紙の本
コペルニクス的発想の転換
2004/08/22 02:05
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投稿者:なかちん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は30章に分かれていて、前半後半でフランクルという精神科医が
つかんだロゴセラピーについて書かれています。
簡潔に、なお文字も大きめなので小難しい哲学書を
読むよりも実際に頭の中・心の中に入ってきます。
前半では、フランクルが強制収容所中に入れられているときに
考えたことがメインで書かれています。
後半では、ロゴセラピーについてメインに書かれています。
書評なので、具体的にどんな事が書かれているかという事は
避けますが、この中で心に染み入る言葉がありますので、
一文だけ引用させてもらいます。
「人生に何かを期待するのは間違っている。
人生が、あなたに期待しているのだ。」−フランクル
愛が根底の考えを持っているフランクルならではの
重い一言です。
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ナチス強制収容所の地獄を生き抜いた精神科医で、20世紀の代表的思想家でもあったフラクルの人と教えを紹介した入門書のような一冊。
強い説得力を持つフランクルの教えに、大変引き込まれました。
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「誇りは他者を必要としない」。フランクル哲学の一つです。他にも、読む人それぞれにグサリと刺さる一言が見つかるはず。ぜひご一読をお勧めします。
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研究室の先生が貸してくれた。
恐怖には立ち向かわなければならない。目を逸らしたらいけないんだよね。人の痛みがわかる人になりたい。
わたしは神経症があるんで、ナルホドと思ったり、感動したりする部分が多かった。こういう考え方って今までしなかったなっていう、目から鱗的な。
極限状態に陥ってはじめてひとはひとらしくなれるんかもね。
そういう意味ではわたしは病気になってすごくいいチャンスを得たのかもしれないって思えた。
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われわれが、人生の意味を問うのではなく、自身が人生の意味を問われているのであり、答える責任があるのだ。そして、究極的な意味は、われられの理解を超えており、ただその意味を信じるしかなかったのだ。(本文より)第二次世界大戦中、ユダヤ人であるフランクル氏はナチスによって強制収容所に送られた時の体験をもとに『夜と霧』。
日本語を含め多くの言語に訳され、60年以上に渡って読み継がれている世界的にもベストセラー
また『それでも人生にイエスと言う』などのロングセラーで世界的に著名な精神科医V・E・フランクル。
「人生の本質」についての思索をもとに、私たち一人一人に宿る「ロゴス」(愛、生命力、原理)を目覚めさせる「ロゴセラピー」を開発し、多くの人々の深い心の傷を癒しつづけた。私たちが最良の人生を築くための糧となる30のエッセンスを示す。
本文から一部紹介
苦しみが偽りの自分や幸福を壊したあと、愛が本当の自分と幸福をうち建てる人生に何かを期待するのは間違っている。人生が、あなたに期待しているのだ
人間は悩みに苦しむのではない。悩んでいる「自分自身」に苦しむのだ
ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl)オーストリアの精神科医、心理学者。
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フランクルは最高、多くの書籍が出されていますが、要点をよく取りまとめています。感動の一冊をありがとう。斉藤啓一さんありがとう
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装丁やサブタイトルの俗っぽさにも関わらず、
内容は本質的かつ実践的。
現在に不足していたのは、
苦行を肯定しうる程の意味付けの欠如だったのかな。
そして極限状態におかれた時の、
他者への配慮は、完全に自分には欠けている所。
「苦しい」という感覚は、自我の表出と同様。
マックでのパソコン作業はあきらかにその自我のあらわれであったのだと思う。
其の時の衣食住の不健全さも。
例えばそれは目的合理的な部分であったり、
効率性の重視であったり、「行為」に意識を向けない精神の脆弱さであったり。
フランクルの文章を読む限り、
おそらく永続的に無難に生きながらえるということはまずありえない。
とある一回性の出来ごと、それは偶然が与えた産物ということが多いとおもうが、
そこで見える自我を、苦しみに置き換え、それに意味を付与する中で、
こすり落としていくことが必要なのではないか。
それを経た後は、一時的にはうつ症状になれど、
