投稿元:
レビューを見る
【子どもが自殺したら、親にはどんな現実が待っているのか?】我が子がいじめを示す遺書を残して自殺したが、学校は頑なにいじめ自殺を認めない。両親の苦闘の日々を追った傑作ノンフィクション。
投稿元:
レビューを見る
我が子が自死する。ご両親にはそれだけで大きな衝撃であるだろう。
その自死の原因が学校でのいじめであったのなら。そして、学校は
頑なにいじめを否定したら…。
心痛の真っただ中で、学校相手に闘う。途轍もないパワーが必要で
はないかと感じる。ご両親はただ、再発防止を学校に願っただけな
のだ。それなのに、学校側は自死発覚当初から「逃げる」ことしか
念頭になったのではないか。
第三者委員会がいじめと認定しても、その報告書さえ受け取りを
拒否するってなんだ?有名校のプライドか?
いじめによる自死を「なかったこと」にしたい学校側は、人ひとりの
「死」を、あまりにも軽く考えていやしないか。
副題にもあるように、カトリック系の学校である。そのホーム
ページには「人間尊重の精神」の理念を掲げ、その下に「「己の
ごとく人を愛せよ」とのキリスト教の愛の精神により、人間の尊さ
を学び、思いやる心を大切にする教育を行います。」と書かれている。
ならば、問いたい。被害者である生徒、そのご両親に対し、学校は
「愛」をもって対応したのか?他者を尊重したのか?…のと。
していないだろう。していたのであれば、ご両親は学校側を相手に、
長い長い闘いをすることはなかったのだろうから。
公立校と、私立校では文部科学省も対応の違いがあるのだろう。
だからといって、私立校が実際に起きたいじめによる自死を
認めなくてもいいなんてことはないと思うのだ。
学校内で起きたことに対しては、公立だろうが私立だろうが
重く受け止め、真摯に対応する。それが「他者を尊重する」って
ことじゃないのか。
でも、実際には学校内って治外法権が堂々とまかり通っているよな。
どんな学校でも隠蔽体質はあるもの。
それに挑んだご両親の心痛はいかばかりか。巻末の年表を見るだけ
で、学校側の不誠実さが分かる。
正直、いじめが完全になくなることはないと思う。だが、起きて
しまったことを素直に受け入れ、今後を考えることで学校現場の
あり様は変わって来るのではなだろうか。
投稿元:
レビューを見る
長崎海星高校いじめ自殺遺族両親の闘いを記録したノンフィクション。長崎海星高校の保身第一の不誠実な姿勢には腹が立った。学校は、いじめ自殺の事実を隠蔽し、転校や突然死とすることを提案してきた。
長崎海星高校は中高一貫校であり、亡くなった勇斗さんは中学からの内部進学者であった。中高一貫の狭い人間関係で逃げ場がなかった。中高一貫校は高校受験の大変さを避けられるということで人気があるが、エスカレータという楽なものではない。中での競争は免れないし、最悪の環境ならば、そこに6年間もいなければならなくなる。偏差値だけで評価されるならば、それはそれで逆に公平との見方もある。
キリスト教系の学校という点が不誠実を深めている。宗教者が運営しているのだから良心的な対応をするだろうとはならない。「冥福を祈る」という方向になり、いじめを認めて反省することや再発防止に進まない。宗教は多くの社会では死の恐怖を和らげるために生まれたが、いじめ自殺という避けられた死を許し難いことと受け止めることに逆に鈍感になってしまう面もある。
「当時の会議録によると、喫煙や暴言、不登校などの生徒への対応が何度も話し合われている」(181頁)。教師はヤンキーに注意を向け、成績優秀で大人しい生徒が割を食う。
不誠実は長崎海星高校だけではない。長崎県の対応も問題であった。長崎県は学校を擁護し、遺族の意向を踏みにじり続けた。本書には「県の手のひら返し」という見出しがある(228頁)。第三者委員会報告書が、いじめ自殺を認定すると長崎海星高校に組織として非を認めるように指導するようになった。これを本書は「手のひら返し」と表現する。
「手のひら返し」は悪く変わった場合に使われることが多い。長崎県は良い方向に変わったものである。「過ちては改むるに憚ること勿れ」との言葉がある。それでも両親からすると「あなただちだって、私たちを否定して学校側の主張を丸呑みしていたじゃないか」と反発がある(231頁)。長崎県自身の反省がないために白々しくなる。
学校や長崎県という公共セクターの対応は酷い。その中で勇斗さんが好きだった東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドの手紙は救いである(163頁)。本書の中で掃き溜めに鶴のような存在である。昭和の社会運動には「私企業に任せると営利に走って問題である。公的セクターを充実させなければならない」という感覚があった。しかし、むしろ公的セクターが官僚化して非人間的である。営利を目的としない分、消費者感覚を失っている。
投稿元:
レビューを見る
なぜこれほどまでに頑なな態度なのだろう、この学校
なぜこいうい人が教頭(後に校長)へ出世したのだろう
あくまで遺族側からの視点であるのはわかったうえで学校サイドからみた意見や考えだってもちろんある
はずだが何を言われても心に響かないような気がする
こういう人もいるんだな、と知れた事も含めて
スルーせずに読んでよかったと心から思えた一冊
投稿元:
レビューを見る
ホントにひどい話だ。息子が自殺するだけでもショックなのに、それが学校のイジメで、そのことを学校がなかなか認めない。息子の死で信じられないショックなのに、心身を削って学校と戦う。なぜ被害者の親が戦わなければいけないのか。なぜ認めないのか。なぜ生徒に何の働きかけもしないのか。なんなのか。それでも教育機関か。
あらゆるところに助けを求めて、孤軍奮闘するご両親。県も文科省も助けにならない。それを根気よく何度も何度も問い合わせる。やっと第三者機関が調査することになり、1年4ヶ月たち、ほぼ納得のいく報告書ができ、ホッとするところが、それを学校は認めない。は⁈
いい弁護士さんがついたり、署名活動を始めてくれたりする人が出てくる。そしてこの本を書いた記者さんとの出会い。
信頼できる、味方がいることは良かったけれど、そのことよりも何倍も何倍も苦労をされている。
地元の新聞と学校との癒着?もひどいものだ。
この本の出版の後、学校相手に裁判を起こされたようだが、その後どうなっているのだろう。
ん?著者も共同通信相手に裁判起こしておられる?東洋経済に移られたようだ。
その後を追った記事、読もう。なんかしんどそう。
正義感の強い、困った立場の人の味方になる真摯な記者さんほど、苦労されるものなんだなぁ。
投稿元:
レビューを見る
筆者の最後に書かれた言葉にただただ涙した。「学校という閉鎖的な空間で過去に理不尽を受けた記憶を持つ人へ」とし、「理不尽は自分の力ではどうしようもないから理不尽という。決してあなただけのせいではなく、誰にでも起こりうる。どうかあなたを必要とする人のために自分を大切にしてほしい」というような内容だった。かつて自分も子どももそうした苦しみを在学中に受けた。本書のような経験は誰にでも起こりうる。そのために親子さんは二度とこのような理不尽な思いを誰も受けないように、亡くなった息子さんへのあふれるほどの愛から戦っていらっしゃる。著者もそれに共感して筆を起こし、新たに訴訟もしていらっしゃる。この輪に加わり、少しでも問題解決に共に努めたいと思った。