夏目漱石の愛読家、柄谷行人氏のこれまで漱石に関する評論、講演、エッセイなどを収録した興味深い一冊です!
2020/05/04 09:16
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、哲学者であり、文学者、さらには文芸評論家としても知られる柄谷行人氏による夏目漱石に関わる評論、講演、エッセイなどを収録したものです。著者の「行人」という筆名は夏目漱石の同名作品によるとも言われるくらい夏目漱石の愛読家でもあります。同書には、「意識と自然」、「内側から見た生」、「階級について」、「文学について」、「漱石とジャンル」、「漱石と<文>」、「詩と死―子規から漱石へ」、「漱石の作品世界」などの評論が収録されていると同時に、漱石の代表作、『門』、『草枕』、『それから』、『三四郎』、『明暗』、『虞美人草』、『彼岸過迄』、『道草』などが解説されています。柄谷氏の漱石への想い、漱石を通した社会観が見えてきます!
投稿元:
レビューを見る
「意識と夢とジャンルの往還-苦悶する人間・漱石-」
夏目漱石は、言わずと知れた世界に誇る日本の作家である。漱石の作品や思想は、日本文学の中でも、先行研究が最も膨大になされてきた作家だ。「文学研究」というと、一般的には作中を丹念に分析しながら作品世界を深く追究する作品論や、作家の生育環境・心理状態など様々な要因から作品へと迫る作家論、原稿の変更・改訂などから作品の本文そのものがどのような変遷を遂げてきたのかを追跡する書誌論などが主流であった。しかし、こうした漱石文学研究とは一線を画すアプローチを展開する思想家が現れた。それが、今回取り上げる柄谷行人『漱石論集成』である。
具体的にどのような点が従来のアプローチとは異なっており、画期的かというと、漱石の思想を超えた「意識」への接近を試み、漱石自身が抱いていた「夢」や「恐怖」が作品にどのように反映されているかを、つぶさに論じているということが挙げられる。漱石の作品群は『吾輩は猫である』から始まり『明暗』(未完)で終結するのだが、一般には作品を執筆するごとに内省が深化してゆくところに、漱石の作家としての成長を見ることができると論じられる傾向にある。しかしながら柄谷は、例えば『行人』や『明暗』などの後期作品群にも、初期作品(この呼称も柄谷は否定するのだが)の『夢十夜』における「正体の知れない」「不安感」や「夢」心地で世界を徘徊するという要素が見られると指摘する。すなわち、作品は『明暗』を「到達」点として徐々にディベロップしていったのではなく、漱石の文学体系の集大成である『文学論』構想・執筆の段階からすでに彼自身で文学・小説の在り方が定まっており、それを多様な「ジャンル」を描くことで表現したのだということを、柄谷は強く主張する。
上述のことを象徴的に表す「『こゝろ』は人間のエゴイズムとエゴイズムの確執などというテーマとは実は無縁である」(三〇-三一)という一文は、私にとっても衝撃であった。『こゝろ』は、高等学校国語科の中で長らく代表的な教科書教材として君臨し、近代知識人の苦悩とエゴイズム、それらが「自殺」という行為へと収斂されてゆく先生の罪業の深さがテーマであるという教訓じみたものが、『こゝろ』の単元の終結であった。少なくとも、私は自身の体験を振り返りそう記憶している。しかしそれは早計であり、漱石は人間の心理が過剰に見えていた「ゆえに見えない何ものか」つまり「心理や意識をこえた現実」に「畏怖」し見つめていたのだという柄谷の指摘は、今後の国語科教育の中でも見過ごすことができないものとなるだろう。
一方、本著は画期的である反面、漱石について初めて学術的に触れようとする読者にとっては、少々理解することが困難な構造となっている点は、現段階では私にとっては唯一の欠点である。漱石の作品群を「小説の観点で読んではならない」(一九四頁)という部分は、読者側にある程度の知識が備わっていなければ、解読することすら相当の時間を要すると思われる。
とはいえ、柄谷の各種の論点は非常に鋭利であり、緊張感と共に再度漱石の世界を味わうための、格好の導入���であると断言できる。
投稿元:
レビューを見る
柄谷行人 「漱石論集成 」
漱石作品の批評集。
漱石小説において、他者との葛藤が提示され、他者との関係では解決できない自己の問題に転換され、自殺か宗教か狂気かで終わる〜漱石は表象、言語化できないものを言語化しようとした
従前の漱石論とは異なる視点
*漱石作品を「明暗」を頂点とする発展過程として読むべきでない
*初期と後期を区分しない〜漱石の文学観は変わらない
*則天去私の境地は単なる神話にすぎない
*漱石が三角関係を経験したか否かは関係ない〜漱石は あらゆる愛は三角関係にあると考えているだけ
*漱石は 近代小説に適応しなかった〜漱石は 小説より文(写生文)を書き続けた
漱石は何を見て、何を考えていたか
*心理や意識を超えた現実
*私はどこから来て、どこへ行くのか〜自己を他者としてでなく、自己の内側からみようとする
*自己存在の無根拠性
投稿元:
レビューを見る
漱石の写生文についての論考に刺激を受けた。
柄谷は、漱石の写生文がやがて小説に発展すべきものとみる見方を退ける。そうではなく、漱石は近代小説の終わりから出発したのだと。ローレンス・スターンを日本に紹介したのは漱石だが、漱石にとって近代小説はスターンで終わっていた。そのスターンはイロニーが発生する時点に、それと対立する精神態度としてヒューモアを描いた人である。
漱石がロンドンから書き送った「文」に、まさにこのヒューモアが描かれており、柄谷は次のように評する。
「これは西洋人のなかに混じって劣等感に打ちのめされているときに、そのように『おびえて尻込みしている自我』に『優しい慰めの言葉をかける』ものだといってよい。それは、知らぬ間に優劣および優劣にこだわる自意識を無化してしまっている。」(p.343)
漱石における写生文において、「優しい慰めの言葉をかける」ようなヒューモアは、ナレーターとして現れる。写生文におけるヒューモアは、「おびえて尻込みしている」ような諸々の自我のレベルを往還しうる能力なのだ。
「ヒューモアとは、すでに終わっているにもかかわらず、あるいはもはや終わり(目的)がないにもかかわらず、書きつづけ闘争しつづけることではないのか」(p.353)
病的なものを誇示したがる文学者とは違って、漱石が読者をたえず解放させる力を持っていた理由がここにある、と柄谷は言う。
投稿元:
レビューを見る
めちゃくちゃおもしろい。
柄谷行人の仕事ってNAMとかやってるのしか知らなかったけど、もともと文芸批評で世に出たわけで、本来はこっちがメインなんだよな。
しかし、柄谷行人をしても、『三四郎』での美禰子の恋愛の対象は三四郎という解釈になるのが不思議。どう読んだってそうじゃないだろうと思うのだけど、それが多数説だというのからよくわからない。
投稿元:
レビューを見る
今回読み返してみて、どうやら柄谷のレトリックにも慣れてきたようで(まだ難解に思いはしたけれど)楽しむことができた。「意識」「内面」といった自分自身に属する(?)ことがらと、「他者」「外部」「物自体」といったこの世界に広がることがら。双方の関係の中で、ほかでもないこのぼく自身もまたその自明性を揺るがされてしまう……これはもちろん「私見」「邪推」の域を出ない読みになるが、ぼくにとって柄谷を読むことはそのようにしてテクストの中で「自分探し」を行うことである。ウィトゲンシュタインや安吾にも似た「哲学的」な書に映る