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「くらやみの速さはどれくらい」読んだ http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11693.html … せつない。。。アスペの話とは知らずタイトルに惹かれて書棚に手が伸び。SFに区分されていたりアルジャーノンの枕が付いていたりするけど全然違う、これは自己認識と客観評価(社会受容)の話だ(つづく
複雑な内面世界と高い知能を持ち、企業で専門職に就き成果を出し続けていても、定期カウンセリングでは自閉症患者として一括りに幼児扱いされたり、対人反応が相手にとって標準外だと知的障害扱いされたり。自分の尊厳のために決断をしたルウの気持ちは理解できる。わたしにも覚えがある(つづく
ルウの思索や人間観察が美しい。こういう繊細さを持つ思慮深い人間になりたい。題になっている光と闇のエピソードは印象深い。比喩としてもたびたび出てきてその度に考えさせられる。闇と光、そして教会での苦悩のシーン、そこだけでも読む価がある。別の訳で読みたいな、原著を読むべきか。。(おわり
人的資源部とはhuman resourceの訳か?ふつう人事部って言うと思う、デスク型パソコンはデスクトップ、携帯パソコンはモバイルかパームのこと?何これ昭和に出た本なのと思う訳語が無数に。こんな例があると他もしっちゃかめっちゃかなんじゃないかと思えてしまうんだよね。。
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自閉症が胎児または幼少期のうちに治療が可能となった近未来、主人公ルウの世代はその端境期で、ルウ世代より若い自閉症患者は存在しない。特異な計算能力を活かして製薬会社の自閉症患者だけのセクションに務め、趣味のフェンシングに精を出し、両思いではないものの淡い恋愛を楽しむルウ。ある日彼の会社が成人の自閉症患者の治療方が見つかったから受けて欲しいと彼らに頼む、というか脅す。そこから彼らは変わる。手術のメリットうんぬんというよりかは自分とは何かという問い。同一性、感覚の統合、「こだわり」の正常な範囲とは?手術を選ぶ前から彼らは変化してしまう。それは会社からの圧力とかそういう問題ではない。何かを知るというのは否応無く変わるということだ。
ルウは確かにノーマルとは違う、違うことは自覚があり、ノーマルは万能だという勘違いを抱いていた節もある。しかしある日ノーマルの友達がルウに嫉妬し、ルウの車を破壊し、ルウに銃口を向け、逮捕される。彼は脳にチップを埋め、他者に対する凶暴性を取り除くという更生処置を受けることになる。彼はノーマルだけれども「異常」だからチップを埋められ、彼ではなくなる。
チップを埋められる前の彼と埋められた後の彼。同一性はいかに?
ありのままで生きるのは難しい。それは社会のせいだろうか。そうとも言い切れない。ルウは社会に歪められたからありのままを捨てたわけではない。「知った」から変わった。ルウはありのままでも素晴らしい。けれどありのままを強要してはならない。自分が想定する自分を維持する1番のさまたげは自分自身だ。ルウの未来は明るかった。でも闇の中に落とされた人もいた。
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自閉症であるルウは症状と付き合いつつ、仕事に趣味と自分なりに充実した日々を過ごしていた。しかしある日ルウは、彼の職場の上司から、自閉症治療の実験台になることを要求される。
語り手となるのは自閉症患者のルウ。この語りが非常に繊細です。普段自分たちが会話している中では考えもしていないようなことがルウの語りでは描かれます。そこには自閉症というテーマとしっかりと向き合った著者の努力が表れていると思います。
そしてフェンシング場での人間関係や社内政治、ルウに対する何者かからの嫌がらせなど、そうした出来事を通し、ルウは自閉症の自分と”ノーマル”の人たちの違いは何なのか。
また治療を受け自閉症でなくなった自分は、それは本当の自分なのか、という自らのアイデンティティの問題と向かい合うことになっていきます。
異常と正常の境目ほど分かりにくいものはないと思います。状況や時代によっては普通の人が異常者や犯罪者扱いされたり、またその逆もありました。
