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2023/09/16 19:44
投稿元:
古今東西、山と人、自然から生まれた言葉の森を、池内紀と歩く。
山岳関連書だけでなく、その選書はエッセイ、詩集、民俗学、小説、図鑑、技術書など多種多様。
ドイツ文学者にてエッセイイストであり、登山、散歩、旅を愛した池内紀が描く「山」の本の世界。
153回という、『山と溪谷』でも指折りの長期連載を単行本化!(amazon紹介文)
他じゃ取り上げられないような本の数々がうれしい。
ただ、3回に1回は現代批判やらノスタルジーやらが含まれるので、どうにも白けてしまった。
2023/12/01 11:27
投稿元:
891
池内紀
1940年(昭和15年)、兵庫県姫路市生まれ。ドイツ文学者。主な著訳書に『海山のあいだ』(講談社エッセイ賞)、『ゲーテさんこんばんは』(桑原武夫学芸賞)、ゲーテ『ファウスト』(毎日出版文化賞)などがある
古今東西、山と人、自然から生まれた言葉の森を、池内紀と歩く。
山岳関連書だけでなく、その選書はエッセイ、詩集、民俗学、小説、図鑑、技術書など多種多様。
ドイツ文学者にてエッセイイストであり、登山、散歩、旅を愛した池内紀が描く「山」の本の世界。
153回という、『山と溪谷』でも指折りの長期連載を単行本化!
■内容
『飯田蛇笏集成』飯田蛇笏
『楢山節考』深沢七郎
「照葉樹林文化論」中尾佐助
『越後山岳』日本山岳会越後支部 編
「高野聖」泉 鏡花
『山びとの記 木の国 果無山脈』 宇江敏勝
「湖畔手記」葛西善藏
『友へ贈る山の詩集』串田孫一、鳥見迅彦 編著
『日本山嶽志』高頭 式 編纂
『戸隠の絵本』津村信夫
『ヒマラヤ文献目録』薬師義美 編
『高安犬物語』戸川幸夫
『山の人生』柳田國男 編
『強力伝』新田次郎
『富士山』草野心平
「秋山記行」鈴木牧之
『猪・鹿・狸』早川孝太郎
『蒙古高原横断記』東亜考古学会蒙古調査班
『川釣り』井伏鱒二
『山びこ学校』無着成恭 編
『星三百六十五夜』野尻抱影
『太古の呼び声』ジャック・ロンドン 辻井栄滋 訳
『愛酒楽酔』坂口謹一郎
「戦場の博物誌」開高 健
『魚の四季』末広恭雄
『犬と狼』平岩米吉
『手仕事の日本』柳 宗悦
『柳宗民の雑草ノオト』柳 宗民
『民俗のふるさと』宮本常一
『花の知恵』モーリス・メーテルリンク 高尾 歩 訳
『吉野の民俗誌』林 宏
「山男について ほか」南方熊楠
『金谷上人行状記 ある奇僧の半生』横井金谷
『私の古生物誌 未知の世界』吉田健一
『ムササビ その生態を追う』菅原光二
『[図解]焚火料理大全』本山賢司
『山の声』辻まこと
『新編 百花譜百選』木下杢太郎 前川誠郎 編
『夢の絵本 全世界子供大会への招待状』茂田井 武
『チャペックの犬と猫のお話』カレル・チャペック 石川達夫 訳
「補陀落渡海記」井上 靖
『動物園の麒麟』 ヨアヒム・リングルナッツ 板倉鞆音 編訳
『チロル傳説集』山上雷鳥
『伊佐野農場図稿』森 勝蔵 石川 健 校訂 石川明範、山縣睦子 解説
『僕と歩こう 全国50遺跡 考古学の旅』森 浩一
『登山サバイバル・ハンドブック』栗栖 茜
『人生処方詩集』エーリッヒ・ケストナー 小松太郎 訳
『リゴーニ・ステルンの動物記 北イタリアの森から』マーリオ・リゴーニ・ステルン 志村啓子 訳
『種の起原』チャールズ・ダーウィン 八杉龍一 訳
『森の不思議』神山恵三
『気違い部落周游紀行』きだみのる
『北アルプストイレ事情』信濃毎日新聞社 編
『百物語』杉浦日向子
『孤島の生物たち ガラパゴスと小笠原』小野幹雄
『娘巡礼記』高群逸枝 堀場清子 校注
『ファーブル記』山田吉彦
『きのうの山 きょうの山』上田哲農
『恐竜探検記』R・C・アンドリュース 小畠郁夫 訳・解説
『道具が語る生活史』小泉和子
『奈良大和の峠物語』中田紀子
『アルプスのタルタラン』アルフォンス・ドーデー 畠中敏郎 訳
「日本九峯修行日記」野田泉光院
「霊の日本」小泉八雲 大谷正信、田部隆次 訳
『日本の島々、昔と今。』有吉佐和子
『檜原村紀聞 その風土と人間』瓜生卓造
『日本の職人』遠藤元男
『山のABC』畦地梅太郎、内田耕作、尾崎喜八、串田孫一、深田久彌 編集
『虫の文化誌』小西正泰
『日本の放浪芸』小沢昭一
『雨飾山』直江津雪稜会 編
『酸ケ湯の想い出』白戸 章 語り 逢坂光夫 聞き手
『知床紀行集』松浦武四郎
『たたらの里』影山 猛
『越後の旦那様 高頭仁兵衛小伝』日本山岳会 編
『図説雪形』斎藤義信
『金毘羅信仰』守屋 毅 編
『サルのざぶとん 箱根山動物ノート』田代道彌
『照葉樹林文化とは何か 東アジアの森が生み出した文明』佐々木高明
『山で唄う歌』戸野 昭、朝倉 宏 編
『富嶽百景』葛飾北斎 鈴木重三 解説
『窪田空穂随筆集』窪田空穂 大岡 信 編
『にっぽん妖怪地図』阿部正路、千葉幹夫 編
『富士山に登った外国人 幕末・明治の山旅』山本秀峰、村野克明 訳
『星の文化史事典』出雲晶子 編著
『日本の食風土記』市川健夫
『山に生きる人びと』宮本常一
『植物一日一題』牧野富太郎
『日本之山水』河東碧梧桐
『日本アルプスの登山と探検』ウェストン 青木枝朗 訳
『伊予の山河』畦地梅太郎
『甲斐の落葉』山中共古
『現代日本名山圖會』三宅 修
『平野弥十郎 幕末・維新日記』桑原真人、田中 彰 編著
『山野記』つげ義春 編
『幻談』幸田露伴
『三角形』ブルーノ・ムナーリ 阿部雅世 訳
『江戸時代 古地図をめぐる』山下和正
『どうして僕はこんなところに』ブルース・チャトウィン 池 央耿、神保 睦 訳
『鉄道旅行案内』
『山野河海の列島史』森 浩一
『山の幸』山口昭彦 解説 木原 浩、平野隆久 写真
『甲斐の歴史をよみ直す 開かれた山国』網野善彦
『クマグスの森 南方熊楠の見た宇宙』松居竜五 ワタリウム美術館 編
『マルハナバチ 愛嬌者の知られざる生態』片山栄助