経た世界から見える世界は、汚れと垢のとれた「世界」。
そこにこそ愛はあるのだろう。
自我をほんの少しこすり落とした、今回の仕事、
その苦悩にようやく意味づけができた気がする。
裸でいたいなぁ。裸で。
思想もいらない、ただ在りたいだけ。ただ在りたいだけ。
人といるときも、自分はいない。
ひとといるという現象があるだけ、交流があるだけ、行為があるだけ
そうあるのは行為だけ。行為だけ。
判断もない、何もない。
在るだけ。在るだけ。
いつのまにか、「思想に」頼り、
「それ」を信頼していなかった。
守りとも。小手先のそれとも。
信頼するのは、「そこ」であって。
決して「ぼく」じゃない。
「ぼく」はまったき正しくない。
●以下引用
何と言う自信であろうか。いや、むしろ「信頼」というべきなのだろう。突如として沸き上がった内なる力への絶対的信頼、これが彼の胸中を満たしていた
人間など、いくら優秀でも大したことはできない。真に偉大な業績は、宇宙の力を借りて行なう
人間は、いかに過酷な状況に置かれても、醜い本能をまるだしにしたり、劣悪な行動に走るような存在とは限らない。逆に困難や苦しみを通して聖者のようになる人もいる。人間の本当の姿とは、限りなく高貴で偉大な存在、高い次元に属する「精神なのだ」。
おそらく、偉大な業績を残した人は、自分の力でそれをやり遂げたのではないのだろう。人間など、いくら優秀でも大したことはできないのだ。彼らは【宇宙の力】を借りて偉大なことを行なったのである。自らの内面に宿るその力を信頼し、自分自身をその力にあけ渡すことによって、偉大な仕事というものは成就されるものなのだ
二時間後、帰宅したフランクルに、食事もせずに待っていたティリーがかけた言葉は、「ああ、やっと帰ってきたの。ご飯待ってたのよ」ではなく、「手術はどうだった?患者さんの具合はどう?」だった
魂という土地では、最初に苦しみがやってきて、偽りの自分や幸福を解体し、その後で愛���訪れて、本質的な自分と幸福をうち建てるのである。
偶然と思えるような出来事にも、そこには深い意味が潜んでいる。それは神からの啓示かもしれない。フランクルは常にそう考え、ささいな偶然からも、そこに意味を読み取ろうとする姿勢をもっていた
事実、神の導きは、短期的な視点だけで判断すると、期待はずれに終わることも多い。しかし長期的に見るなら、また状況は変わってくる。人間は近くに幸福を求めるが、神は遠くに求めるようだ
フランクルは嘆いた。しだいに心は麻痺し、何を見ても無関心、無感動になってきたという。
要するに、虚栄心も差別意識も、恐怖に対する防衛的態度の現れなのだ。虚栄によって人を見下し、差別化する根本動機は恐怖なのである。自己を他者より優位に立たせようとする行為である。
それは単に「虚栄に満ちたニセの自分」にすぎなかったのだ。それゆえ、囚人たちの中には、もはやいかなる恐怖も超越し、「神の他には何も恐れない」ほどの勇気、真の人間性を確立した者がいた。それはまさに「誇りに満ちた真実の自分」だったのだ
虚栄と誇りとはもちろん違う。虚栄を満たすには他者を必要とするが、ほこりは他者を必要としない。誇りとは、他者ではなく自らを征服した者の、内的な真の自信なのである
外的な希望は、一時的には励みになるかもしれないが、残念ながら当てはまらない
人生に期待するのは間違っているのだ。人生の方が私たちに期待しているのだ
天が自分のために回ることを期待するのではなく、天のために、すんわり宇宙を運行させるために、自分自身が回るのだ
未来には、あなたによって生み出される何かが待っている。人生は、あなたがそれを生み出すことを期待しているのだ。もしもあなたがいなくなれば、その何かも、生まれることなく消えてしまうのである。人生はあなたがそれを生み出すのを待っているのだ
☆待っている人、あるいは待っている仕事への責任を自覚した人間は、生命を放棄することは決してできない。またほとんどいかなる困難にも耐えられるのである。
人生は、結果の責任まで人間に要求したりしない
内面の基盤を確立し、一切の外的条件に依存せず、行為そのものに意識を向ける生き方はすでに宗教的とも呼べる境地に達しているといえそうだ
自分によって生み出される価値ある何か、人であろうと仕事であろうと、が未来に待っていること、要するに「自分は必要とされている」という自覚を呼び起こし、彼の生命力を増強させることができるであろう
ロゴスのエネルギーがいったん入りこむと、筋骨たくましい大男をはるかに凌駕するバイタリティと耐久力を発揮し、収容所の極言にも耐え抜いてしまうのだ
本当に強い人は、繊細な内面性を必ずもっているものである。
ロゴスを呼び覚ますためのあらゆる手段を模索するようになる。というより、追い詰められた状況で、模索させられたという方が正しいだろう。
これらは単なる人間愛の美談ではないのだ。生きるための手段だったのである。自分を忘れて愛する行為に没頭することにより、ロゴスを覚醒させ、過酷��状況でも生き抜ける生命と叡智の力を湧き上がらせようとしたのだ
真の礼節、すなわち人間らしい振る舞いは、衣食を失ってこそ生まれるのではないか?