現代も現代でなんとなく社会が思う異常と正常の境目はあると思うのですが、それも曖昧模糊としたもの。そのあいまいさをルウは自分が自閉症の”異常者”と自覚したうえで、素直な疑問として読者に問いかけてきます。
それはルウの視点だから視える世界なのでしょう。彼の問いかけは一読の価値があると思います。
終盤はルウが治療を受けるかどうかの決断に話がうつっていきます。彼の決断の是非、それによって手に入れたもの、失ったもののどちらに価値があったのか。
この話の結末は読む人によってそれぞれ意見が分かれそうな、とても微妙なものだったと思います。治療を受け”ノーマル”になり新たな可能性を見つけるという決断も、自閉症の自分も自分であると受け入れ生き続けることもどちらの決断も人として間違っていない決断だからだと思うからです。
21世紀版『アルジャーノンに花束を』と評されている
作品ですが、二つの共通点はあらすじうんぬんより”ノーマル”でない視点から改めて「人間とは」「自分とは」という問いかけがされてくるという点だと思います。
そしてルウが『アルジャーノン』の主人公チャーリィと異なっているのは、チャーリーは物語の展開上自分で決断ができなかったことを、ルウは自分の決断で自らの最後の道を選びとったことだと思います。
物語はテンポは非常にゆっくりであくまでルウの日常描写が中心です。でもその日常描写があったからこそ見えてくる”ノーマル”の人間の姿、アイデンティティの問題、そして彼の最後の決断と彼を取り巻く様々な人たちの意見や思いが伝わってきます。
そしてそれぞれの描写がルウが最後の決断を下したとき非常に意味のあるものだったのだと気づかされます。
ルウの問いかけ、そして最後の決断は”ノーマル”である自分にもいろんなことを考えさせてくれました。
ネビュラ賞
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自閉症者の一人称で始まるSF小説。
自閉症者の一人称小説というのがキャッチー。主人公は文中で平坦に物事を受け止め自分の決めたパターンに則って行動する。自閉症者に特有のこだわりや特別な感覚も表現されている。
ただ作者自体が自閉症者でないので書かれている内容がどの程度自閉症者の思考に近いのか疑問が生じた。他の書評によると自閉症というより自己愛性パーソナリティ障害の患者の思考に近いというが、その場合自閉症の視点から考える思考SFという前提は成り立つのか?
あと、著者は「くらやみの速さ」にこだわりすぎな気がした。知と無知になぞらえるのもしっくり来なかった。正直いらない要素では。フレーズとして気に入っているのはわかるけど。
「アルジャーノンに花束を」と比較されるのもわかるが、どちらかというと「時計じかけのオレンジ」に似ていると思った。そして、平常者と違う視点を描くという点に関しては、「アルジャーノン」に一票。あちらは知的障害者が日記を書いている(それが小説そのものである)という設定で、表現としての文章の稚拙さや知的障害者の思考の再現性をうまくカバーしている。
この小説はSFというよりヒューマンドラマではないのかな。序盤は面白く読めたが、後半にかけて上記の点が気にかかってしまった。
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21世紀版『アルジャーノンに花束を』なんて嘘である。
作者の狙いは自閉症者の視点から人間社会を描くことのようだからである。
近未来、自閉症が幼少期の治療により治癒する時代。ルーはその治療の恩恵に浴せなかった世代で、コミュニケーション技術のトレーニングにより、社会参加はできているものの、「正常者」とのコミュニケーションに困難を抱えている。会社の上司が替わり、自閉症の障害を改善する実験的な治療を強要されそうになる。というのがストーリーだが、ルーを取り巻く人間たちがルーの一人称で語られるのが本書の味わい。
自閉症者は言葉に騙されない。字義的にしか捉えられない傾向があるため、正常者たちの用いる常套的なレトリックが理解できない。ルーの受けたトレーニングは、レトリックをルーが対処可能なようにいわば翻訳して受け止めることである。ルーの目を通したとき、いかにわれわれが虚飾に紛れた世界で嘘をつきながら生きているのかが突き付けられる。正常者からしたら、自閉症者はコミュニケーションの機微がわからない困った人たちなのだが、彼らの視点からみたとき、彼らほど純粋で高潔な人々はないと思えてくる。本書を読んでいる間、私は自閉症になる。自閉症でいて幸せである。私は自閉症のように感じ、自閉症のように考え、自閉症のように愛する。