『対訳 技術の正体』木田 元 マイケル・エメリック 訳
『昭和自然遊び事典』中田幸平
『山岳霊場御利益旅』久保田展弘
『井月句集』井上井月 復本一郎 編
『きのこの絵本』渡辺隆次
『木馬と石牛』金関丈夫
『クモの網』船曳和代 新海 明
『写真句行 一茶生きもの句帖』小林一茶 句 高橋順子 編 岡本良治 写真
『火山列島の思想』益田勝実
『写真集 花のある遠景』西江雅之
『自然の猛威』町田 洋、小島圭二 編
『霊山と日本人』宮家 準
『ときめくカエル図鑑』高山ビッキ 文 松橋利光 写真 桑原一司 監修
『音楽と生活 兼常清佐随筆集』杉本秀太郎 編
『建築家の名言』Softunion 編
『町並み・家並み事典』吉田桂二
『新修 五街道細見』岸井良衛
『新 道具曼陀羅』村松貞次郎 岡本茂男 写真
『日本山海名産図会』
『秋風帖』柳田國男
『日本フィールド博物記』菅原光二 写真・文
『民間学事典』鹿野政直、鶴見俊輔、中山 茂 編
『東京下町1930』桑原甲子雄
『花の神話学』多田智満子 福澤一郎 装画
『絵図史料 江戸時代復元図鑑』本田 豊 監修
『東京徘徊 永井荷風『日和下駄』の後日譚』冨田 均
『幸田露伴 江戸前釣りの世界』木島佐一 訳・解説
『幕末下級武士の絵日記 その暮らしと住まいの風景を読む』大岡敏昭
『菅江真澄遊覧記』菅江真澄 内田武志、宮本常一 編訳
『天一美術館』
『谷内六郎の絵本歳時記』谷内六郎 絵と文 横尾忠則 編
『津浪と村』山口弥一郎 石井正己、川島秀一 編
『古道巡礼 山人が越えた径』高桑信一
『井伏鱒二全詩集』井伏鱒二
『JTBの新日本ガイド 名古屋 三河湾 美濃 飛驒』
『湯治場通い』野口冬人
『東海道五十三次ハンドブック』森川 昭
『科の木帖』宇都宮貞子
『光の街 影の街 モダン建築の旅』海野 弘 平嶋彰彦 写真
『ぼくは散歩と雑学がすき』植草甚一
『新版 娘につたえる私の味』辰巳浜子 辰巳芳子
『富士山の噴火 万葉集から現代まで』つじよしのぶ
『カントリー・ダイアリー』イーディス・ホールデン 岸田衿子、前田豊司 訳
『日本列島 地図の旅』大沼一雄
『山の文学紀行』福田宏年
『近世紀行文集成 第一巻 蝦夷篇』板坂耀子 編
『木』幸田 文
『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫 編著
『神主と村の民俗誌』神崎宣武
山の本棚
by 池内 紀
厳しくすべてを山のルールが支配している。だからこそ凄惨な物語が透明な美しさをもち、おりん・辰平という聖母子像が生まれた。ルール破りの隣家の老人は、がんじがらみにしばられて谷へ落とされなくてはならない。
栽培植物学の中尾佐助(一九一六─一九九三)は、照葉樹林文化の提唱者として知られている。戦後、日本人によってもたらされた学説のなかで、とびきり独創的で、雄大な視野をもち、さまざまな分野に広範な影響を及ぼした。
中尾佐助がヒマラヤ山麓の黒々とした森に気づいたのは、さきだってどっさりと目の記憶があったからだ。二十代はじめの中国東北部・小興安嶺にはじまり、朝鮮北部の 狼 林 山脈、南樺太、東南アジア。永らく鎖国状態だったブータン王国にはじめて入国を許され、半年あまりにわたり、くまなく歩いた。 著作集Ⅵ収録の写真の一つだが、プータンハウスで、採集した植物を標本にしている写真がついている。新聞紙に一点ずつはさんでいく。頭上には整理ずみが洗濯バサミのようなものでぶら下げてある。
執筆者には住所がそえてある。そのなかに武田久吉、松方三郎、槇有恒らがまじっている。わが国登山界に大きな足跡を残した人たちだが、同人たちとまったく同じ扱いで、松方三郎 東京都港区赤坂霊南坂町、槇有恒 神奈川県茅ヶ崎市中海岸といったぐあいだ。たのまれたほうも、無報酬でこころよく寄稿した。朽ちかけた紙のあいだから、澄みきった山気が匂い立ってくる。
お経のような形に仕立ててあったわけだ��「旅の法衣」からもわかるとおり、語り手は高野山の高僧。若いころ飛驒から 天生峠を越えて信州に出た。そのときの不思議な体験をものがたる、というつくり。 鏡花一流の空想が盛りこんであって、山旅の報告であったものが、山中でいきあわせた一軒の 山家 と、そこに住む奇妙な夫婦、とりわけ美しい女とのエロティックなかかわりへと移っていく。作者としてはそこを読ませたかったのだろうが、絵草子的な怪異譚の書き換えであって、いまの目でみると、むしろ小説の前半にあたる峠越えの描写が興味深い。
昭和五十五年(一九八〇)、中公新書の一冊として宇江敏勝『山びとの記』が出た。それは山の本の歴史のなかで、一つのエポックをつくるものだった。 登山家でも山の趣味人でもない。林業の専門家でも植物学の先生でもない。まさしく「山びと」の本である。それも山に生きた老人の回想でも聞き書きでもなく、まさにいま山で暮らしている人。そして山仕事のかたわら、山小屋のロウソクやランプの下でつづられた。
葛西善藏は生涯「私小説」とよばれるものを書いた人で、文中の主人公は作者そのもの、ちょっとしたことで愛人と口論して家をとび出し、その足で奥日光までやってきた。 「海を抜くこと五千八十八尺の高処、俗塵を超脱したる 幽邃 の地……」
詩人津村信夫(一九〇九─一九四四)が初めて戸隠を訪れたのは昭和の初め、まだ十代のころで、冬のさなかに奥社へ向かったところ吹雪にあって断念、中社の坊に泊まった。神戸で育ち、塵応の予科に入ったばかりのモダンボーイは、昔ながらの習俗を色こくとどめた人々の暮らしに目を丸くした。よほど強い印象を受けたのだろう。その後、くり返し戸隠に滞在、宿坊の手伝いをしていた娘に恋をして、のちに妻に迎えた。
戸川幸夫は動物文学で知られているが、「 高安 犬 物語」はデビュー作。一九五五年に発表されて直木賞を受賞した。 高安犬というのは、山形県・米沢の北隣り 東 置賜 郡 高畠町高安地区で繁殖した日本犬で、主として番犬や熊猟犬として使われていた。物語の主人公チンは、高安犬として純血を保っていた最後の犬と思われる。
