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「客観性」「数値的なエビデンス」は現代社会の真理なのか、一人一人の経験から論じる事は出来ないのか、本書は問いかけ事例を示す。
しかし、私は思う。その経験をする人は、日本人の何%?同世代の何%?大阪西成区と東京新宿区で出現率に差があるの?と数値化する事で、貴重な経験であり知る事で考えを深める事が出来るといった判断するが出来るのではないか。数字で事象を理解して論じる方がスッキリする。
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新聞の書評で気になって読みました。ちょっととりとめがないようにも思いましたが、客観性、エビデンスとか言ってるのは自分の意見がないのと同じかな、とは思いましたね。絡め取られないようにはしたいかな。
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「客観性と対置されるのは主観性ではなく、共同的な経験のダイナミズムである」
この本で最も良かった一文。
しかし“客観性”の陰に隠れているものとして、マイノリティや貧困者に偏りすぎて取り上げているのと、ナラティブの限界もあるんじゃないかと思った
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面白かった。 数値や 客観性がどうしても上位の価値観のように感じていたが、必ずしもそうではない場合がある。個人の経験や 内面に秘めていることを丁寧に、また その思いの込められた 言葉通りに受け取り記録し 、分析することによって見えてくるものがあることを知ることができた。
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帯の軽さと、実際に読んだ内容の重さがまったく違っているところは良いのか悪いのか…
客観性や数値によって痛快に相手を論破するという話は、創作にも現実にもあふれていて、その楽しさもあるが、この本にあるように、その落とし穴にも目を向けた上でなければならない。気をつけなければ。
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少し前に「数値化の鬼」を読んで、客観性の視点て大切だよなぁと思ったところだったので、自分自身の視野を広げる意味で逆の視点の話を読んでみた。
本書では客観性が悪い、という視点ではなく極度に客観性を重視することにより個々人の経験の個別性・独自性が失われることに対する危険性を述べている。
例えば、数値化偏重の世の中では、比較と競争が激しくなり、自分の身を守るためにリスク計算を行い世の中全体が「リスクに満ちた世界」となる。
これに対して、一人一人の個々人の経験と語りを重視することにより、社会的な困難な人の声を尊重する世界になると著者は結論付ける。
個人的な感想としては、「数値化の鬼」に対してビジネス面で主観性を大切にする場合にどのような視点での議論となるかが知りたかったので、少し期待していたものとは違っていた。
また、私がどちらかというと数値化の視点が強い人間だからかもしれないが、限られたリソースを使って、社会的に困難な人への対策を行うとしても、個々人の事情を鑑みて個別に対応するだけの地力は現在の国や個人に残っておらず、実現性としては低いのではないかと思ってしまいました。
もちろん、個別の対応できるのがベストだとは思いますが人・モノ・カネのリソースが限られた中では理想論に近くなってしまうのかなぁと。
私の考えていた方向性のビジネス書ではなかったという点と、内容に共感しきれなかったこともあり★2つです
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数値や統計は重要ではあるものの、それらのみを重視する姿勢が社会を生きづらいものにしている。著者は数値や統計の意義を理解しつつも、それらでは把握することのできない個々人の生きた経験やそれについての語りの重要性を強調する。そして個人個人を尊重するそうした姿勢から社会を構築していくことを提起していた。
客観性に囚われ過ぎているなと思ったので、個々の経験を尊重する姿勢を再確認できた。
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「エビデンスはあるんですか?」
「数字で示してもらえますか?」
「その意見って、客観的なものですか?」
こうした考えは、本当に正しいのか。
数値化が当たり前になってきた今、数字で表されることが真実とは限らない。
数値化がはびこる原因を探り、失われたものを明らかにしてくれます。
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客観的なデータや数値的なエビデンスが真理とみなされる現代社会のありように警鐘を鳴らし、それに代わる新たな価値観が提唱されている。
