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「死海のほとり」遠藤周作
「エルサレム市の裏通りにある倉庫のようなホテルで戸田を待った。ながい間、会わなかったこの学生時代の友人は、ローマから出した葉書を受けとってくれているなら、今日、私がこの国に着いたことを知っている筈である」
かつて神父になろうとまでした戸田は「まだ、あんた、あの男のことが気になるの」と皮肉をもって私を迎える。聖書学を続けている戸田の信仰は、学生の頃と比べ純粋さを失った。私も同じだ。しかし同様にイエスにこだわっている。
そんな調子で思い出話をしながら、気だるくイエスの痕跡をたどる二人に復活は訪れるのか、みたいな作品です。結構ガツンときます。おすすめです。
04 けいじ
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人間なら誰しも経験する思考の壁。
殉教者としてのイエス、人間としてのイエス、宗教者としてのイエス。
いずれのイエスも高尚な魂ではなく、地面を這いずって力を振り絞って見つけた姿である。
巡礼者として、現代の死海のほとりに立ち、古のイエスの姿を追う遠藤。
だれしもが一度は心のほとりに立つのではないだろうか。
哲学書にも思える小説なのだが、強いカリスマ性はなく、むしろ弱い心の中を行き来する人間の弱さを見つける旅かもしれないと思った。
次に続く、イエスの生涯やイエスの誕生を読み合わせて、初めてこの人間の迷い、イエスの迷いの心がわかる気がした。
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信仰を見失った私は、エルサレムに旅立ち、そこでイエスの足跡と生涯を辿る。なにかのきっかけになればと淡い期待を抱いてエルサレムを訪れた私だったが、そこにあったエルサレムはイエス時代から何度も破壊され、再建された街であり、イエスの足跡を追うのはほぼ不可能だった。群像、としてイエスに関係のあった人物の視点を描いた小説と現代の私が章ごとに交互に表れながら、愛と信仰の原点を探る。
沈黙以来、久々に読書において圧倒的にキリスト教を感じた。遠藤周作の書くキリスト教はまさにわたしの奥深くに根付くキリスト教と同種のもの。作中のイエス像はかなりわたしのイエス像と近い。ナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺と絡めて書いてあるのがとても虚をつかれた感覚。
久しぶりに原点に戻った。信仰しているとかしていないとか、洗礼を受けているとかいないとか関係無く、やっぱりわたしにはキリスト教が必要。
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彼らは互いに会えないにしても、互いの記憶の中で、それこそ急に忘れていたねずみとの思い出が急に甦ったように、今回の死海のイエスの軌跡を辿る旅を鮮烈なまでに思い出す日が来ると思う。
記憶の中で、彼らは互いに会い続けるだろう。
そして、<私>はその度に彼の首にある赤黒い火傷の痕を思い出すのだろう。
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ちょっと詰め込み過ぎのように思う。
大祭司アナスがほったらかしのように思うし、ピラトももうちょっと書いてほしい。
実のところ、この本の中で、ピラトが母を見捨てたところがいちばん心に来た。
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この中に描かれているのはヨーロッパ的な「偉大なるイエスの愛」とはまるで違う。どこまでも非力で、ある意味人間臭い、でもなぜかとてつもない愛を感じるイエスが描かれている。「偉大なるイエス」に違和感を感じ続けていた遠藤周作だからこそ書けた作品だと思うし、この作品に描かれている「イエスの愛」こそ遠藤周作が苦悩しながら見つけた愛だったのだと思う。作品の重厚感は圧倒的。
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『沈黙』で有名な、遠藤周作の小説。
啞に口を開かせ、盲に見えるようにし、死んだものを生き返らせ。あるいは圧制者から自分たちを解放させる。そのような「奇跡」への人々の渇望。
このような日々の直接の即物的な苦痛から解放させる業こそが奇跡と呼ぶことを認められるのであれば、きょうび、自分らが生きているこの生活状況などは奇跡の恩恵そのものとも見えてくる。病による意識の混迷、うわごとなどが悪霊の仕業と人々がみなが恐れ、家族でさえその病人をほとんど見放すようにして隔離した時代である。当時のユダヤ人にとってみれば、現代の科学、医療技術などほとんど魔法に見えもしよう。だれが、この現代の(すくなくとも日本の)日常にあるような快適、あるいは安心を予想したか。