いやな時期だったとしても、ちょうど人生のこの時期に、自分が精神的に成長し、成熟したのだとわかっている
自己距離化が行なわれてないと、つまり閉塞された自己内部の思考だけにとどまっていると、収容所のような極限状態では、ますます絶望に落ち込んでいくことになる
愛こそが、人間存在を高いレベルにもち上げる最後にして最高の真理だ
私たちは自分の中の愛を目覚めさせてくれる人を愛するのかもしれない
地上の幸福とは所詮、相対的なものだ
自らの未来を信じることのできなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼は拠り所を失い、内的に崩壊し、身体的にも心理的にも転落した
人間に貢献する何かを生み出す可能性を持つ者の「責任」を自覚したともいえよう。
これほどの危機的状況に見舞われながらも、それを乗り越えた生命力は、いったいどこからきたのだろう。やはり、ロゴセラピーを世に残そうという使命感がロゴスを呼び覚まし、その生命エネルギーを受け入れたからではないだろうか
絶望と苦しみは、本質である生命以外のあらゆる虚像的な自我を、死に追いやってしまうからだ
人間は苦しみを通して物事の本質を見抜く力、世界を透視する力、高い次元の存在を感じ取れるようになる
人生はいかなる状況でも、それ自体で意味を持っている。だが、その意味の中には苦悩も死も含まれるのだ。
彼が不運と思っていたトラブルは、実はことごとく幸運だったのだ
自分自身が別のものになるとき、苦悩は意味をもつのである
絶望とは、もうすぐ新しい自分、新しい希望が生まれるという前兆に他ならない。
こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには、何か意味があるはずだよね。何かが僕から求めている、僕は何かのために運命づけられているとしかいいようがないんだ
私が尊敬して仰ぎ見るような人々は、それこそ私を批判するだけの権利を十分にもっているのに、決まって寛容で、私の努力の至らない部分を見逃してくれ、いつもその裏に何か肯定的なものを見ようとしてくれた
いずむ(主義)は部分的偏見
生命エネルギーを喚起することができるのは、内的に自覚された意味より他ならない
単なる出来事にすぎない運命を、人生の意味を成就する機会としてとらえるということ
一回性の意味の成就は、良心の直観によって支えられている
ロゴスの声に従うことで、運命の課題に応えられるのなら、実はロゴスこそが「意味」の発生源
いわゆる「祈り」とは、ロゴスの声に耳を傾ける行為に他ならず、人は祈りを通してロゴスから答えを与えられるのだ
やたらに苦しめばいいというわけではない。意味のない苦しみは、できる限り避けるべき
苦悩はあくまでも成長の機会であり手段であって、目的ではない。
★どうしても避けられない苦しみが訪れてしまったときにのみ、苦悩は、飛躍へのジャンプ台となり、与えられた課題として、意味を持つようになる
不幸に見舞われた人を、自業自得だと考えたがるのは、差別化
証明
意味についての価値
①創造価値 ②体験価値 ③態度価値
③→運命に対し、模範的な態度を取ることで得られる意味
創造的価値も体験価値もない絶望的な状況においても、模範となるような思いやり溢れる高潔な態度を取ることで達成できる
創造価値や体験価値がなぜ意味となり得るのかと言えば、結局のところ、その行為が自分という意識を忘れさせるからに他ならない
ロゴスは自分を忘れた時に、無我の境地になったときに覚醒する。逆説的だが、自分を忘れたときに、人は本当の自分に目覚めるというわけである
「自分」があるうちは、なかなか無条件の行為、無私の行為はできない。
なぜならそこに「自我 エゴ」があるからだ。自我があるために、打算的で条件づけられた行為、利己的な行為しかできず、相手を単なる自己利益のための手段としか見れなくなる。自我はある種の障壁であるから、相手と一体化できなくなるのだ。
態度価値とは苦悩と絶望を通して自我が消滅し、自己超越して、本来の自分、すなわちロゴスに接近した自分がうまれることに他ならないのである
人生の経験、それも苦しみの経験を積み重ねるに従い、人はしだいに、充足と絶望という垂直次元で人生を考えるようになっていく
一般に物語は、あらゆる試練や困難が次々おそいかかってくるほど面白みが増すのだし、それに向き合う主人公の姿勢によって、感動がもたらされるか否か、決められるといえる
エゴイスティックな動機でなされているのではなく、利他的に、すなわち愛を動機としているときに、最高の感動が湧き上がるだろう。いくら格好良く困難を乗り越えても、それだけで感動をもたらすことはないだろう
結局のところ、感動とは、人間がその弱さを克服し、成長していくプロセスの中にある
