ポルトガルの海は世界の涯てに広がり、ペソアの詩は人間の精神の涯てに広がる。複数の異名を持ち、それぞれの人格に詩作をさせた特異な詩人の作品選集。
2003/06/16 14:12
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
ペソアの詩には、入れ子構造の箱を開くようにして出会う人が多いかと思う。
すなわち、須賀敦子という優れた文学者がアントニオ・タブッキという独特の雰囲気を持つ小説家を紹介してくれ、そのタブッキという作家が、このポルトガルの詩人の研究者でもあり、『フェルナンド・ペソア最後の三日間』という小説も書いていたという流れで辿り着くケース。
あるいはまた、ノーベル文学賞に顕彰されたジョゼ・サラマーゴというユニークな世界観を持つ作家が『リカルド・レイスの死の年』という小説を物しており、そのレイスが、ペソアの異名のひとつであるという流れで辿り着くケースなど。
本書は1985年に出された初版本の65篇の詩に解説とあとがき、そこに21篇の詩とあとがきを付して刊行された増補版である。「続巻」とまではいかないが、重版の予定がなく初版在庫切れで新刊流通ルートから姿を消していく海外文学の本が多いなか、この「増補」は訳者にとっても読者にとっても珍しい僥倖なのだと思う。
その初版本のあとがきに引かれたR・ヤーコブソンの言葉が、この特異な詩人を読み継ぐ価値を十全に伝えている。
「(18)80年代に生まれた一群の偉大な世界的芸術家たち——たとえばストラヴィンスキー、ピカソ、ジョイス、ブラック、フレーブニコフ、ル・コルビュジエなど—
—の一人としてフェルナンド・ペソアの名もあげなければならない。こうした芸術家たちの特徴がすべてポルトガルのこの詩人に凝縮されてあるのだ」
外国語で書かれた詩を、原語に当たらず十分に鑑賞することができるのか。この疑問は、「俳句の良さは外国語なんかにうまく翻訳されっこない」と答を出すのと同じ理屈で、ポルトガル語を解さない読者としては触れたくない問題ではある。
しかし、語の意味の連なりや二重三重の掛け言葉、韻の踏み方といったもののすべてが理解できなくとも、こなれた日本語に置き換えられた詩片に触れるだけで、この詩人がいかに人間の意識の極北に達していたのかは分かる。
21世紀初頭の今このとき、20世紀前半に複数の自己を生きて創作をつづけた詩人の言葉は、突き抜けた虚無の境地とも言うべきところから、読み手である私の元へと響いてくる。
虚無に覆われ尽くすのがイヤだからこそ、抵抗のため、真理に近づかんと本を介して古今東西の知識を求める。だが、もはや上昇や発展をしていかない社会にあって、しかも年を重ねていくということは、これはもうどうしようもない虚無を底辺に抱え込んでいるわけである。進化や成就ばかりが人類の求めていくべき価値ではないし、勝ち負けというスケールで勝ち組に入ることが即、個人の幸福につながるわけではないと頭では分っていても、それでも尚虚無はつきまとう。
たとえば本名ペソアの手になる詩片にこういう部分がある。
「知識はあまりに重く 人生はあまりに短い/ぼくのなかへ這入れ おまえたち/
ぼくの魂をかえよ おまえたちの軽やかな影に/そして連れ去れ このぼくを」
そしてアルヴァロ・デ・カンポスの一節。
「いずれにしても 存在することが疲れるというなら/そうであるなら 高貴に疲れよ」
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ひとりの人間が、詩の作風によって4つのペンネームを使い分けていて、しかも本当に別人のような書き方をする。
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特に好きなわけじゃないけど、手に入れるのに昔は苦労した。今はアマゾンですぐ手に入るけど。
欲しかった理由はカエターノがライブで朗読してたらしいので内容が知りたかっただけだったりする。
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自分の存在価値をいかに言葉で表現できるか。ということを深淵に追求している。そこにはプライドを脱ぎ捨てた自分がいるだけだ。
とてもリリカルで、好きです。
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西欧の最果ての地にて、ペソアを読もう。
モンパルナスのサルトルの墓に花を供えるのと同等の文学的ギミックに、年甲斐もなく興奮を覚える。
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最初は4人の詩人によるアンソロジーかと思ったのですが、全てペソアが書いたものなんですね。それぞれ別人のような作風。自己投影があまりない作品が好きです。原文で読むともう少し印象が変わってくるのかな?
