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メモ→ https://twitter.com/nobushiromasaki/status/1611348195623436290?s=46&t=gWvpoXNY9FSFFk9onI7H1A
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言語哲学に興味が湧いてくる本
コミュニケーションそのものを考えられる本
日々の何気ないコミュニケーションをする中で、コミュニケーションとはいったい何かというもの考えさせられる。コミュニケーションはただの記号の情報交換ではないということはなんとなく同意してきたが、おそらく私はそれが一体何なのかということについて理解していない。私は言語学(英語学)ついてはある程度学んできた自負はあるが、それは主にある言語の特有の表現方法に関わるものがほとんどであり、文字からどのように理解できるかがメインであった。そのため、この本で紹介されている話し手にとっての意味とは何か、聞き手にとっての意味とは何かといった、言葉として必ずしも現れないものについて深く考察しないと解決しない事象についてはさして考えてはこなかった。
身近な例から哲学の知見を援用して本質に迫っていく構成になっており、スリリングであった。ときに話の展開についていけなくなることもあるが、それもそれでおもしろいと思える本であった。
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地球っこさんのレビューを見せていただき、是非読んでみたいと思った一冊。
すごい。。。
言葉、会話を分析・哲学するって。
こんな分野があるなんて、考えたこともなかった。
最初は頭をフル回転させながら、なんとか食いついていくかんじだったのが、カムアウトされたところぐらいから、すごく作者の意図することが理解出来るようになった。
そもそも一般向けに分りやすくエッセイと解説の間ぐらい というのがコンセプト。
しかし この人たちの頭の中はどうなっているのだろう。
会話を哲学するって・・・
次に読もうと思っている「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション 」は準備済み。
次も楽しみです。。
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著者の日常から、そこで起きた疑問や喜怒哀楽を言語哲学を通して"気持ち"の謎を解明していく。
哲学は難しそうと思いつつ理解のための道具(補助輪のイメージ)として使っていくエッセイ。
もう「ただの言葉」とは言えない。
「謝罪の懐疑論」が今の悩み(反省しているのかどうかわからない人を相手にする)を理解するのに役立った。
言語哲学を通して見た日常の中にある疑問、言葉は「言っただけ」ではなく発話したこと自体にも意味がある。
言霊(言うことにより願望として捉えられる)とかを連想するけれども、霊的なモノではなく哲学の視点で解説してくれて面白い。
著者の疑問、自身の気持ちについて解き明かそうとする。日々、思い出せないくらい流してしまっている疑問に対して向き合える気持ちになる。
参考となった本も読みたい、もうちょっと知りたくなる本。
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普段の言葉のやりとりは、単なるコミュニケーションの手段ではなく、人間関係を構築するための重要な土台。そしてそこには意識/無意識にかかわらず、さまざまな意味が込められている。その人が発した言葉から心理を推測するのは容易ではない。
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生活の中で著者は、例えばティーに間違えてすだちを淹れたとか漫画で印象的な台詞を見つけたとか、そういったところからあたかもスナップショットを切り取るように哲学を始める。だが、その哲学は決して高飛車な遊戯に留まるのではなく現実にセクシュアル・ハラスメントやマンスプレイニングで悩む人にも「こういう言葉を武器にしてもいいんだ」と届くものとなっていると思った。永井玲衣の本でも思ったことだが、哲学を使えるツール/アプリとして提示することを目指している、というのが印象である。それでいて、「セルアウト」の気配はなく上品だ
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言葉の持つ両義性(どころが多義性)は私も好物なので、イルカさんや地球っこさんのレビューで知らさせれて本書を手に取った。
1番読み応えあったのはプロローグ「コミニュケーション的暴力としての意味の占有」なのだけど、それは地球っこさんが紹介しているので、その他の「気づき」について書く。