柳田國男の初期の仕事では『遠野物語』が有名で、『山の人生』はうしろに隠れている。しかし柳田民俗学を考えるとき、こちらのほうが重要なのではあるまいか。 「山に埋もれたる人生ある事」 一から三〇までに割りふって、聞き書きや古書、伝承のつたえるところを語っていく。サンカ、山姥、天狗、山鬼。名はさまざまだが、山を住まいとして里の暮らしにかかわらない。まるきりべつの秩序のもとに生きてきた。ひとことにいうと「 山人」。若いころの柳田國男が強く惹かれた対象である。『遠野物語』自体が山里を舞台としていて、背後の奥深い山の神秘がつねに濃い影を投げかけていた。
山岳小説で知られる新田次郎(一九一二─一九八〇)には、もう一つの顔があった。藤原 寛 人 といって無線電信講習所卒の測候技師である。中央気象台に入り、六年間富士山測候所に勤務。戦争中は満州国中央気象台に転じ、帰国して気象庁に復帰、計三十四年間をリチギに勤めた。
草野心平(一九〇三─一九八八)は蛙の詩で知られている。両棲類のあの愛嬌者は、��の詩人とともに文学の世界へ入ってきた。とりわけ有名なのは、早稲田「鶴巻町を歩いていたとき、ふと私のなかではじまった蛙の会話を書きとった」という一篇。「さむいね。/ああさむいね。/虫がないてるね。/ああ虫がないてるね。」そんなはじまりをもつ「秋の夜の会話」。
越後から信州にまたがる 秋山郷 は、ながらく秘境とよばれていた。年の半分ちかくは雪に埋もれて陸の孤島になった。バス道が通じてからも、しばらくは途中の小赤沢どまりで、最奥の切明温泉までは山道をテクテクと歩いた。 『北越雪譜』で知られる鈴木牧之 が文政十一年(一八二八)、秋山郷を訪ねている。越後塩沢の人で、 縮 問屋の主人だった。
民俗学の早川孝太郎(一八八九─一九五六)は若いころ絵の勉強していた。黒田清輝らの白馬会の研究所に通ってデッサンを学んだ。 二十代半ばに「郷土研究」を知って投稿したのが柳田國男に認められ、画家志望から民俗学に移った。郷里奥三河に伝わる春の祭りを丹念に探索した『花祭』二巻が代表作。農事、農政に関する貴重な記録も残している。 若いころの画家修業が大いに役立った。よく
人類学者の江上波夫(一九〇六─二〇〇二)は少年のころ、見渡すかぎりの大草原を夢見ていたのではあるまいか。昭和五年(一九三〇)、北京留学生になるやいなや、三度にわたって内モンゴルを旅行した。三度目は十二月のことで、寒風吹きすさぶ雪原にテントを張り、厳寒のなかをラクダに乗って砂漠を 渉 った。
アメリカ・パラマウント製作、熱砂の町モロッコを舞台にしたラブ・ロマンスで、ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演。日本ではまさに昭和六年に封切られた。蒙古の砂漠でハリウッド映画を思い出すところが、いかにも若さというものだ。
作家井伏鱒二(一八九八─一九九三)の本名は満寿二である。ペンネームには、めでたい漢字をわざわざ同音の魚名にした。デビュー作「山椒魚」はよく知られているし、さき立って短篇「鯉」を書いている。若いころから、いたって魚好きだったことがみてとれる。 三十代半ばで釣りを始めた。渓流釣りが好きだった。五十すぎて初めて釣りの本を出した。
山元村の山元中学に 無着成恭 が赴任してきたのは昭和二十三年(一九四八)のこと。そのとき二十一歳。持ち上がり四十三名のクラスを三年間担当した。卒業式に卒業生代表が「答辞」で述べた。
ある世代以上の人は 野 尻 抱 影 の名をよく知っている。「星の先生」として親しんだ。新星の発見にやっきになったり、やたらに高度な宇宙論をひけらかすのではなく、ながらく日本人が生活の中で大切にしてきた星のことを、嚙んで含めるように話してくれた。もともとは英文学者なのでヨーロッパのことにもくわしい。古典や仏典の知識がたっぷりある。文人かたぎの抱影先生から教えられた星たちが、いまも記憶にくっきりと刻まれている。山小屋で眠れないとき、そっと外に忍び出て、ピンポン玉のように大きな星たちを見上げていると、記憶がつぎつぎと蘇ってくる。
とたんに『荒野の呼び声』を思い出す。よくしつけられた犬バックが荒涼とした土地につれていかれ、しだいに野性にめざめていく物語だ。アメリカの作家ジャック・ロンドン(一八七六─一九一六)は若いころ、職を転々としながらアメリカ大陸やカナダを放浪した。ゴールドラッシュに一枚加わって金鉱探しをしたこともある。
醗酵学が専門で、微生物の研究で文化勲章をもらった大学者だが、かたわら歌人であり、また酒をめぐる極上のエッセイをのこした。『愛酒楽酔』は各章にまず「歌話」と題したエッセイがきて、おしりに歌がつく。お銚子一本に小皿のおサカナつきといったぐあいだ。全七章だから 〆 て七本。一晩で欲ばったりしてはいけない。
いい酒を称して「水の如く」などというが、この酒博士に由来する。学問に裏打ちされていて、なおのこと説得力がある。酒の性格をわかりやすく述べたまでで、「うちに千万無量の複雑性を蔵しながら、さりげない姿こそ酒の無上の美徳」なのだ。そのような酒として、もっとも早いころに「越乃寒梅」の名をあげていた。
開高健(一九三〇─一九八九)は行動する作家として知られていた。新聞社の臨時特派員を買って出て、泥沼のような戦争のつづいていたヴェトナムに入り、『ヴェトナム戦記』を著した。アフリカ西悔岸に赴き、ナイジェリアとビアフラのいつ終わるともしれぬ戦争に立ち会った。動乱のスエズにも、パレスチナにも出かけて行った。
戦場を見てまわる記者たちは、情報官のジープで案内され、いざとなればヘリコプターを呼んで、サイゴンヘも、東京へも立ちもどることができる。そんな自分をトビハゼにたとえたぐあいだ。開高健はついぞイデオロギーなどにくらまされず、徹底して冷めていた。そこからおよそ類のない博物誌が誕生した。
末広恭雄は東大の教授になる前は、水産講習所などの現場で魚たちとじかにつき合っていた。研究が、この上なくたのしい発見につながっていく。水中の生き物たちが、しばしば人間にまさる英知と愛情を見せつける。それをたのしく紹介した。