しかし、そのような神話のようにして伝承され当然懐疑の的ともされるべき、いわゆる「奇跡」、これがイエスと言う男の偉大さを保障するものであるとみなすべきか。
否。イエスの偉大さはそんなところにあるのではない。技術でもってとって替えられるようなそんな効用に応えるべく期待された(期待される)「奇跡」などに、ということはできない。
ではどこにそれは。
…愛に。
あぁあと思わず赤面してしまいそうな。歯が浮き上がるこの言葉。ではあるがしかしやはり、
あの誰も救うことのできなかった愛にこそそれはある。
人々が落胆した「毒にもならぬかわり、薬にもならぬ(p.294)」、そんな無力な愛に。そこにイエスの偉大さがある。
愛などただ感傷的なたかが感情にすぎぬと、人は言うか。
違う。イエスの愛はそれとは違う。なぜか。感傷は、痛みへの陶酔、もろい持続せぬ快楽の感情でしかない。それゆえ感傷は、外からやってくるそれ以上の圧倒的な負荷に耐えることはとうていできない。なるほどイエスの愛は、優しさは、たしかに何の役にもたたぬ、もっとも非力なものであったと一面では言うことができる。しかし、その愛は、空腹に耐えた。流血の痛みに耐えた。残忍に耐えた。嘲笑に耐えた。無理解と裏切りと孤独に耐えた…そして、死に耐えた。イエスは愛を、文字通り命をかけて、人々の前に示した。
なぜ、あれほど無力で弟子にも見捨てられたイエスが死後、神の子と見られるようになったか。
それは、イエスが我々の人生を横切るから、に他ならない。
イエスと言う一つの生命が現象したこと、すなわち神のはかりしれない愛の現象であった、彼の生それ自体が、奇跡であり神秘であった。
…というようなことを、おもわず納得してしまうような、そんな小説だった。いやはや。以下引用。
(イエス)「わたしは……一人一人の人生を横切ると申しました」
(ピラト)「それでは、私の人生も横切るつもりか(…)そして私の人生にも、お前の痕をつけるのか(…)だが私は、お前を忘れることができるぞ」
「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
「なぜ」
「わたしが、その人をいつまでも愛するから���す」(p.211)
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教会の聖地巡礼に持っていった本。
10日間でガリラヤ湖畔からエルサレムを回りました。
かなり昔の話。今は危険で行かれないと思う。
持って行ったのはいいけど、現実のイスラエルに圧倒されてほとんど読めなかった。
帰ってからゆっくり読みました。
あてくしは戸田のような強い信仰は持ったことないので(持てよ!)、どっちかというと主人公に共感して読んでました。
この本もそうだけど、遠藤周作のイエス像はいつも、聖クリストファーの逸話(汚い乞食の爺さんが歩けないので背負ってほしいといって、聖クリストファーは嫌なんだけどあまりにしつこいのでしょうがなく背負って歩いたら、爺さんがキリストに変容する)を思い出させます。
クリストファー⇒キリストを負う者。
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出口先生の現代文から影響をされてロドリゴさんも神父さんもまだなのです。いい本なのです。がんばります。
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さすがの筆力。今まで軽めの小説ばかり読んでいたせいか、若干重めに思えたが、文章がキレイかつうまい。
イスラエルで本当のキリストの姿を探し求めたが思っていたよりも惨めなキリストの姿が浮かび上がってくるにつれ、新たな視点や解釈を得ることができたという結びになっているが、キリスト教徒の作者による押し付けがなく普通に小説として読みやすい。
信仰は各々の自由な解釈によって為されるのであると言っているような気がした。
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エルサレムにキリストの面影を求めにきた作家とキリスト教を捨てた友人、そしてキリスト自身の最期の物語とを、重ね合わせながら進んでゆくお話。
遠藤作品は、キリスト教をテーマにした作品が多いのは周知だが、西洋的なものでなく、日本の風土と習慣、そして思想にいかに昇華するか、を描いている点に私はいつも惹かれる。
「沈黙」「侍」「深い河」と読んだが、これらにあるような一環したドラマとしての面白さはなく、淡々と、苦しいほどに綴られていくが、遠藤周作の、”キリスト教”観が、とても解る一冊だと思う。