私が言葉に敏感になるのは、多くは二つの場面。ひとつは、政治的言語である。もうひとつは、映画や小説で使われる言葉である。
政治的言語から。
吉村大阪知事の「ガラスの天井」誤用発言。政治的公の場でのLGBTQ+の人々への差別発言。誠実な謝罪とはどういうものか?等の考察が興味深い。
多くの場合、「公」は力的には私たちよりも上だ。認識のすれ違いも、影響力があることから問題を発生させる。
ビックリしたのは、トランスジェンダーの著者が、差別発言の正否もわかり、経験も積んでいるのに、それについて考え始めた途端に帰りの電車で涙ぐんでしまったということである。慣れたはずなのに、シュミレートすると過去の辛さが蘇ってしまい、子供の様に泣いてしまったらしい。差別発言のもたらす影響に、まだ私は想像力が不足しているのかもしれない。
「誠実な謝罪」だとわかるのは、ホントにつくづく難しい。いや、政治家の謝罪はわかりやすいですよ。彼らの謝罪は悉く誠実ではない、という意味ではわかりやすい。でも例えば(最近のニュースを観て)子供を死なせてしまった母親の裁判所での謝罪というのは、非常にわかりにくかった。
是非とも三木さんに、安倍語録のひとつひとつを、哲学的に分析して、一つの本をとして公刊してもらいたい。きっと売れると思う。
「マンスプレイニング」という哲学用語も紹介される。私的に訳せば「マウント取り」。相手が無知であるということを前提として話される説明、とのことだが、私の作品批評がそれにならないだろうか?と自問する。私は作品は政治的発言と同じ公のものだと思っているから、陰口と違って作者が目の前にいなくても悪口は言えると思っている。辛口に批判する時には必ず根拠を上げてするようにしている。でも、そういう批判をすると、離れていく人もいるようだ。私は一方的に批判しているつもりはない。聞いている人に反論してもらいたいと思っている。でも、そもそも相手がそれを言えないような空気感を感じていたら‥‥等々いろいろ考えた。
ドラマの台詞として。
あるドラマの台詞のやりとりを著者は例示する。2人は、実は言葉と気持ちは正反対のことを言い合っている、という例である。数日前、映画「キングメーカー大統領を作った男」で、全く同じような台詞のやりとりがあったのを観た。わかりやすく書こうと思ったけど、重大なネタバレになるので省略します。ともかく、これこそ映画だと思った。(俳優の演技力は必要だけれども)気持ちとは裏腹の台詞のやりとりがあった方が、間違いなく名作に近づくだろう。
反対に全く同じ台詞を繰り返すのに、毎回意味が違うということも起こるという。この前「ちょこっと京都に住んでみた」というドラマ(木村文乃主演Amazonプライム)を観た時に、近���正臣が「知らんけど」という台詞を毎回言うのだけど、意味が少しづつズレていった。
言葉は言葉だけでは伝わらない。
力関係、場面設定、それぞれの歴史、等々が関係する。
著者は、本書の中で、まるで時代劇の決め台詞のように「仮にも言語とコミニュケーションの哲学者を名乗る身だ」と言って、哲学的意見を開陳する。そして、‥‥ここをもっと深掘りすれば、現代の哲学界に新しい光を当てられるかもしれない、というような意味のことをしばしば書いている。実は、それが正直鬱陶しかった。一般読者を対象にするエッセイとしては、そういう哲学者としての野心は、少なくとも私には要らない。‥‥最後だけ辛口にしてみました。
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普段何気なく使用している言葉やコミュニケーションを哲学する。
これまで特に深い考えもなく会話していたつもりだった。
でも実はそこに、無意識の意図や自身の属するコミュニティが透けて見えてしまうことがある。
言葉は“その言葉以上のもの”を相手に伝えてしまう。
だからこんなにも奥深くて興味深い。
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興味のある/読みやすいテーマだけぱらぱらと読んでみた
(いい意味で)筆者は少し面倒くさい性格の人なのだろうと思ったし、だからこその面白さもたくさんあったように思う
が、自分が今いま興味のあるテーマではないものにそのくどさでこられるとなかなか進まないものもあったので今回はこれくらい
またタイミングがきたら読みたい
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筆者はエッセイのような物と言ってるが、いやいやしっかり哲学です。
言葉の厳密なる意味、特にコミュニケーションのあり方を突き詰めて考察している。
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コミュニケーションである言葉や会話を哲学者が哲学の面から分析している書籍。哲学を用いた内容になると、言葉遊びのように思えてしまう。色々と分析、説明しているがそもそも用いられている単語もよくわからず、それを駆使して記されているので益々わからないといった感じ。
