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イエス・キリストの真の姿に迫る名作。イエスの実像は聖書に描かれている姿とはかけ離れた、みすぼらしく、人々から嘲られ、惨めな一生を送ったと描かれるが、イエスが周囲の人々に示した愛は、関わった人々の心に深く刻まれていく。並行して語られる現代の物語との後半のシンクロは圧巻。
僕はキリスト教信者ではないし、聖書物語も信じていないが、この小説でイエスが示した愛は信じる。
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■『死海のほとり』 遠藤周作著 新潮文庫
【全編4 メシヤ降臨とその再臨の目的】
遠藤周作の力作です。イエスの歴史的実像とは一線を画し、我々においてのイエス、そして救いとは何であるかを問うています。追記にありますが、同著者の『イエスの生涯』と表裏をなす作品であるということです。『イエスの生涯』はイエス自身の歩みとその真実にスポットを当てていますが、こちらの『死海のほとり』はイエスを取り巻く群像の目線からイエスを描き、2000年後のイエスから離れることができない男たちの目線からイエスを語ります。
原理の理解としては、後編のイエス路程よりも、前編の「メシヤの降臨とその再臨の目的」のほうが、内容的には該当すると思います。イエスによる救いとは何であったのか、がより大きな焦点であると思いますので。
作中は二つの視点が対位法のように独立ながらストーリーを組み立てていきます。時代的に2000年の隔たりがある二つの視点ですが、内的にはイエスを軸として、外的にはイスラエルを軸としながら最終的にはイエスによる救いの真実を実存的に問いかける地点で着地します。
一つ目の視点は<巡礼>というタイトルで括られたもので、現代に生きる男がイスラエルの旧友を尋ねるところから始まります。男はカトリックの家に生まれ、親に連れられるまま教会に通い洗礼を受けた過去があります。戦時中、キリスト教系の大学寮に入っていたため、ノサックという神父とコバルスキという修道士との関係が生まれました。様々な同僚と共に厳しい環境を学生という身分で過ごしていきますが、自覚的な信仰など持ち合わせていない男はぼんやりとその神父や修道士の姿を見つめていました。ここで同僚として過ごしていたのが、のちにイスラエルにおいて訪ねる友人、戸田です。生まれながらのクリスチャンとしてぼんやりと自覚もないままに信仰を持っていた男に対し、ここで信仰に目覚めた戸田は、皮肉屋でもありますがバリッとした信仰を持ち、潔い姿で毎朝の祈りもささげていました。
この話で肝になるのがここで登場するコバルスキという修道士です。ユダヤ系のポーランド人のこの修道士は、手足は細く子供みたいで、異常なほど臆病で、修道士かと疑うほどに狡く姑息な性格でした。非力で何をやらせてもぎこちなく、寮生からは「ねずみ」とあだ名されていました。戦時中なので信教の自由も拘束され、神父や修道士もひっそりとしかいることが難しい時代でした。そんな中でねずみは自分を守ることに必死で、最後には修道士の立場も追われ祖国に帰されるようになります。その後の噂では、ナチスにつかまり収容所に送られ、そこで殺された、ということでした。
時代がすぎ、現代。作家になった男は、いろいろな夢も破れ信仰も捨て、諦めの中で人生を過ごしています。仕事の関係でヨーロッパに来ていましたが、その帰りにふと、イスラエルにおいて聖書研究をしている旧友の戸田を思いだし、その元を訪れることにしました。再開してみると、戸田も信仰を捨てていました。しかし二人に共通することは、信仰は捨てていてもイエスから離れることができない。何時までも心に付きまとうイエスの影に心とらわれなが���、二人はイスラエルの巡礼をします。ほとんど観光地と化したイエス所縁の地を巡り、歴史を講釈し現実を鼻で笑う戸田と、そんな乾いた説明を聞きながら一々心に刺さるイエスに、「ねずみ」を思いだす男。巡りながらそんなイエス像とねずみが分かちがたく結びつけられることを、男は不思議に思います。
もう一つの視点は<群像>というタイトルのもとにまとめられた、2000年前のイエスと関係した6人の男の記憶です。奇跡を待つ男、アルパヨ、大祭司アナス、知事、蓬売りの男、百卒長の6人です。それぞれが何らかの形でイエスと関係をします。ある者は救われ、ある者は裏切られ、ある者は政治的に利用し、ある者はストレスのはけ口として、ある者は仕事の患いとして、ある者は同情するものとして。しかし全てに共通するのは、イエスを捨てるということです。この中のイエスは、本当に力がない姿で描かれます。人々に奇跡を求められても「私にはできない」と悲しき顔を浮かべ、病気の人がいればただそばで手を取って祈ることしかできない。「愛」ということがたびたび使われますが、愛とはこんなに非力なのかと、打ちのめされるほど、弱き姿で描かれます。
