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・文章や表現が上手い人が好きだ。彼はそうではないけれど、圧倒的な熱量と正直さにやられる本。
・Youtubeチャンネルや各種メディアを追っているが彼の言うことには一貫性があって、本に書かれている内容もリアルを感じられる。
・音楽の話や芸人人生の過程について世の中への批評を交えて語られているサブカル本として読むこともできるが、ところどころで芥川作品を読んであるような感覚も感じさせてくれる。
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本当にどうしようもない人間代表の永野が、本当にどうしようもない人間たちの背中を押して肯定してくれる本。
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同族嫌悪
うわーって思いながら大学の先輩やん!みたいな気持ちでやたら共感してしまう
そういう人です
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ここの所再ブレイクしてしまった為、YOUTUBE更新がすっかり無くなってしまってとても悲しいです。全く同い年でロック好きという事ですっかりファンになってしまいましたが、それはお笑いではなくあくまでもロック好きの同級生としてなんですよね。
そんなロックや映画の話が満載の本書楽しく読ませて頂きました。
実は同じ音楽好きとは言っても、91年からの音楽史は永野さんとは右と左に分かれてしまっています。
ニルヴァーナをリアルタイムでCD買って聴いて、衝撃を受けたまま90年代のグランジオルタナの波に乗っていった永野さんと、全く響かずそのまま中古CD屋に売ってしまった僕。僕はと言えばそのままHMHRへ進んでいき、世界的にはすっかり尻すぼんだ裏の音楽の歴史を歩んでいたのです(OASISも聴かなかった)。
ある意味正しく90年代の音楽を吸収した永野さんの話は、僕が歩んだ道のパラレルワールドのようです。おかげ様で先祖返りのように90年代のオルタナも聴くようになりました。
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永野のように、ロックや映画に救われたというほどの孤独だった過去はなくても
彼からみるとおそらく普通の人である自分の中にも鬱屈した感情はあり
この本はそれを肯定し、世のオルタナ的なものと繋げてくれる
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サーフィンはかっこいいから好き
ゴルフは余裕のある人しかしないし環境破壊だから嫌い
って考え方おもろすぎ
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自分が孤独で、どうしようもなく暗い気持ちだった時にこの本を読んで救われたような気持ちになった。
孤独はオルタナティブで、何も寂しいことじゃないって思えた。
間違いなく、いまのわたしに希望を与えてくれた作品です。
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永野がひたすら自分が思うオルタナティブについて語る。
ただ、永野が言うオルタナの基準って要は自分に何が響いたか、助けてもらったか、好きかでしかないように思う。つまり永野の好きなものがひたすら書かれている本。
最初は永野らしいな思いつつ共感できる部分もあったが、ずっと好きなものについて語っている姿はただのサブカルおじさんに見えてきてしまった(笑)
オルタナを語る人は果たしてオルタナなのか...?
幾つか気になる映画や音楽に触れられたので参考にしてみたい。
タランティーノの『ジャッキー・ブラウン』否定してなかったっけ??
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永野氏は自身のYouTubeで好きな音楽、映画等のカルチャーを度々お話しされていますが、本作品ではより深く、笑いやヒップホップ、自身の上京当時の鬱々とした状況等をオルタナティブとは?を切り口として、幅広い視点で語られています。
読後に、すかんちの「恋するマリールー」を久々にYouTubeで聴いてみましたが、やっぱり今でも良い曲でした。
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芸人永野さんがグッときた=オルタナな音楽、映画などを半生を振り返りながら紹介している本。ロックや映画について背景知識はないけど、成田悠輔さんとの対談で興味を持った永野さんの頭の中を覗けると思って読んでみた。一見かっこいいけど世の中への愛憎を抱えた寂しいはみ出し者に、特に不良でも引き篭もりでもないのに中高不登校の上高校を中退してしまった自分を重ねて読んでしまい、当時好きだった音楽や本を思い返すきっかけになった。中年になっても若い頃に作品から受けた影響を反芻しているところに愛を感じ、歳を重ねて少し上手く生きれるようになってしまっている自分に恥ずかしさを覚えました。