話はルーの日常生活の些事である。そこからするとこれはSFではない。しかし、異星人や未来人の目から現代の社会を異化しつつ描くというSFの伝統に乗っているともいえる。「くらやみの速さ」とは作者の自閉症の息子が実際に言った言葉らしい。光に速さがあるなら、その光が到達する前にある闇は光よりも速いのではないか。いかにも自閉症的な紋切り型の思考なのだけれど、そこからルーをめぐる光と闇に思いがめぐらされるとき、この言葉は詩情をもって立ち現れる。
自閉症でいて幸せなルーがこの実験的治療を受けようと思う心理的過程にも、治療後の顛末にも暗闇の速さが関係しているのだ。
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もしも自閉症の完全な治療が可能になったら。
最先端の臨床試験と精神遅滞の主人公をとりまく世界を描いた小説、と聞いたら多くの人はダニエル・キイスの名作『アルジャーノンに花束を』を連想することと思います。
「あんたは、健常者の友だちといつもいっしょにいる」エミー
「隠喩だと言うなら―鯨は砂漠のシンボルとも言えるわね」ルシア
エリザベス・ムーンの近未来小説『くらやみの速さはどれくらい』は、自閉症である主人公が同じく自閉症の仲間たちと彼らが言うところの健常者(ノーマル)との生活の狭間で突如新たな治療法の実験台となることを薦められる物語。
「むかしむかし、機械は二たす二もできなかった」クレンショウ
「彼らは知的障害者じゃない」オルドリン
そこにあるのは主人公と新しい世界との出会いではなく、自分という人間を捨ててでも変わるべきかどうか滔々と苦悩する姿。主人公目線で描く細やかな感性からはそういう”生き辛さ”みたいなものが目立たない形で顔を覗かせてるんですが、これって良く考えたら自分たちの生活となんら変わらないのかもしれない、と思ったりもします。
「ちがうということは悪いことではありません」エリック
「ノーマルになんかなりたくない。あたしはあたし。それで幸せ」リンダ
日本国内だけで約120万人いるとされている自閉症患者。その数と同じだけの意味を持ち過ぎた言葉に翻弄される中で主人公は最終的にどういった決断を下すのか。
「暗闇はもっと速いかもしれない―いつも光より先にあるから」ルウ
「<こんちは-あたし-シルビア>」シルビア
将来なりたい自分を思い描くことは容易ですが、それを実現するためにはまず今の自分を見つめ直すことが大切なのかもしれません。
『アルジャーノン~』と同じネビュラ賞を受賞し、同じ訳者によって日本語化されたこの小説はいろんなことを考えさせてくれるはず。
そんなお話。
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「障害者」は「治療」して「健常者」にするべきなのか?そんなことはない、ありのままを社会が受け入れるべきだと多くの人は言うだろうが、障害者本人が自我を喪失してでもいまの苦しみから逃れたいと願っている場合はどうだろう。
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自閉症の治療が開発されたとき、彼らは何を決断するのか。結末はとても意外だったし、主人公ルゥを応援するような気持ちで読んでいた私には切ないような気がしたが、彼の生活を体感してきたかのような物語のあとではルゥの決断以外にあり得ないような気もする。それが彼にとって幸せだったのか、読み終わってからも分からない。
SF小説のジャンルになっているが、自閉症の(となっているけどアスペルガーと思われる)ルゥの一人称で書かれる物語は、彼らが世界をどう知覚しているのかが肌で感じられてとてもリアル。
ルゥがノーマル(正常)な人に抱く感情はとても共感するものがあって、読めば読むほど、なにが自閉的で、なにがノーマルなのか分からなくなってきました。それは私がルゥの性質に近いからなのか、それとも実際のところノーマルと自閉にそれほどの差がないからなのか、分からないけれど。突き詰めるほど、ノーマルな人の方が行動原理がナゾだなぁと思えてくる…。
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文体が合わないのか何なのか、
全くもって面白くない。
話が進めば面白くなるかと頑張ったが....