描き方として巧みなのは、既成のイメージでイエスを見ることを極力避けるようにではないかと思うんですが、福音書に登場する主要人物の名前をあまり登場させません。特にアルパヨの視点からは、12弟子たちが直接描かれますが、そのままの名前をほとんど使っていません。アルパヨというのもアルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)を指していると思いますし、最後まで共にいるシメオンはシモン=ペテロのことでしょう。ちょっと本が手元にないので、確認が難しいんですが、あと二三そんな弟子たちが出てきます。全部がそういうわけではないんですが、ある程度抽象化させながら、イエスの事実ではなく真実を伝える努力がうかがえます。そういう描写に導かれて、イエスの姿が浮き彫りにされていきます。
最後の章で二つの視点が交わります。2000年前のイエスの真実。奇跡を起こした超人的なメシヤではなく、愛を尽くすことしかできなかった力ないイエス。そして二人の信仰を捨てた男が、それでも捨て切れることができずに心をつかまれたイエス。それは「同伴者イエス」という姿で結ばれます。
収容所に送られたねずみの最後を知っている人物から手紙がきました。収容所でもどこまでもあざとく、自分を守ることしかできなかったねずみでしたが、年下の男(手紙の送り主)には多少優しさを見せることがありました。収容所なので労働力にならない人間はすぐに処分されてしまいます。そしてその死体に残る脂肪を集めて石鹸にされるそうです。非力なねずみは立場のある人間に阿りながら、なんとか死をまぬかれようとしますが、最終的には同じ受刑者たちからも捨てられ、獄卒からも労働力外の烙印を押され、死を突き付けられます。小便をたらし、涙を流し、動けないねずみですが、最後にひかれていく前、その男に一日一度の食事であるコッペパンを渡すのです。
ひかれていくねずみのとなりにある幻が見えました。それは同じく足を引きずり、襤褸をまとい涙を流しながらよろよろと歩く男の姿でした。それは紛れもない、同伴者イエスでありました。
救いとは何であるか、考えさせられます。奇跡では人間は変わりません。私たちの心が真実の愛を持たなければ、環境は変わっていかないのです。イエスができた事、それは共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣く、それだけだったというのが遠藤のイエス像です。イエスは語ります。「それでもあなたのそばにいる」と。どこまでもいぎたなく生きたねずみでありましたが、最後にコッペパンをあげます。ねずみは救われたなと、私は感じました。同伴者イエスの愛が最後にしてねずみの心に現れます。痛ましさの中にも、意味のある者が生まれてくることを感じるのです。
あくまでも遠藤のイエス像です。聖書を拡大解釈している部分はもちろんありますが、イエスの愛の姿に大きく迫る名作であります。
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愛すること・人間の美しさ
弱さ・醜さ
これらが果たして不可分ではなかったかと、いろいろな人間の底をつないでいくような小説
さすがの筆力
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信仰を失おうとする私とゴルゴダの丘に至るイエスの物語が最終章に重なっていく。
深い感動が静かに胸に刻まれる作品。
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やはりというか、暗く不気味な物語であった。現代の『私』の旅行記・回想と、イエスの生涯の一部が交互に語られていくが、何せよどちらも暗い。
物心ついたときからキリスト教徒に「させられていた」主人公が、棄ててしまった信仰の原点を求めにエルサレムへ。だが、イエスの影など跡形もなく、曖昧な聖書の記述にそって決められた、イエスを記念する場所。
民衆から見放され、ゴルゴダの丘へと至るイエスの姿は、後に西洋世界の、ひいては世界全体の歴史に大きな影響を与えることになったキリスト教のいう『神の子』のイメージからはあまりにもかけ離れている。とにかくみすぼらしい。