動物文学者。平岩米吉(一八九八─一九八六)は若い頃画家志望だった。川端玉章 について日本画を学んだ。その後、文学に転じた。昭和初期であって、まだまったくの田園地帯だった自由が丘に飼育場をひらき、犬、猫をはじめとして狼、ジャッカル、狐、狸、ハイエナ、熊などと生活をともにした。生態をくわしく観察し、そこから誰にも書くことのできない動物文学を生み出した。
人間を襲うとされてきたが、おおかたの場合は牧畜であって、家畜の敵であっても人間の敵ではない。恐怖が凶悪な獣をこしらえてしまったが、狼と「友情の関係」をつくるのはさほど難しいことではなく、ひとたび関係ができれば、これほど信頼できる友人はいないという。 古今東西の文献をあげて、人と狼のかかわりをたどっていった。そこに述べられている狼の生態を、日々つき合っている狼の行動や習性から確認していく。
山の行き帰りに郷士資料館とか歴史民俗館とかを見かけると寄ってみる。美術品ではなく生活具が主流であって、その土地、その地方のかつての暮らしがよくわかる。 同じような山里、あるいは山の町であっても、道具や生活具に少しずつちがいがある。 蓑 や 藁沓 にしても、素材、編み方、大きさ、飾り、それぞれどこかちがっている。気候風土に応じて生���れ、実際に使うなかで、さまざまな工夫がされてきたからだ。そして山一つ、川一筋で自然は微妙にちがうものだ。
柳宗悦(一八八九─一九六一)は『手仕事の日本』を旅してまわって、貴重な記録を残した。名所巡りでも寺社詣でもない。「その土地で生まれた郷土の品物」をたずね歩く。富本憲吉や河井寛次郎らと民芸運動を始めたのが大正末年のこと。焼物、染物、織物、金物、塗物……。人々の暮らしを支えた力強い友であり、無名の工人たちが知恵をしぼって改良をかさねてきた。それが美しくないはずがない。「民衆の芸術」として、どうして美の対象にしてはいけない?
柳宗悦が民芸にめざめたのは、若いころ朝鮮の白磁に出会ったのがきっかけだった。朝鮮を蔑む風潮のなかで、その地の美術工芸を研究し、朝鮮民族美術館設立までの実践をした。それが日本の民衆芸術へとひろがった。つねに社会とのかかわりを考えて、情緒的な美意識とはへだたりをとっていた。『手仕事の日本』が出たのは昭和十八年(一九四三)である。軍国主義のただ中で、自分の本が日本礼賛のタネにされるのを恐れたのだろう。これが昭和十五年(一九四〇)ごろの記録だと、はっきり断っている。
柳 宗 民(一九二七─二〇〇六)は、前項でとりあげた『手仕事の日本』の著者柳宗悦の四男である。幼いころから植物が大好きで、旧制中学を出たあと農業試験所や大学の育種学研究所で働き、そののち育種花園を始めた。「種の起源」にさかのぼって異種をかけ合わせ、新種をつくる。より美しい花、より強い改良種を園芸家たちに送りつづけた。
民俗学の宮本常一(一九〇七─一九八一)は「くろんぼ先生」のあだ名があった。もともと色が黒かったようだが、とにかくよく旅をして日焼けをしたせいである。晩年に若い人たちと旅文化の研究所を始めたとき、その機関誌を「あるくみるきく」と名づけたが、よく歩き、しっかり見て、根気よく聞きとることを自分の学間の根本にした。 「私は一つの島に一家族だけ住んでいるという島を今までに三つほど訪れたことがある」 日本の隅々までも歩いた人だから、めったにない体験をしている。『民俗のふるさと』のうちの「村の生活」の章を、一家族だけの島から始めた。
四国の山中のように、わりと家がばらばらに散っていても、同じ山仕事がつながりをつくって共同体を形成してきた。山裾の谷口に五戸、十戸とかたまっているのは、ムラのはじまりの形をよくとどめていて、そこには地縁的な結合がつよく見られる。
日本人は花好きの国民と、そんなふうに言われている。どんなに小さな庭にも花があるし、玄関先に鉢植えを積み上げた家もある。 昔は「花合わせ」といった優雅な遊びがあった。詩歌はくり返し花をうたってきた。「春の花見」が国民行事になるような国は、地球上でも稀なケースにちがいない。
メーテルリンクは『青い鳥』で有名な劇作家だが、『蜜蜂の生活』『蟻の生活』といった著書からもわかるように、庭にしゃがみこんで小さな生き物を観察する思索家だった。蜜蜂の生態を追っていくうちに、その虫を招き寄せ、花粉を運ばせ、自分たちの下僕のように使っている花の知恵に気がついた。
紀和山地の奥深いとこ���。熊野川、北山川、吉野川の本・支流が激しく蛇行して、わずかにひらけた谷あいに無数の集落が点在している。北の五條市からも南の新宮市からもバスを二時間あまりも乗りつづけないと行きつけない。その交通の不便さから、奥吉野はしばしば「秘境」とか「僻地」とよばれてきた。 「私がこの十津川郷に本格的に入りはじめてから、早くも三十余年になる」 『吉野の民俗誌』は奥吉野の十津川村を中心として、隣りあった下北山村、川上村にねばり強く探訪をつづけ、かつてあった山の暮らしを、これ以上ないほどくわしく書きとめた記録である。 秘境や僻地のイメージから地理的にも社会的にも隔絶された世界と思いがちだが、「山の訪問者・奥吉野の場合」が、まるきりべつの山里をのぞかせてくれる。執拗に蛇行する川沿いの道をたどり、あるいは網の目のようにひろがる生活道としての尾根筋を通って、さまざまな外来者たちがやってきた。 木地師、杓子屋、樽丸師、マゲモノ師、 松煙 屋、炭焼き、木挽き、鍛冶屋、トギ屋、イカケ屋、ブリキ屋、鋸の目立て屋……。 「松煙屋」とは聞きなれないが、奈良名物の墨の原料である 煤 をつくる職人。山中に小屋を建ててコエ松を焚き、その煙を特殊な障子に通して煤をため、俵や袋詰めにして出荷した。樽丸師の手による吉野杉でつくられた酒樽が、灘、伏見の酒の大生産地を生み出したことはよく知られている。奥吉野は上方文化に欠かせない技術者たちの故里だった。