頑張らなきゃよかった。
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進駸堂書店×早川書房コラボカバー作品。
自閉症者枠で高度な仕事についているルゥが新たな治療の被験者となることを選ぶまでの彼の世界があまりにも豊かで瑞々しく、深く、そして美しすぎて、ずっとその世界にいて欲しいと思ってしまう。けどそれはあくまで部外者の気持ち。
ノーマルなルゥとして新しい人生を歩き始めた彼の、その人生は「元ルゥ」の人生よりも先にある暗闇だったのか、あるいは逆か。
「自閉症」という病気だから読者の気持ちは大きくぶれる。別の病気だったらだれもが生まれ変わった彼を祝福するだろう。
本当は、どっちが幸せなのか。それは誰が決めるのか。
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SFとは思えない作品で評価が人によって分かれるのは仕方がないと感じ、あのムーンの作品である驚きがある
表紙 6点岩郷 重力 小尾 芙佐訳
展開 7点2003年著作
文章 7点
内容 765点
合計 785点
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自閉症者が健常者とのコミュニケーションで感じるちょっとした違和感や、自閉症治療前後の自己の同一性に対する疑問などがうまく描かれており、とても興味深かった。
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すごい本。すごい物語。さすがのネビュラ賞受賞作ってことか。
ただ、帯に書いてある"21世紀版『アルジャーノンに花束を』"は違うと思う。
アルジャーノンも素晴らしい作品だけど、本書とはtasteが違ってるんじゃないかな。
まず、なんと言っても、『ルウ』の造型が素晴らしい。
この人物像を、ここまで精緻に描きあげたことを心から賞讃したい。
一人称で語らせることで、その思考や感情が、読み手の心へとstraightに流れ込んでくる。
本来、読者とは異なる世界で生きているはずの、自閉症である『ルウ』が、読み進めていくうちに、とても身近な、あくまでもただ一人の『人間』なんだという、確固たる存在感を持って立ち上がってくるのが分かる。
そしてその、極めて繊細で、静謐で、整った、自分達が生活してきた世界とは明らかに異なった、あまりにも純粋な世界が放つ、魅惑的なその風景。
本書は、幾ら語っても語り尽くせないほどの輝きに満ちていると感じる。
そして、大野万紀氏の解説を読んで、初めて気付いてかなり驚いたのだけど、本書の訳者は『アルジャーノンに花束を』の訳者でもある小尾美佐氏。
翻訳ものは、どうしたって訳者の力量に左右されてしまう。本書が小尾氏によって訳されているということは、本書の魅力が何倍にも増幅されているということに他ならない。本書にとって、そしてもちろん読者にとって、これはとても幸せな事だったと思う。
自閉症者の日常を、自閉症者の視点から描くこと。それを、魅力的な物語として成立させること。
本書は、その困難な試みを見事に成功させた作品だと感じた。
読みながら、『健常さ』というものについて、改めて考え込んでしまった。何をもって『健常』と判断するのか。
例えば、容姿の美醜は『健全さ』で判断出来るのか?とか。もしそれが適当ではないのなら、精神的な障害と呼ばれているものだって、一緒なのではないか?とか。
『普通ではない』の『普通』という線は、どこに、何故引かれなければならないのか?とか。
なんにせよ、とにかく「すごい」作品であることは間違いない。素晴らしかった。
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アルジャーノンとはちょっと方向性が違うけど、自閉症の人々の感性とかものの見方とかへぇ…って感心した。
どう頑張っても「自閉症の人」って扱いをされてしまうし、わたしだって「自閉症の人なんだな」って思ってしまうし、もう自閉症は自分のアイデンティティだよっていうキャラクターもいたけど「自閉症」から逃れられなくてどうしても「ノーマル」になりたいっていうのもなんかちょっと分かるしラスト付近すごい辛かった。
最後、ルゥは同じ人じゃない…って思ってしまった。
結局、光の速さとくらやみの速さは同じになったのだろうか
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自閉症者の自我、というか、感性というか、自意識というか、とにかく彼らがどのように感じ、人と関わっているのか、それは知る由もないのだが、本書を読む限り、健常者になるよりも今のままでいても充分幸せだったんじゃないかと感じさせる。
果たして、どちらのルウが本当に幸せなんだろう?