真の信仰を持っている人たちはすぐにわかる。彼らには優美さがある、信仰をもっている人たちの動きが優美なのは、からだのなかを生命力が、自由に、なめらかに流れているからだ。彼らはからだとひとつとなり、からだを通して、あらゆる生命とひとつになり、宇宙とひとつになっている。
金や名声、他人の賞賛を得るためだったとしたらそういったものはいずれ時間と共に消え去ってしまう。そんな人生など無意味で空きゅ
生きる基本姿勢として問題なのは、自分に欠点や弱点があるかどうか、不安や恐怖を感じるかどうかではなく、それにどう向き合うか、その態度こどが大切
恐怖を克服するには恐怖と向き合うしかない。恐れていることを敢えてするしかないのだ
私たちの感じる恐怖の大部分は、生命の危険とはほとんど無縁である。
その大半は、プライドや虚栄心にこだわる自我が否定されること、その恐怖
自我がそれに耐えられない。弱点や醜態をさらせば、虚栄心がつぶれてしまうからだ
●すなわち私たちの恐れは、実際には自我の保存欲求からきているのである。必���で守ろうとしているのは、本当の自分ではなく、ニセの自分にすぎないのだ
●行為を自分自身に向けるのではなく、行為そのものに向けさせ、自分を忘れさせる
●完全に根源的な自分自身であるとき、精神は自分自身に対して無意識である
今までに意味を問わない瞬間がたしかにありました。そのとき、意味はまさしくそこにあったのです。私は存在との一種の合一さえ経験します。そしてこれは、偉大な神秘家たちによって伝えられてきたような、神に接近した経験と同じ種類の者
意味を求めれば求める程、真の意味は遠ざかる
創造価値や体験価値では、単なる自我の満足を愛の喜びだと錯覚させることがある。しかし徹底的な絶望である態度価値にそれはない。
●「おまえが何をしようと、何の得も見返りも、慰めも期待できない。感謝もされなければ、認められることも、愛されることもない。さあおまえはどのように生きていくか?」これがクライマックス。こうした完全に無条件の条件に追い込まれてこそ、真実の愛は為され、あるいはまた、真実の自分を閉塞している自我の殻を破るチャンスとなる
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「われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が意味を問われている」
死んだ者は身体という物質を離れて精神的な存在になり、生きるわれわれを見ている。とか過去の出来事は永遠に現存されていて、それらは超世界という時間が存在しない世界に存在していて、生きるとは超世界に彫刻を彫っているようなもの。とか、神秘思想的なことが書かれていますが、読み違えてはいけないことは、ヴィクトール・E・フランクルは精神科医だということ。
理系のはしくれとしては、神秘思想にはどうしても馴染めないのですが、それで苦悩する人に幸福を与えられるのならば、薄っぺらい科学主義なんか持ち出すのは筋違いという気もします。
言い方は悪いのかもしれないけれど、苦悩に苦しむ人に対する治療という側面がロゴセラピーにはあるんだと思います。現実に苦悩する人を現実が救う事はできないのかもしれません。そして、物質を超えたものに対するフランクルの確信が、人々にロゴスを存在せしめるのです。
著者が魂の覚醒とか神秘思想とかに親和的な人だから、フランクルの思想にバイアスがかかっているように思うので、夜と霧を読みたいと思います。
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差別とは、自分を他者より優位に立たせようとする行為である。その根底にあるのは、おそらく自己保存の欲求であろう 「死と愛」国籍や母国語や出生地のために責任を問われるなど、自分の体の大きさの責任を取らせるのと同じように馬鹿げたことに思われるはずです フランクルによれば、人間の本質とは、物質次元を超えた「精神」である どんな役柄であれ、それを輝かしく演じたときに、人は心の底からの充実感をつかむことができる
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フランクルの「夜と霧」ができた過程がよくわかる。アウシュビッツでの極限の体験から導かれたのではなく、既に精神科医として自己の哲学や論理を持っていたからこそ極限状態の人々の心理を的確に見抜いていったと理解した。また精神療法としてロゴセラピーなるものを確立している。
人生に何かを期待するのは間違っている。人生があなたに期待しているのだ。これがフランクルのコペルニクス的転換としている。一貫してロゴス(神性)の追求が根底にあるようだ。