南方熊楠が十数年に及ぶアメリカ・ヨーロッパ遍歴から帰ってきたのは明治三十三年(一九〇〇)である。紀伊・田辺に住み、植物調査のかたわら少しずつ執筆を始めた。その一篇「山神オコゼ魚を好むということ」を読んだ柳田國男が感動して、「突然ながら一書拝呈仕り候」と書き送ったのが、そもそもの始まり。つづいて東京と和歌山を、およそ風変わりな書き物が往き来した。残されているかぎりで、南方六十一通、柳田七十四通。
二週間ちかくかかって、ようやく吉野に入り、順にお伴がへらされていった。 「きょうからは山上御 駆 入り、奥通り難行の最初だからと、人物も詳しく御吟味なされ……」
吉田健一の『私の古生物誌 未知の世界』につぎのようなエピソードが紹介されている。十六世紀の中ごろ、ジャワからトカゲの標本がパリに届けられた。体の両脇にうすい膜がついていて、それをひろげて木から木へ飛ぶという。そんなことから龍の子供ということになって、のちに分類学者のリンネが「ドラコ・ヴォランス(飛び龍)」と名づけた。そんな命名からもわかるとおり、龍のイメージがすでにそのころの人にもあったわけだ。
コモド島の龍にしても、ようやく今世紀になって見つけられたのだし、アフリカ中部やアマゾンの奥地には、えたいの知れぬ巨大な生き物の出現が、たびたび報告されているではないか。山を歩いていて、異様な足跡に出くわしたときなど、体のどこか深いところがヒヤリとした感覚で反応するが、眠っていた本能がふと目覚めた一瞬ではなかろうか。 これを書いたのはいかなる恐龍マニアでもなく、正統派の評論家、小説家吉田健一である。その人が恐龍ブックを開いている少年のように、あふれるような好奇心でもって地上のどこかにひそんでいる恐龍を思いながら���いていった。数あるこの人の著書のなかでも、とりわけたのしい本になったのは、少年のころの夢を追っかけているからだろう。夢みたものと博識とが、これ以上ないほどみごとにとけ合っている。
ムササビは夜行性の動物であって、しかもおおかた木の上にいる。そのため観察が難しく、生態がよくわかっていなかった。忍者のように空を飛ぶのはたしかだが、脚についている皮膜を広げて気流に乗るわけで、高いところから低いところへゆっくりと落ちていくかたちになる。それでも気流のぐあいで、二、三百メートルの谷を、ひとっ飛びでこえたりする。
用意する材料の絵がついている。料理の手順、大切なポイントも図解してある。焚火の 熾し方、道具類、調味料にはじまって、焚火で料理するレシピが八十種あまり。加えて「火を使わない酒の肴」が二十五種。 アウトドアの本はごまんとあるが、これほど個性的で愉しく、そしてとても大切なことが語られていることはめったにない。
また本山コック長においては、焚火は単なるエネルギー源ではないだろう。人間が古代より受け継いできた火による生命の伝逹、それがいまや消えかけている。レンジのスイッチをひねるだけ、チンするだけでできあがる料理。生命の元であるはずの火が、火災の元凶として忌避される異様さ。
辻まことは多くの顔をもっていた。油彩、水彩とわず繊細な画風の画家であるとともに、辛辣な風刺画文集『虫類図譜』の作者だった。詩誌『歴程』同人のかたわら、イワナ釣りの名人で、狩りにかけても一家言があった。根っからのスキーヤーで、ギターが 巧みで歌がうまかった。生涯、定職というものをもたず、自分では「現今まれなる居候族の生残り」と称していた。
味わい深い言葉が、さりげなく書きとめてある。『山からの絵本』『山で一泊』など、生前、辻まことが本にしたのは山の本ばかりだが、同じく山を語っても、辻まことは他のどの人とも違っていた。また単なる山の本では決してなかった。そこには鋭い思考と厳しい文明批評がひそんでいた。
いつのころからか、この辻まことに親しんできた。ちかごろ山から遠ざかるにつれて山の本も開かなくなったが、辻まことは例外である。「遠くへのあこがれ」、どうやら私には辻まことがそれにあたるらしい。
詩人・劇作家木下杢太郎(一八八五─一九四五)は小説も書き、キリシタン史、美術論にも優れた著述をのこした。本名は太田正雄。東京帝大医学部卒の医学者として数々の業績をあげ、のちに東京帝大医学部教授をつとめた。はなやかな才能のわりに、いぶし銀のように地味な印象を与えるのは、スター的なポーズを好まなかったせいだろう。
茂 田 井 武(一九〇八─一九五六)をごぞんじだろうか? 知る人は幸せ者、知らない人はお気の毒。画家であって挿絵を描いた。絵本もつくった。ファンタジーと郷愁をさそいかける画集もある。 生年と没年に目をとめてほしい。画家として立とうとしたとき、軍国主義がハバをきかせ始めていた。戦争がやっと終わって仕事が舞い込んできたが、それは「カストリ雑誌」とよばれた時代であって、劣悪な紙に、ひどいインクで印測されていた。世の中が落ち着いて、T. Motaiのサインのある���情あふれた絵がアート紙にのりだした矢先に病に倒れた。
犬と猫はもっとも人間に親しい動物である。ある人には家族の一員であり、べつの人にとっては生涯の伴侶にもひとしい。チェコの作家カレル・チャペック(一八九〇─一九三八)の場合はどうだったのか。 「生まれたときは、ただの白い豆粒みたいで、丸めた 掌 に入ってしまった」 「ダーシェンカ」と名づけた。チェコの女性名ダシャに愛称をつけたわけで「ダーシャちゃん」といった意味。このフォックス・テリアの幼いころを語ったチャペックの『ダーシェンカあるいは子犬の生活』はよく知られている。だが彼はほかにも、いろいろたのしい犬と猫のお話を書いた。
「犬は、ひとりでいるときは決して遊ばない」 何か眺めたり、もの思いにふけったり、眠ったり、ノミを捕ったり、手近な何かに嚙んだりするが、遊びはしない。自分のしっぽを追っかけたり、ころがるボールをくわえてきたりするのは自分を見てくれる人がいての話。その人が見ることをやめた瞬間、とたんに犬は遊ぶのを中止する。 これに対して猫はひとりでいるときも遊べる。毛糸玉や、ゴムひもがあれば、それで十分。 「猫は死人の枕元でも遊ぶだろう」 たとえそれが、こよなく自分を可愛いがってくれた飼い主であれ、棺の覆いの飾りを前肢でチョイチョイとつついたりしているものだ。チャペックによると、猫は皮肉屋、犬はユーモリストの種族。