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何気ない言葉のやりとりを楽しんだり、ときに深く傷ついたりする「日常の私」と、言葉やコミュニケーションを専門に研究する「哲学者の私」。
ふたつの視点を併せ持つ著者が、日々の生活のなかで感じた疑問やモヤモヤの正体を探っていく。
友人との会話やアニメ・ゲームといったごく身近な事柄から哲学的思索が広がっていくので、自分のことと照らし合わせて実感しながら読み進められた。
・「意味の占有」という現象
わたしたちの日常では、言葉の意味は話し手ではなく場の支配者に決められてしまう。
そのためマイノリティの人が自分の意図通りに言葉を伝えるのはきわめて困難。
・誠実な謝罪とは
「ご不快な思いをさせてしまい…」という謝罪が不誠実に見えるのは、具体的に今後どういった行為を避け、どのように行動していくかの約束がなされていないから。
曖昧な物言いにより、「これより具体的なことはわかりません」と暗に伝えることになっている。
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話し手の意図を伝えるとき、聞き手の意味へと改ざんされる。同じ言葉の地図を持っていない限り、会話は聞き手により変容する。
日常でよくあることで相手が勘違いしているのをわかっているが面白おかしくなっているので、誤解を解くことは少ない。
聞き手は会話を引き取るという責任を持つことで会話を言葉だけの意味ではなく、裏の意図も同時に受け取るのである
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言語とコミュニケーションについて研究する著者が,経験した出来事に対する「なぜ」を理解しようと試みるエッセイ。1つ1つのエッセイは,具体的なお話から始まり,その話自体が興味深いのだが,そこから,言語哲学の研究を参照しながら,そこで起こったことを理解しようと模索する思考が面白い。コミュニケーション研究に興味がある人はもちろん,そうでない人も楽しめる。
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昔、男社会の風潮がまだ残る会社で、会議中こんな話をされたことがある。
「これ専務に話通すのムズイなー。〇〇(昔うちの部署にいた女性)がプレゼンすると、専務のOK大体貰えたからな。〇〇(部署で唯一女の私)がいってみない?」
と、加わってもないプロジェクトの話をふられた。
彼らからしても勿論それは冗談で、本当にプレゼン頼まれた訳じゃなかった。
なんだけど、不愉快だったなあ。そういうことを言ってしまえる無神経さに、無神経でいることが許容されてる組織の鈍感さに、不愉快だったなあ。
その女性が専務に話を通せたのは、彼女が優秀だったからじゃないのか?"女だから"通ったと思ってるのなら、その女性にとても失礼だなと思ってムカついた。
そんなことを、この本を読みながら思い出していた。
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「セクシュアル・ハラスメント」という言葉がなく、それゆえ「その行為はセクシュアル・ハラスメントだからやめてほしい」とは語れないが、代わりに同じことを「その行為は不愉快だからやめてほしい」と語ることで伝えようとしたとしよう。このとき、「不愉快」という言葉を選んではいても、そのひとが本当に言いたいのは自身の心理に関することではなく、むしろ社会的な不正に関わる振る舞いが生じているということである。だがたとえそのひとがそうしたことを意図して発言をしていたとしても、この発言が単なる心情の表明と理解され、しかもその理解が発言のなされた場で共有され、そのひとは単に自分の心理に関する何事かを言っていたひととしてそれ以降扱われるということは、容易に起こりうる。そうした場でたとえ「単なる心情の問題ではない」と訴えたとしても、「ヒステリック」で「感情的」で「不合理」な者として片付けられるのが落ちだろう。
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そういえば、そんなことを考えていたな。
この組織を変えるには、今の発言が無神経だということを皆が認識しなきゃいけない。その為には私が声をあげればいい。簡単なはずのこと。
でも、相手が無神経なだけじゃなく思慮もないのなら、声をあげたところで「フェミニスト」とか「面倒くさい女」とか思われてもっと生きにくくなるんじゃないかって思った。私は彼らのことを、どれくらいその点について感受性豊かか分からなかった。だから未だに言ってない。
ただ、言っていないから、それはその組織では未だ許容範囲のものとして許されてるんだ、と思う。
私は別の、そんな言動が許容されない、豊かな組織を知っているので、そんな井の中の蛙状態の人たちのことをどう思えばいいのか、未だ分からないでいる。