「並立する」価値観ではなく、「とってかわる」価値観である。
本書中において、客観的な物およびそれに類する価値観は、仮想敵として二元論の彼岸に置かれている。
たとえば、客観性を重視する傾向は、数字に支配された世界で人間が序列化されることにつながっていく、と著者は論ずる。そしてそれは、客観性への信仰が広く普及したここ200年程度の歴史しかないことも、本書内にて指摘されている。
科挙が始まったのは隋代と言われているので、今から1400年以上前の事だ。その試験内容は詩作や論文といったもので、その合否は数値化されてなどいない。またそれ以前の九品官人法は、当時の身分や家柄による序列が色濃く反映されていた。
日本においても、近い時期に制定された冠位十二階の上級官位は、それ以前の氏姓制度における有力豪族で占められている。
太古の昔より人間社会には序列が存在したのである。
しかしながら本書では、客観性の獲得による事象の数値化が、ここ200年ほどの間に人間の序列化を生んだ諸悪の根源として書かれているのである。
また、本書内において文頭に提示された一つの仮説を、文末ではそれを事実として断定している箇所が随所に見られる。
そして次のパラグラフ以降、その「事実」に基づいて著者の自説が展開されていく。
恐るべき姑息さである。
単に悪文家ゆえに読み手を当惑させているにすぎない可能性もあるが、私は本書から、事実を糊塗し歪曲せしめ、読者を自説に誘導しようとする著者の意図を感じずにはおれない。
興味深いテーマではあるが、信用のおけない一冊となってしまった。別の著者による同テーマの物があれば読み比べてみたい。
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一通り読みましたがこれは読まなくていい本かな。
もう少し丁寧にそして体系的に客観性のメリット、デメリットを解説して欲しかった。加えて著者がその対極としている個人の語りの何が良いのか論理的な説明が欲しかった。序盤の客観性が真理とされるまでの歴史の解説は簡潔で分かりやすくまとめられていた。第5章から家庭環境に問題のあった子どもたちの生の声が取り上げられる。おそらく、これらの主張を統計してしまうと良くないということで取り上げているのだと思うが、それにしては冗長が過ぎる。内容も主に著者の専門?の複雑な家庭環境の子どもたちのケアにシフトしてしまってまとまりがない。途中から客観性が脇に追いやられてしまっている。著者も著者だが、ちくまプリマー新書は本の帯やタイトルにここまでミスリードなことをしてしまう出版社なのか…残念で仕方ない。
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地方で生活する人が車を持たず不便であっても「障害」とは言わないが、エレベーターがないと上の階に上がれない車いすユーザーは「障がい者」とされる。すなわち、障害はimpairment「器物的な欠損」とdisability「環境が整っていないがために生じる状態」に分けられる。
個人主義や自己責任論において、社会は個人を非難こそすれ、守りはしない。また、「それで責任をとれるか?」と他者を非難し、規範に縛りつける。それにより、校則を自主的に守る学生のように、人々は外からの強制でなく、自ら社会規範に従うようになっている。すなわち、「不確実でリスクに満ちた社会」になったのではなく、数値化により、社会や未来がリスクとして認識されるようになっただけである。
「共感」や「感情移入」は相手をゆがめ、消費しうるので、語り手のママの言葉を尊重する必要がある。
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大学で教鞭をとる筆者が講義において学生から多くの「客観的な妥当性はあるのか」という意見を受け取った。客観性を担保するものはデータであり、数値としてのエビデンスであるけれど、数値に過大な価値を見い出せば、個人の経験などは顧みられない社会になってしまうのではないかという思いがきっかけとなって執筆することになったという
たしかに自分語りが疎まれる風潮が何年かまえに比べて強くなったよなとは思う。「それってあなたの感想ですよね?」なんていう言葉がもてはやされ、個人が催した感情を言葉にすれば「お気持ち」だなんて揶揄される。個人の経験や感想が忌避されるようになった。他人の気持ちを揶揄したり軽んじたりするような言葉や空気は本当に嫌いだ。人の持つ感情はそれまでの生育歴や対人関係、おかれている環境によって細かに異なるものであり、だからこそ価値があるものだ。ありきたりな表現だけど人間はロボットではないので。SNSなんて自分語りをするためのツールじゃないか
筆者も個人の感情や経験に取り合わないことで、マイノリティとされる人たちの声がかき消されていると指摘していた。もちろん学問の分野によっては客観性は大変重要であり、そういったものを否定するわけではないと明確に記載している。そりゃあ医療や科学の分野では数字の曖昧さは時に命となるものであるから当然だ