新聞、雑誌に才筆を振ったころ、往来では毎日のようにデモがあり、コミュニストと右翼が衝突し血を流していた。隣国ドイツで、みるみるうちにナチズムが力をひろげ、小国チェコの存立すら危うくなった。そんなさなかにチャペックは「山椒魚戦争」の名のもとに、こっぴどくナチスを笑いのめし、いち早く全体国家の引き起こす大量殺人と侵略戦争をとりあげた。
山に登ると海がよく見える。ときには足下にはじまり、目のとどくかぎり、ただ蒼い大海原。ひとしきり山のハナに腰を下ろしてながめていた。山好きの作家井上靖に「 補陀落渡海記」を書かせたのは、そんな海の記憶があずかっていたかもしれない。
ドイツににヨアヒム・リングルナッツ(一八八三─一九三四)という詩人がいた。リングルナッツは「たつのおとしご」の意味で、ペンネーム。本名はハンス・ベティヒャーといって、ごく市民的な、銀行員などにも似合いの名前である。
古書店の「とっておきコーナー」で見つけた。チロル地方の伝説や民話を集めた本のなかの草分け、かつはとびきりの一冊というものだ。「序」に原本にあたるものが示されていて、 WONDER TALES OF OLD TYROL とあり、イギリスのチロル研究者の採話集を訳したことがわかる。しかし、書名には訳者ではなく著者とあって、みるからにペンネームくさい名前が掲げてある。たしかにふつう訳書にはありえないつくりであって、たとえば全四篇のうちの第三話「ビブルグ湖の異変」は、こんな書き出しになっている。 「『アルプスの停車場』と呼ばれる信濃大町の北方に、南北に連り、恰度 後 立山々脈の裾をかぎって、仁科三湖の名で知られている木崎、中綱、青木の姉妹湖があります」
表紙には使い古しのハンチングに、袖の長い厚手のジャンパー、両手に軍手の男が石��腰を下ろしている。土木工事の現場監督みたいだが、さにあらず、高名な考古学者にして、この本の著者である。ただの飾りではなく、表紙自体が遺跡を見にいくときの心得を絵解きしている。帽子にジャンパーはいかにもというところだが、両手の軍手はどうしてか? デコボコだらけの遺跡では、よろけて手をつき、蛇に咬まれることがある。遺跡にはよく蛇が棲みついているものだ。ウルシにかぶれることもある。
「僕なんか、新発見によって考え方を転換させる知的スリルが楽しくて、半世紀あまりも考古学をつづけている」 「まさか」と思いつつ手の破片を埴輪の股間にあてがったとき、そこにはあきらかに頭とはべつの知性がはたらいていた。遺跡にかかわる実践のなかで、手や指先や足が習得したもの。山好きなら即座に了解するだろう。
著者栗栖 茜(一九四三─)は東京医科歯科大学を出て武蔵野赤十字病院勤務、外科部長をつとめた人。チボル・セケリ『アコンカグア山頂の嵐』の訳書があるが、エスペラントで書かれた山岳書の名著である。正確には栗栖 継・栗栖茜訳。エスペランチストでチェコ文学者として知られた栗栖継の訳稿を引き継ぐかたちで息子が完成させた。自分でもチェコの作家カレル・チャペックを訳している。ただの外科医でなかったことがわかるだろう。
「観察とはつまるところ、積極的な姿勢で自然を見ること。自然を受け身で体験するだけの散策とはわけがちがう」 リゴーニ・ステルンは一九二一年、イタリア北部の小都市アジアーゴの生まれ。貧しい地方であって、多くの人が出かせぎに行く。北はアルプスにつづく山地で、冬は一面の雪に覆われる。その町外れ、森のそばの古い家に住み、小説を書きつづけた。
ダーウィンの『種の起原』とくると、すぐさま進化論と、猿が徐々にヒトになっていく図を思い出す。人間のはじまりはアダムとイヴではなく、猿であることを「種」をめぐる観察からつきとめた──。
おもえば山歩きは最適者生存の現場視察とそっくりである。厳しい山岳地帯の風土のなかでは、それに応じた適者のみが生きのこるし、ときおり異形の草花と出くわすが、その山の特性がもたらした「後天的形質」と考えられる。
海水浴や日光浴は古くからおなじみだった。それに近年、「森林浴」が加わった。はじめは聞きなれない感じがしたが、いつのまにか先の二つを押しのけて、いまや健康法の主流になった。その生みの親が『森の不思議』の著者・神山恵三である。 大正六年(一九一七)の生まれ。もともと中央気象台勤務の気象研究者だった。「寒冷気象が生体に与える影響」の調査と称して、戦争中に樺太へ渡り、オロッコ族の少年に案内されて奥深い森を歩いた。
『森の不思議』が業界誌『現代林業』に連載されたのは一九八一年のこと。その前年に神山恵三はレニングラード大学のB・P・トーキンと共著で『植物の不思議な力=フィトンチッド』(講談社ブルーバックス)を出版した。トーキン教授は半世紀以前に樹木からの発散物質を論じ、「フィトンチッド」と名づけていた。ギリシア語に由来して、フィトンは植物、チッドは殺すの意味。「植物がもつ、他を殺すもの」。たとえば百日咳にかかった幼児のいる部屋にトドマツの枝を散���しておくと、空気中の細菌が十分の一にもへっている。トドマツからのフィトンチッドの力である。 三年後に一般に向けて書き直すにあたり、若い気象官の樺太体験を皮きりに十八の章に分けて、殺菌力をもつ物質に行きつくまでを書きとめた。この研究者は北方の暗い森を前にすると、詩人リルケの風景画論を思い出すし、「青い山脈」に先立ち、 頼山陽 の「自ら画きし山水に題す」を手がかりにして「青山」の問題を提起する。科学者には珍しく、ひろく内外の文芸に通じ、その紀行風のエッセイは、おりにつけ深い詩情をおびている。