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ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアが本名以外に、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの異名で書いた、いわゆる「変名プロジェクト」のような詩集。
タブッキの『インド夜想曲』の中で、ひとつのキーワードとなっている詩人ペソアに興味を持ったことをきっかけに読んでみたのですが、海洋国ポルトガルの風土、そこに生きる人々の感情が、ペソアの内にある複数のパーソナリティを通して生き生きと伝わってきます。
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ペソアが、本名のほかに三人の異名を使って作詩したものがまとめられている。
とても抒情的、かつ哲学的。
この鮮烈な印象の言葉の数々には、もっと自分の感性が豊かだった時に出合いたかったかも。
手元において、時々その言葉に触れたくなる、そんな詩集。
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「眼に見えぬ」
眼にみえぬ
なにか得体の知れないものの手が
睡りと夜の襞のあいだから
突然、わたしを揺り動かす
わたしは目覚める
だが 夜の深い沈黙のなか
いかなる姿も見えぬ
しかし埋葬されることなく
心に住みついている昔からの恐怖が
さながら玉座からおり立つごとく現れて
お前の主であると言う
命令する口調でもなく
しかしまた嘲る口調でもなく
すると感じる
一本の「無意識なるもの」の紐で
突然 わたしの生が縛りつけられるのを
わたしを意のままにあやつる夜の手に
眼には見えぬが
わたしを恐怖させるもの
わたしは
自分がその影にすぎず
冷たい闇のごとく
なにものにも存在していないのを感じる
「あわれ麦刈る女は」
中略
空よ 野よ うたよ
知識はあまりに重く 人生はあまりに短い
ぼくのなかへ這入れ おまえたら
ぼくの魂をかえよ おまえたちの軽やかな影に
そして連れて去れ このぼくを
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普段、あまり手にとることがない「詩集」という分野。
手元にあるのも「ルバイヤート」という、中世ペルシャの四行詩集くらいだったりします。
文章に対しての多少のとっつきにくさを感じても、ストーリーが好みであれば気にしない小説とは異なり、
文体から感性から何もかもが真っ直ぐに合致しないとどうにものめり込めない、ってのもあるかもしれません。
そんな中、何故か書店を探し回り、結局はamazonで注文してしまったのが、こちら。
きっかけは「7月24日通り」という小説で紹介されていた次のフレーズ。
- わたしたちはどんなことでも想像できる、なにも知らないことについては。
逆説的にも感じましたがなんとなく共感してしまい、興味を持ちました。
で、実際にその「言葉」を追っていったのですが、なかなかにシンクロできるフレーズも多く。
- ぼくは思考から逃れられない 風が大気から逃れられないように
- 感じること? 読む人が感じればそれでいいのだ
- 意味があるのは学ぶことだ
久々にスルっと入ってくるような、言の葉の繁り様でした。
ちなみに複数の作者による詩集となっていますが、その実体は全てがペソア氏に帰結します。
そんな彼らはペソア氏本人の「異名者」との位置付けとのことですが、、確かに色合いは異なっているような。
個人的には「フェルナンド・ペソア」の名で綴られたものが一番しっくりときましたけども。
余談ですが、「7月24日通り」は「7月24日通りのクリスマス」との題名で映画化もされているようです。
主演が大沢たかおさんとのことでちょっと興味があったりも、、DVDを借りてみようかな(買うと怒られるので)。
ちなみにその小説の方は特に目新しいものでもなく、主人公が自己の殻を突き破るまでのお話でした、ありがちですね。
ただ、リスボンというヴェールを被せた事で、ほのかにやさしい異国情緒に包まれている、そんな感じでした。
リスボンを知らないが故に、遠く蒼み渡る空と輝かしい白亜の壁、そして柔らかな南風に包まれる、そんな一冊。
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「作家の読書道」というウェブサイトで昔、吉田修一が紹介しているのを見た。詩、そのものからは感銘は受けない。ただ、ポルトガルに惹かれる、ということ。
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本人も言っていたと思うけど、詩人っぽくない。
感覚的というより、哲学的。
一度見てもなんとも思わない言葉だが、ふとした時に激しくその意味を理解する、という性質の詩だろう。
これに限らず海外文学全てに当てはまることだが、母国語のポルトガル語で読むと、もっと好さがわかるんだろうな。
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吉田修一「7月24日通り」の中で登場した詩集。