そして、『私』の回想の中でたびたび登場する『ねずみ』。これもキリスト教徒でありながら姑息な人間で、最終的にはホロコーストの犠牲となってしまう。
なぜ『私』が信仰を棄ててしまったか。戦時中の狂信的全体主義の中で、信仰を続けることが困難であったか。自ら選んで信仰したわけではないからか。はたまた、『ねずみ』がいたからか・・・。
本書を読んでいると、ここまで多くの人間が、なぜキリスト教を信仰しているか、よくわからなくなってくる。全ての人間から見放されてしまったイエス、キリスト教徒でありながら、犠牲となってしまった『ねずみ』。宗教は私たちを幸福にするのか、不幸にするのか、筆者からその根源的な問いを投げかけられている気がする。それは現代においても変わっていない。
本書に存在する一縷の望みといえば、イエスが最期に残した言葉くらいのものだろうか。
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日本人の巡礼と、イエスの時代が交互に語られる方式。日本人は虚像のイエスと戦中に疑問をもってしまった信仰とに苦しんで捨てたのだと感じるイエスから逃れられていない。「真実のイエス」
として語られる古代ユダヤパートのイエスは、愛を説き、迫害される人々に寄り添うけど誰も物理的に癒せずに人々を失望させ続けやがて迫害される。その姿は日本人パートで疑われている姿そのもの。
古代ユダヤの人たちがあまりにも現代人の価値観すぎるけどむしろこれは仕様なのかもしれない。あくまでも語りたいのは日本人の信仰であって古代ユダヤの人たちはダシだったのかもしれない。
遠藤周作のイエスは弱い。タイトル忘れたけど昔見た洋画のイエスも弱かった気がする。イエス像にも流行りがあるのかな。
書きながら思ったけど、むしろ古代ユダヤパートひ、日本人がわの想像なのかもしれない。もしくは、戸田の中にいるイエス。
地元図書館Bエ
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古い単行本は味がある。
昭和48年発行の単行本を古本屋で見つけました。遠藤周作さんは歴史に出てくるいろんな人たちの作品がおもしろくすてきですが、宗教者としての作品はとても比重が高いように感じます。読み応えのあるとても良い作品でした。
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キリスト教でもなければイエスについてそこまで詳しいわけでもないのだが、イスラエルに滞在経験があり、ゆかりの地をあちこち回ったのでそのときの記憶とともに読み進めました。とかく神聖視されがちなイエスだが、実際のところその生涯は惨めでみすぼらしく、失望され、罵声を浴び続けてきた。しかしいつも苦しんでいる者悲しんでいる者のそばに寄り添うことをやめなかった。矛盾するようですが、自分はきっとイエスのような人間にはなれないと確信すると同時に、これまでで最もイエスを身近に感じられる、そんな小説でした。挟まれる私小説で語られる「ねずみ」のエピソードにより、そんなイエスの存在がよりくっきり浮かび上がる仕組みになっています。初めて読みましたがすごいです、遠藤周作。
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[希求の末に]近くに赴いたついでにエルサレムに立ち寄った著者は、大学時代から聖書を研究していた戸田に案内を依頼する。キリスト教に対する熱度は往時の頃と比べて衰えながらも、イエスの足跡を必死に探す著者であったが、戸田は行く先々で皮肉な笑いとともにその思いを跳ね返してしまう......。エッセイ的記述に聖書の物語を挟み込んだ作品です。著者は、本書をしてもっとも「その人らしい」と言われる遠藤周作。
遠藤氏が抱え込んでいた霧がかった心情を把握するために極めて適した一冊だと思います。個人的には遠藤氏はキリスト教の教え(特に無償の愛という点)そのものには共感を抱きつつも、現世に見られる数々の問題に対して人一倍の敏感さを備えてしまったが故に、その教えを最後まで信じきれなかったのではないかと。どこまで普遍化できるかは判然としませんが、遠藤氏の問題意識は極めて「日本的」「近代的」と言えるのではないでしょうか。
純粋に物語として引き込まれることができるのも本書の魅力の1つ。人間の弱さを見せ続ける「ねずみ」と呼ばれた人物に関するエピソードは読む者をして深い思索に誘ってくれるはずです。なお、本作は『イエスの生涯』という作品と裏表をなしているのですが、個人的には『イエスの生涯』を読んだ後にこちらを読むことをオススメします。