差別語としてマスコミでタブー視されている「気違い」「部落」がタイトルに入っている。そのためか冷飯をくっているが、これだけの名著を埋もれさせておく手はないだろう。はじめて本が世に出た一九四八年当時、どちらも誰もが、はばかりなく使っていた言葉なのだ。 きだみのる(一八九五─一九七五)は本名山田吉彦。戦中・戦後の日本の知識人のなかで、もっとも型破りな人だった。早くにフランス語と古典語を学び、四十歳ちかくでフランスヘ留学。民族学を学ぶかたわらモロッコの辺境まで旅をした。
江戸に生まれた遊びに「百物語」というのがあった。もともとは怪談好きが集まって、たがいにとっておきを披露して楽しんだのだろう。しだいに「かたち」ができて、夜中に百のローソクをともし、話が終わると一本ずつ消していく。百本目が消えると、 魑魅魍魎 があらわれるから、九十九話目が遊びのおしまい。 杉浦 日向 子(一九五八─二〇〇五)の『百物語』もきちんとルールが踏襲してあって、「其ノ九十九」が打ちどめ。あたまに断わりがつけてある。
「……小笠原は私にとって、ここ二五年にわたって通い続けた仕事場である」 島の生物たちをこよなく愛してきた人が、終章にいたって「島の生物が危ない」を書かなくてはならない。生の多様性が失われ、種が絶滅していく。原因はつまるところ人間が入り、なにげなく導入した生物による。固有種となっている生物の弱さ、危ういバランスで成り立っている生態。
高群逸枝(一八九四─一九六四)は近代日本が生んだ、もっとも個性的な女性の一人だろう。若いころは恋愛、詩、女性解放運動、ジャーナリズムなどにわたって活発に活動した。三十七歳を境に女性史研究に専念。三十年あまりをかけて『母系制の研究』『招婿婚の研究』『日本婚姻史』を完成させた。それは「嫁をとる」「嫁をもらう」といった言い方に代表される日本人の女の見方、生きた物品同様の扱いに対する激しい異議申し立てと反証の試みだった。
大正七年(一九一八)六月がはじまり。出発から四国の八幡浜に上陸するまでに全体の約三分の一を費やしたのは、熊本城下から豊後街道を経て大分の港までがすでに信仰の道であったせいだが、それ以上に若い女のひとり旅がおよそない事例であったからだ。「世の中の人たちは百が百といってもいい位私という者を理解しちゃくれない」ありさまを、道筋の出来事をまじえて語っていった。そのことをしっかり読者に伝えておかなくては、あとの報告の信憑性があやしくなる。高群逸枝が本能的にそなえていたジャーナリズム精神というものだ。
ファーブルは中部フランスの僻村の生���れ。家は貧しい農家だった。「この一家は知られるかぎりずっと昔から、代々 みみず のようにこの土地に囓りついて、暮らしてきた」
画家・登山家上田 哲 農(一九一一─一九七〇)は、一年の半分は絵を描き、あとの半分は山やスキーに出かけていた。昭和初年に日本登高会の創立に加わり、数々の困難なルートを開拓した。戦後は第二次RCCのリーダーとして若手を養成するかたわら、カフカズやパミールヘ遠征した。
北京を出て万里の長城をこえるとモンゴルの高原に入っていく。西にひらけるのがゴビ砂漠。いかにこれが広大であるか、日本地図とかさねてみるとよくわかる。要するに日本全土がすっぽりと収まってしまうのだ。 一九二〇年代の初め、ニューヨークにあるアメリカ自然博物館が三度にわたり、ゴビ砂漠を中心とする中央アジアヘ探検隊を派遣した。ロイ・チャップマン・アンドリュースを隊長として総勢四十人。地質学、古生物学、考古学、動物学、植物学、民俗学など、専門分野の異なる館員たちが参加した。一つの地域にかぎり、これほど多彩な分野にまたがる調査が行われたのは、まさに空前絶後のことだった。
フランスの作家アルフォンス・ドーデー(一八四〇─一八九七)は愛すべき小品集『風車小屋だより』やオペラ『アルルの女』の原作者として知られている。南フランスに生まれ、早くにパリヘ出て、パリで生涯を終えた。
小泉八雲 に「犬の遠ぼえ」というエッセイがある。瘦せた白いメス犬がどこからともなくやってきて、町内に居ついた。おとなしいので子供たちに可愛がられ、町内の人も番犬がわりに重宝している。 「ただひとつ、わたくしは彼女に悪い癖のあることを発見した」 夜になると、きまって遠ぼえをする。八雲には欧州種の犬とはくらべものにならないほど「一種不気味なほえ方」に聞こえ、そのせいもあっていつも聞き耳を立てていたのだろう。つづいてこまかく述べている。
エッセイ「犬の遠ぼえ」は「霊の日本」に収録されている。八雲がつねに深い関心をよせていた日本人の霊魂の問題の見本帳といったつくりで、扉には「夜ばかり見るものなりと思うなよ。昼さえ夢の浮き世なりけり」という 諺 をエピグラムのようにつけた。
有吉佐和子(一九三一─一九八四)は社会問題に対して、おそろしく鋭敏な人だった。すでに半世紀ちかく前、『非色』によってグローバル化の一方にかいま見える人種偏見を取り上げた。『恍惚の人』(一九七二)はいち早く、今日の膨大な認知症候群と家族の 軋轢 を書きとめている。農薬や化学肥料による汚染を『複合汚染』の名で告発したのは、三十七年前(編集部注:一九七五年) のこと。農林省(当時)は御用学者を動員して反論し、「データ無断借用」をデッチ上げてしめつけにかかったが、有吉佐和子は一歩も引かなかった。やがて官僚の思惑を置き去りにして、事実がいや応なく深刻な汚染の実態を白日のもとにさらけ出した──。 「私は二十数年前から離島に関心を持ち続けていて、鹿児島県の 黒島 や、伊豆七島の 御蔵島 などを舞台にした小説を書いている」 昭和五十四年(一九七九)十一月の北海道・焼尻島、 天売島 が皮切りになった。翌年十月の尖閣列島まで十二度に及ぶ島めぐりをして、毎回��枚に及ぶルポルタージュを書いた。売れっ子作家がそっくりお膳立てをさせた上で出かけたのではない。種子島、屋久島、福江島、対馬、 波照間島、与那国島、竹島……。すべて自分で選び、たいていは現地に知らせることもせず、身一つで島に渡った。
屋久島の男は、月に二十日は山に行き、五日は海、五日だけ家にいるという民謡がある。山に行かずに帰ると言うと、絶句されたので、島の若い運転手の案内で、縄文杉まで胸つき八丁を登り、赤いナナカマドの実の下で弁当を食べて下りにかかった。そのしっかりした足どりが不審でならず、運転手がたずねた。
