで含めて、「いったいなんなんだっけ」ということを宗教感受性の鈍い日本の一般人向けに優しく語ったもの。それも島田さんですから、何かに感情的に嫌悪感とか賞賛を剥き出しにはしません。言うたらどれも一長一短で、いろんな事情があってそれぞれの地域で流行ったもので、それには「教義」以上にそれぞれの政治経済史が深く関わってますよ、というだけでも大変に面白かった。
▼イスラム教ってそうなんだあ、というのが個人的にはいちばん印象に残りました。けっこうシンプルで、実は歴史的に見ると寛容だったりもします。
▼結局は<中世からどう抜け出したか>。つまりは産業革命とそれを推進する社会体制をどう獲得したか。そこでリードした白人欧州社会(と米国。と例外的に日本)が、18世紀または19世紀以降にけっこう弱肉強食好き勝手を(主に経済面で)やらかしたことから、現在の解決困難な「原理主義のぶつかりあい」に至っている、という見取り図が分かりました。
ちなみに「原理主義ってなんなんだろうね」というのもフムフムと読みました。引いてはいわゆるカルトなど新興宗教まで、その心理的メカニズムを探っていく。
けっこうわくわくしました。
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タイトルから世界史を新たな視点から総復習できる感じかな?と思って読んでみました。十字軍のことなど、そういう面もありましたが、全体的には肩透かしを食らったような気がします。
繰り返し出てくるキリスト教=伝道・所属、イスラム教=伝道なし・個人という対比が私としては新鮮な視点でした。
イスラムの原理主義組織・テロ組織とされるものの実態(ゆるやかなネットワークに近い)というお話は、これまで考えたことがなかったのでなるほどな〜と思いました。
ネットワークに触れてテロを起こしたり武装蜂起したりする若者の特徴は、以前であれば新興宗教や過激な社会活動をする日本の若者と重なったのでしょうが、今だと闇バイトをやってしまったり、海外を拠点にした詐欺グループを運営したりしている層とも重なる気がしました。
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ちょっと思ってたのと違ったけど、宗教とテロの関係が何となく分かった気がする。
日本人の僕にはどうしても宗教に対する思い入れが弱い分、テロなり、偶像崇拝なりの感覚が分からない。
死んだ後のことも、僕は死んだことがないからわからない。