〜付きまとうね、イエスは。〜
(涙を誘うものではなく)じーんと来る読書でした☆5つ
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死海のほとりでイエスの足跡を辿る現代の旅と、イエスが迫害されゴルゴダの丘で処刑されるまでの過去の物語を交差させながら、奇跡の人ではない新しいキリスト像を提示しています。
弱者のそばに寄り添いともに苦しむことしかできなかったイエス、しかしそのことは常人にはできないことであり、苦しみを抱えた人たちにとって大きな慰めであったのは間違いないと思います。
この小説は、遠藤氏ご自身が一生を掛けて答を求め続けた「信仰とは何か」という問いかけと氏が到達したそれへの答が示されているのだと思います。圧倒的な文章力できわめて構築性の高い物語が形作られています。
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信仰を追い求めてエルサレムにやってきた小説家の私と学生時代の友人でエルサレムに住む戸田が、イエスのたどった道を辿りながらイエスを追いかけるという話。
戸田は気が付いていたみたい。イエスはけっこう造られた虚像であること。
でも、その方がより現実的で、人間的なのかもしれない。
あまりにも無力で、そんな男が多くの人を愛した。
一人一人の人生を横切って残した痕。それは消えない。
これから先も私と戸田には今まで通りイエスは消えないだろう。
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著者は聖書原理主義や三位一体を否定している(と思う)。病人をひたすら癒しながら力を持たず暴力にさらされる姿を見習うべきか、迷った。万能の力を持つイエス・キリストのイメージが打ち砕かれた。
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イエスがゴルゴダの丘で貼り付けにされる迄の物語と戦時中キリスト教の学校に通い小説家となった主人公がエルサレムの地で旧友と出会い巡礼に近い旅をする物語が交互に語られる。
キリスト教に対して無知な私は奇跡の人=イエスキリスト
と思っておりましたが本作では違った語られ方をしております。
本作を読み思った事は宗教にとって教会とはなんなのだろう、戒律とはなんなのだろう?奇跡は本当に必要なのか?という事です。
争い事の火種、集金と得票の為のシステムとなる宗教に興味と敬意を持つ事は出来ませんが、本作の著者が書く『イエスの生涯』を読んでみたいという興味が湧きました。
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この小説は二つの話が交互に出てくる。
一つは現代(といっても戦後30年後くらいの話だが)においてかつてキリスト教系の大学に通っていたが、信仰を捨てた(あるいは見失った)、同級生だった二人の中年の男がイエス・キリストの足跡を辿る旅をする。
もう一つは過去のイエス・キリストの生涯が書かれている。
過去の話は実際にイエス・キリストと出会った人々が彼に対して何を感じたのか、ということに焦点が当たっているように思える。現代においては聖書やその足跡を辿って見えてくるイエス・キリストに対して何を感じるかということが主題に感じた。ただ、現代においては、後半はネズミと呼ばれる神学校時代の修道士に焦点が当たってくる。
ここで過去の話に出て来るイエス・キリストは、奇跡も起こせないただ愛を説くだけの無能な人間として描かれている。そして、それは現代においてもそう見えるように描かれている。
これは従来のキリスト像を持っている人にとってもしかしたら強烈なイメージを植え付けるかもしれないが、単にキリスト教への信仰というものを一度フラットに考えさせるためであると思う。
奇跡を起こせないキリストが何故信仰を得るに至ったか。それを過去に出会った人の心情と現代における棄教者の旅を通じて描かれている。
私はキリスト教徒ではない。しかし、キリスト教徒の気持ちが知りたいとは思う。彼等は奇跡ゆえにイエスを信仰するようになったのか。ただ、それはおかしな話で奇跡を起こすから家族を愛するのか。奇跡を起こすから他人を愛するのか。そんな自己利益のためだけに人を愛するのか。そうではないだろう。人を愛するという行為はそうではなくもっと呪いに近いように語られている
(『「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