少し気にかかったので早速図書館で借りてみた。
普段詩集などは読まないので読み方とかペースとかはあまりよく分からず。。。
読んでいると、「自分」とか「存在」とか「世界」とか「心」とかそういう哲学的なものに思いを馳せたくなる。
よくはわからないけれどこのペソアは結局あるがままにいることの大変さとか、結局自分の内にはなにもないのではないかという虚無感とか少しくらい感じがくるかも。
そして吉田さんの作品中にあった引用文は見付かりませんでした;;版が違ったのかなぁ。。。
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フェルナンド・ペソアの詩選集。詩って日本人の書いたものですら、なかなか素直に面白いと思えない。詩という文章形式を理解できるだけのバックグラウンドを持ち合わせていないのだ。それでもまれにそんな障壁を軽々と飛び越えて、何かを伝えてくる詩人がいる。ペソアもまさにその一人。日本ではそれほど有名ではないペソアという詩人にたどり着くまでのルートは、大抵の人がタブッキ経由だと思う。このタブッキというイタリア人の作家は、ペソア研究家という大学教授の顔を持っていて作品にもたびたびペソアという名前を出している。タブッキの流れるように繊細な文章が描き出すリスボンはとても魅力的で、一文一文にいちいちまいってしまう程。そんな文章の書き手であるタブッキが魅了される詩人、どうしたって興味をひかれてしまう。そんなふうにしてペソアを手に取る人が多いのではないだろうか。私にいたっては、タブッキの描き出すあまりに魅力的なリスボンに惹かれて、ついにポルトガル旅行を決めてしまった。それで、この機会にペソアを読むことにしたのだけれど、すっかりペソアに魅了されてしまった。
ペソアの書く詩は、どことなく宮沢賢治の書く詩に似ている。こう書くと誤解をまねくかもしれない。ペソアが書いているのは、常に自分の心であって魂なのだから、宮沢賢治みたいに対象そのものに入れ込んでしまうようなところはない。石はどこまで行っても石であり、森や木や川、自然はどこまで行っても単なる石であり、単なる森、単なる木、単なる川である。華美な修飾語を排したシンプルな語彙の中で驚くほどしっかりと"なにものか"を伝えてくる。私なら百万言を費やしても伝えられそうにない感情を。時にまっすぐに、時には情緒的に。一見、全然違うスタイルの二人の間に似たものを感じてしまうのは、二人が持つ揺れの大きさに重なるところがあるからだろう。宮沢賢治は自然を愛し、動物を擬人化した物語も多く残している。その一方で科学技術にも大いに希望を見出していた。「紺いろした山地の稜をも砕け 銀河をつかって発電所もつくれ」そんな詩を残している。人類の幸福を願いながら、銀河鉄道の夜のようにどこか物悲しい物語を書いてしまう様子からは、生きることへの不安が垣間見える。そういう様々な揺れを飲み込みながら吐き出される宮沢賢治の言葉が私は好きだ。
ペソアは宮沢賢治とは少し違う揺れの見せ方をする。彼は複数の人格を持った異名を使い分けながら詩を書いた。様々な揺らぎを見せる自分の心に別名を付けて、ペソアという共同体を持つ別人を仕立て上げてしまったのだ。自然を愛すアルベルト・カエイロ、機械技師のアルヴァロ・デ・カンポス、神への信仰を謳う異教徒リカルド・レイス。その他にも大勢の異名を作り上げたペソアは、確信的に揺らぎ続ける。
「魂は僕を探し索める
しかし僕はあてもなく彷徨う
ああ 僕は願う
魂が探しあてることのないことを」
他の異名たちが確信ある言葉を紡ぎつつも、ペソア自身の名前で吐き出される言葉には、どこかアイデンティティの不在を感じさせる。それは周り回って他の異名たちが吐き出す言葉にも影響を与えているように思える。自然も信仰もそれを語る言葉が、自分を探し、作り上げるための言葉に思えてくる。自分という固定概念に縛られず、揺らぎ続けることで新しい可能性と新しい言葉を紡ぎ続けたペソアの詩は、書き手が揺らぎ続けるからこそ、揺らぎ続ける読み手にまっすぐに届いていく。シンプルな言葉をまっすぐに投げかける、ただそれだけで。
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フェルナンド・ペソア(1888-1935年)はポルトガルの詩人・作家。ポルトガルに旅行に行ったときに知りました。リスボンの老舗カフェ前に銅像があったり、お店の壁にペソアの詩が書いてあったりと、ポルトガルではかなり有名な詩人のようです。
フェルナンド・ペソアは本名の他に3つの異名を使い分けて詩を書いていたそうです。自然を愛する アルベルト・カエイロ、異教的・古典的なリカルド・レイス、ホイットマン流の大胆な詩を書いたアルヴェロ・デ・カンポス。
花や水、石や木などがよく出てくるので、美しい自然を描写しているのかと期待して読み進めていくのですが、どこまで行っても花は花でしかなく、石は石でしかなく、木もただの木でしかない。ペソアの描く花には名前も香りもありません。
その場の情景を思い浮かべられるような美しい詩というより、人間の視点に焦点が当たっていて哲学的な要素を感じました。本書ではペソア、とペソアが作り出した他3人の作品を比べながら読むことができるのでおもしろかったです。