読んでいて納得することが多く頷きながら読み勧めていたけれど、なかでも客観性、すなわち数値にかたよった評価は数値によって人間を序列化するものであり、その数値はどれだけ社会で利益を上げる人間なのか評価される。人間が役に立つか、立たないかで切り分けられると書いてあった。社会の数値化が能力主義を生み出し、現代的な差別を生み出すとのことだった。例えば現在の障がい者の支援制度は就労がゴールになっているという。障がい者も就労し、納税することを求められる。経済的に役に立つかどうか、すなわち生産性という尺度で人間が測定される。そして生産性は他人と比較され、その比較は国や組織が行う。誰かと競っているように見えても、国や組織に品定めをされているのだというところに驚きと強い納得があった。障がい者の就労支援って、そういうことだよな…働いて国に税金を納めてほしいんだよなと思ったのだ
この本では客観性と数値を盲信することへの危惧を示し、私たち一人ひとりの生きづらさの背景に、客観性への過度な信頼があること。数値が過剰な力を持った世界において、人々が競争に追いやられること。その流れのなかで個別の経験の生々しさがが軽んじられがちになったこと。個人の語りを細かく聞くことで見えてくる経験や偶然性、必然性や多様さ、それらを捉えるための手段。そして誰もが取り残されることのない世界のかたちを考えることが記されている
いま形づくられている社会や制度がどれだけ大切にされるべき個人のことを抑圧しているか、その抑圧のしくみがこの本には書いてあった。当然のことだけれど個人が集まれば集団であり集団が大きくなればやがてはひとつの国になる
個人の幸福を無視して大勢の幸福は訪れない
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本書のおおまかな指摘は、「客観性に終始し統計値などの数的データや科学的理論に拘泥すれば、その背景は往々にして見過ごされてしまう」という主張でした。
まあ、この論旨は何も目新しいものではなくずっと言われてきたものなので、特に驚きはないですね。
ただ、見過ごされているからこそ、現代は生きづらい世の中なのだと話が展開してゆきます。
現代は過度な客観的態度に支配されており、それが今の社会をより厳格に序列化していると述べられています。そこから筆者はその行きすぎた客観性を現今の社会問題へと布衍させ切り込んでいきます。過剰な偏差値主義や成果主義など、人口に膾炙した問題点や、「普通」から乖離した人々の息苦しさにまで焦点を当てているのは、感心しました。
また、筆者はそうした客観的な態度を単に否定しているわけではなく、それらの有用性もきちんと抑えつつ、そのデータからこぼれ落ちた人たちを救うためにその背景や文脈を知ることの大切さを説いています。
理系か文系といった話はよく聞きますが、両者あって初めて真価を発揮するんだなあと改めて実感しました。
以下、本書より一部加工して抜粋をする。
“私たち一人ひとりの生きづらさの背景には、客観性への過度の信頼がある。自然も社会も客観化され、内側から生き生きと生きられた経験の価値が減っていき、だんだんと生きづらくなっている。
数値が過剰に力を持った世界において、人々が競争に追いやられる。数値に支配された世界は、科学的な妥当性の名のもとに一人ひとりの個別性が消える世界であり、会社や国家のために人間の個別性が消されて歯車になる世界だった。序列化された世界は、有用性・経済性で価値が測られる世界でもある。弱い立場に置かれた人たちは容易に排除され、マジョリティからは見えなくされ、場合によっては生存を脅かされる。
科学の進展にともなって客観性と数値に価値が置かれ、個別の経験の生々しさが忘れられがちになった。ただし、一人ひとりの異なる個別の経験をその人の視点において尊重することは、困難を抱えすき間へと追いやられた人の声を聴く努力と一体である“
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第1章 客観性が真理となった時代
第2章 社会と心の客観化
第3章 数字が支配する世界
第4章 社会の役に立つことを強制される
第5章 経験を言葉にする
第6章 偶然とリズム―経験の時間について
第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学
第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景
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客観性と数値を盲信するのではなく、一人ひとりの経験と語りから出発することを提言しているけど、ちょっと弱いような。はっきり言うと「そんなことは分かっている」のであって、個人の事情を全体に総合していく術を知りたかったかな。