「なぜ」
「わたしが、その人をいつまでも愛するからです」』
250ページ)
小説内に明示されている謎は以下の二つだ。
・「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」
・過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」
「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」については、作中でキリスト自身が発言している
『(すべての死の苦痛を、われにあたえたまえ
もし、それによりて
病める者、幼き者、老いたるたちのくるしみが
とり除かるるならば)』
『「もっとも、みじめな、もっとも苦しい死を……」』
(359ページ)
というのが全てなのかもしれない。彼は愛のために生きた。だから、最後は愛ゆえに、全ての人類の罪を背負って死ななくてはならない。仮にそれが無意味な行為だとしても。
だが、結局のところ「愛」とは何なのだろうか。自己犠牲の利他的な行動、共に苦しみ、共に悲しむことが単なる「愛」なのだろうか。神の愛は無償の愛だとして、人間の及ぶところではないとしたら。所謂神の救いや奇跡の類は愛ではないとして、我々は何を信じればいいのか。正義とは、正しさとは。もしかしたら、それを知ってい��のはイエスだけなのかもしれない。どことなく終末思想にすら感じた。イエスは神の怒りや律法に耐えかねて愛を求めた(150ページ)。そこに必要だったのは「愛」。経済でも子孫でも科学でもパンでも人類の永遠の発展でもなく「愛」。
過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」について。
まずなぜ信仰を得るのかについては、過去においては単純にキリストの優しさや人となりに触れたからだろう。現代において、「私」は親がそうさせたからというのが分かる(ちなみに、これは遠藤周作本人もそうらしい)。戸田については分からない。何か強烈な体験があったのだろうか。
なぜ信仰を捨てるのかについては、過去においては、その惨めな奇跡も起こせないキリストの姿に失望したからであると書かれている。現代において、「私」については具体的には書かれなかったが、戦争体験やその後の小説家人生を経て、徐々にキリスト像を見失っていたのかもしれない(ただ、「私」は学生時代からそこまで深く信仰していたわけではない)。戸田については、聖書の研究をしていくうちに、従来イメージしていたキリスト像とかけ離れた現実のキリストが見えてきて、失望したのかもしれない。この二人は信仰の大きさに違いがあれども、ともにキリストを見失うというのが面白い。「私」は奇跡も起こせないキリストに失望するが、戸田については仮に理想像と現実がかけ離れていたとしても、そこまで失望してしまったのだろうか。
そして、過去においても現代においても、再度信仰を得ることになる。ここでいう信仰は一度所持していた、ある意味で盲目的な信仰とは異なる。キリストが愛ゆえにその人の人生を横切ったために、キリストに付きまとわれ、囚われ、忘れることができなくなる。そして、人によっては、愛ある行動を他の人にも行っていくのかもしれない。
やっぱり難しいと思うのが、キリストが言う「愛」の意味が自分でもよく分かっていないからかもしれない。また、その「愛」に殉じて生きることの意味、正しさ、正義、ひいては人生の意味。それがうまく自分の中でも答えが出てこない。そして、これからも戦い続け、消耗していくのかも。
この作品は「イエスの生涯」と表裏一体と作者が仰っているので、引き続き読んでいきたい。
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著者のイエスの生涯もよかったが、本書も良書である。
イエスを主役とするイエスの時代の物語と、著者が現地で感じたことについて対談形式で進む物語と、章立てが交互に進んでいく。
旅の中で、著者はイエスの時代に起こったことが聖書に書かれているが、それが本当にあったことなのか、それとも現実ではないのか、など友人に語りかけたりしているが、それは、著書”イエスの生涯”における、事実と真実という書き方に置き換わるのだろう。
本書を読みながら、前に読んだ(見た)三浦綾子氏の”イエス・キリストの生涯”の美術画を片手に読み進めると、なおよいと思う。
『神よ、なぜ、私を見棄てられました』と十字架の上で声をあげるが、それがなぜだったのか、まだ私にはわからない。色々、まだ読んでみようと思う。