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「今の LGBTQの文脈って、「多様性を認めよう」じゃないですか。それは声を大にして発信していくべきですが、自分は『ピンク・フラミンゴ』の「俺たちは俺たちでいく」というスタイルが好きです。昔のマイノリティはそういう描かれ方が多かったです。 今の時代における描かれ方と何が違うか考えると、やっぱり「共感」を求めていないというのが一番大きいのではないでしょうか。今はみんなが共感を求めるじゃないですか。「理解してよ!」「理解しなきゃ!」のオンパレード。自分は昔の「別にわかんなくてもいい、そのかわり勝手にやりますよ」って雰囲気が好きでした。オルタナでした。」
—『オルタナティブ』永野著
「普通に考えたら、「日本語ラップ」って無理してるというか、「テキサス三味線」みたいなことだと思うんです。テキサスでテキサス流の三味線プレイが生まれたとして、それが見事だったとしても、三味線って意外と三味線のままで良くね?という。凄いけど、わかるけど、普通に「津軽三味線」で良くね?という。だって 50セントなんか見るとあまりにも土壌も歴史も違い過ぎて、もうすみませんでしたって謝るしかないんです。そこに日本流の解釈を入れたり、アップデートする必要あるのかなと思ってました。」
—『オルタナティブ』永野著
「 別のインタビューでもカート・コバーンは「ラップというフォーマットは好きだし尊敬しているけど、俺はラップはしない。ラップは黒人のものにしておくべきだ。ヴァニラ・アイスにはムカついてる。白人が黒人から物を奪うのはもうウンザリだ」と言っています。黒人つまりアフリカ系アメリカ人ではないラッパーからしたら頭でっかちで屁理屈だと思うかもしれません。だけどやっぱり本物論は大事にしたいんですよね。ラップって黒人がやっと見つけた武器じゃないですか。ロックをパクられて、チャック・ベリーのロックンロールを白人にパクられて、黒人が今度はパーティでレコードをかけて M Cで煽ったらそれも奪うのかと。もちろん全てがカルチャーの盗用、収奪と思ってるわけではないですが、そこのリスペクトは忘れちゃいけないと思っています。みんな意外とそこの本質に触れずに、目を向けずに日本語ラップは ~とか言ってるじゃないですか。ラッパーでもなんでもない自分が言うのもなんですけど、黒人へのリスペクトは忘れたくないですね。」
—『オルタナティブ』永野著
「30代の頃住んでいた三軒茶屋の安アパートの記憶は灰色で、人間は住む場所や環境に適応していくものなので生きてはいましたが今あの暮らしをまたやれと言われたら無理です。あれはキツかったよなあと 40代前半の自分は当時の自分を哀れに振り返ったのですが 40代後半になって自分の考えは変化しました。あれは本人の気分では監禁だったかもしれませんが、 30代に入っても親から仕送りを貰ってたりなど実家から生活を援助してもらっていたので、本当に監禁されていたのは親の方だったのです。東京から帰ってこないわでもテレビでも姿を見ないわの理想だけ高い息子に金の援助をするという地獄。ニュースで実家住まいの 40代の男が親を殴って捕まるといった事件が報じられるたび世間は信じられないというリアクションをしますが自分にはリアルで、昼間に意味もなく歩いている金のなさそうな中年や公園にいる青白い青年など所謂不審者を他人事には思えず、何度も言いますが自分は本当にあっち側の人間で、人に尊敬される要素もなく、そんな人間だからこそ現実など空っぽだと思わないとやっていられず、それでもご飯ばっかり食べながら生きてきて、ヤマダ電機そばでオカルト体験をしたり一応売れたという経験もしました。結果「目には見えない全てを真実とした」ということを信じる状態へと入ったのです。」
—『オルタナティブ』永野著
「ハングリーとか貧乏とか苦労したとかいうのは共感ストーリーになりやすいしみんな喜ぶというのは実際あると思います。でも逆に金持ちを満喫してるのもハングリーの裏返し。要するに金に特に左右されてない抜けた雰囲気が欲しいですよね。」
—『オルタナティブ』永野著
「他所の中学校の生徒からしたらエリートのお坊ちゃんお嬢ちゃん学校に映ったと思いますが、その中にいる自分は他の生徒と比べて全く勉強をしない異端な存在で、不良の環境の不良よりエリートの環境の不良よりエリートの環境でエリートでありながらの不良よりエリートの環境の落ちこぼれは扱いにくいと思います。常に反抗的だけど覇気がないのです。中学生が持つ激しさもなく暗い顔でニヤニヤニヤニヤしていて教師にとっては忌々しい存在だったその頃の自分はきっと気が触れていたんだと思います。これぞ中学生界のオルタナです。」
—『オルタナティブ』永野著