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イスラエルツアーで一緒になったひとに薦められた本。実際に行った土地が舞台なので、とても読みやすかった。時期も合っていたのでますます。漠然と疑問に思っていたキリスト教についての取っ掛かりになる。
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遠藤周作の作品を読むと、望みもしないで生れ落ちてしまったこの美しい世界でなんとか生きていくための「同伴者」としてのイエス像を描いていると思う。
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遠藤の作品で五指には入る名著。しかし今までなぜか読む機会を失していた。私も33になり、イエスの昇天の歳であるから、特別な何もないけれど、思いだけは引き締まる中でこの書を読み始めた。過去に遠藤の著作にはどれだけ触れただろうか、20~30だろうと思われるが、その文体に触れるとなぜだか安心する。鮮烈な刺激とは違う、どこかこなれた、気を使わない暖かさを遠藤は与えてくれる。いつでも懐かしいのだ。早くに触れて、もう読み終わったというだけで意識から外れてしまわなくてよかったと思う。今だからこそ深い感慨があった。
二つの視点が対位法のように独立した旋律を奏で信仰する。一つのイエスという内的軸とパレスチナという外的軸を中心として。その視点には<巡礼><群像>というテーマが与えられ、現代のイエスを捨てきれない男の記憶と、2000年前のイエスを捨てた人々の記憶が、最終的には一点において交わる。
<巡礼>においては、キリスト教の信仰を捨てた男がイスラエルを訪れ、大学時代の同僚に案内をしてもらいながら、イエスの足跡をたどる。同僚は大学時代に回心し、聖書研究の為にイスラエルに定住し、しかし信仰的情熱はすでにさめてしまっている男である。観光地になっているイエスにまつわる聖地を、でたらめとばかりに鼻で笑いながら案内する同僚。信仰は当の昔に失ってしまっているはずなのに、そんな同僚のもの言いに何か腹を立てる主人公。二人ともイエスを忘れることができない。キリスト教系の大学の寮で共同生活をしていた二人。その記憶をたどりながら、会話をぽつりと続ける。主人公の男がどうしても忘れることができない修道士の男がいた。コバルスキというユダヤ系ポーランド人で、ねずみと呼ばれていた。身体が子供のように細く、いつも泣きはらしたような眼をしている。人が怪我をすると貧血を起こし、自分が病気にかかると死にたくないと喘ぎ、人のおこぼれにはなんとかあずかろうとする、狡いねずみ。男はなぜかこのねずみが記憶から離れないのであった。
<群像>の視点には様々な男が立つ。2000年前のパレスチナ。イエスの短い生涯に関わった6人の男がイエスを捨てる話である。病に倒れた子の回復を、イエスの奇跡にすがった男。イエスの弟子アルパヨ。大祭司カヤパの叔父である大祭司アナス、ユダヤ知事ピラト、ヨモギ売りの男、イエスの十字架をみとった百卒長である。全員がイエスに関わり、イエスを捨てる。個人的に、政治的に、信仰的に、義務的に、扇動的に、イエスを捨てるのである。全ての視点に通じる情念は、力なき男。愛だけを語った男。犬のように死んだ男、イエスである。
二つの視点が交わる点は「同伴者イエス」としてである。修道士を追われポーランドに戻ったねずみはナチスの収容所に収監される。非力で何もできないが、自分のことにだけは執着するねずみは、収容所でも狡く出来るだけ楽をして、生き延びようと努める。しかし、労働力外とされてしまったねずみは小便をたらし、いやだいやだと泣く。待っているのは死のみである。最後にねずみは、自分の命のパンを年少の男に渡し、ひかれていく。そのコバルスキ・ねずみのとなりに、幻を見たという。同じように足を���きずりながら襤褸をまとい引きずられる男、イエスである。
イエスは奇跡を起こさない。ただ、悲しきものの、苦しむものの、泣くもののそばにいて、共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣いただけだった。イエスに人を救う力はなかった。しかし、どんな者のそばにいて、その重荷を共に負う、それだけをなしたのだ。「同伴者イエス」それが、二人の信仰を捨てた男をつかんでいる。
J.S.バッハ『マタイ受難曲』を聞きながら
13/12/30
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愛はこの世で一番、非力で無力なものであった、とイエスが十字架で処刑される際、周囲の人間はつぶやいた。が、すべてが終わった瞬間、愛はこの世で一番美しく、力強く、人々の心に生き続けた。何故、イエスが人々の心に残り、我々の人生に影響を与え続けるのか?目を閉じ胸に手をあてて心に問い続けたい。