瓜生 卓 造(一九二〇─一九八二)は、『谷川岳』『日本山岳文学史』『多摩源流を行く』など、山の本を多く書いたが、峰々を踏破するタイプでも、叙情的な感懐を披露する人でもなかった。つねに風土や暮らしを重んじた。人が生きたしるしをおびてこその山野だった。
正方形に近い大判で、総アート紙。ページをめくるごとに、次々とカラー・モノクロ写真、版画、カットがあらわれる。「題字・扉 畦地梅太郎/函 大谷一良/カバー 内田耕作 串田孫一/検印 串田孫一」。
象頭山山頂の龍王池には 菖蒲 が生えている。呪力をもつ植物とされ、霊気と怨霊にかかわってきた。海村とひとしく山村に信仰がひろがったのはどうしてか? 修験の山としての象頭山、江戸時代の大ツアー旅行のメッカであったこんぴら参り……。守屋毅編『金毘羅信仰』は十四人の学者がテーマを分担して、こんぴらの謎にとりくんだものだ。写真の一つでは木の樽をかついだ人が石段をのぼっていく。「流し樽」といって当宮奉納のブランド物だが、樽が聖遺物になったことにも奇妙な物語がのこされている。
もとめに応じて二人の編者が「比較的ポピュラーなもの」から選んだという。ドイツ民謡「我が山の家」、チロルの唄、チェコ民謡「おゝ美しい牧場よ」、スイスのエンメンタール谷で歌われてきたヨーデル、イタリア民謡、ドイツ学生歌など。まず全六十歌を収めた第一集が出た。歌詞は訳の添えられたものもあるが、つねに原詞が先にあるのは、オリジナルで歌ってほしい願いをこめてだろう。初版の出た昭和二十九年(一九五四)は、戦争が終わって九年目。イタリアの国境守備兵の歌の解説に述べてある。「兵と云っても何処かの国の兵隊の様に戦争商売だけと云ったものではなく……」。
北斎は二度、富士山シリーズをつくった。先に錦絵で『富嶽三十六景』、ついで絵本として『富嶽百景』。二度の制作について一つの説がある。「三十六景」の好評に気をよくしていたところ、若い広重の『東海道五十三次』があらわれ、人気をさらわれかけたので、持前の負けん気からドーンと百景を世に問うた──。
もとより天才北斎の力だが、いくぶんかは山自体が力をかしている気がする。日本人にとって富士山は単に一つの山というだけではないからだ。国そのものの象徴にもなるし、ふるさとにひとしい憧れの対象になる。遠い昔から信仰の山として崇められ、信者でなくてもうやうやしく遥拝した。同じ人が三十三度、あるいは八十八度、登ることもある。カレンダーや迎春のポスターに用いられ、マッチのラベルを飾ってきた。日本人は幼いころから心の底にイコン(聖像)のようにして富士山をもっている。
山で見る星はピンポン球のように大きい。まさしく満天の星であって、光の砂をまきちらしたかのようだ。天の川が白い太い帯になってのびている。ところで大いなる天界のにぎわいに対して、人間の反応はいたってお粗末である。
戦争が終わって丸一年の一九四六年八月、植物学者、牧野富太郎(一八六二─一九五七)は思い立った。「一日に必ず一題を草し」て百日つづけよう。自分できめたところをきちんと実行して、百日目に百題を終えた。このとき八十四歳。のちに草稿をこまかく検討して九十一歳のときに本にした。
碧梧桐は俳人として以外にもジャーナリストとして政治や社会問題を論じたし、能や書にくわしく、蕪村研究家でもあった。「実感と写実」を主張したように、人また自然の描写がリアルで的確である。富士山を語った大半が情緒的な美文であった時代に、山中湖畔から見た富士山の頂上に向かって右肩の「殆んど直角的に裁断せられたような画然たる線の強さ」を力説している。その強さがあるからこそ頂上から一気にのびる稜線が生きているというのだ。その富士こそまことのお山であって、山麓は「劇場の桟敷」のようなもの、とするとそこに「富士裾野開墾株式会社」がのさばっているとしてもやむをえない。
桜島について書いた直後に噴火のニュースがとびこんできた。歴史年表にあるとおり安永八年につぐ大噴火とされるもので、すぐさま地元の人からの便りを紹介するとともに「実況を精写する文章」を手配した。そして入手した「桜島爆発当時の状況 南蠻生」という報告の全文をそっくり自分の本に収録した。趣味的な本づくり、また『日本之山水』のタイトルも古色蒼然としているが、その記述には百年前のルポルタージュ精神といったものが、いきいきと脈打っている。
ウェストンはつねづね「日本アルプスの父」といわれる。これがいけない。レッテルですでにわかっているような気がして、人はそれ以上を知ろうとしない。ブロンズのウェストン像とはなじんでいても、著書を開いてみようとは思わない。 幕末から明治にかけて多くの外国人が日本を訪れ、帰国したのち本を書いた。「神秘の国ニッポン」に好奇の目がそそがれていて、その旅行記、滞在記が出版社にとってドル箱であったからだ。ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』(一八九六年)はそんな一冊として世に出された。日本ブームの終了とともに大半の類書が消え失せたなかで、これは数少ない古典となった。異文化体験を述べるにあたり、山岳と風土という明快な視点をもち、観察がいきとどいていて、上質の英語でつづられていたからである。のみならずウェストンには、ほかの体験記にはまずもって見られない一つの特質をそなえていた。
伊予は愛媛県の旧国名。当地では県の南部を「 南 予」と呼ぶ。版画家畦地梅太郎の生まれたところであって、地勢に特色がある。山並みが複雑に入り組んでおり、総じて北側は高く突きあげ、南側はゆるやかにのびている。山と山とのあいだの奥まったところに集落があり、水田は無数の段をつくっていて、一戸あたりの面積が小さい。分家できないので二男以下は村を出て行く。畦地家の三男梅太郎も十���歳のときに生地をあとにした。
地図の製作を英語では「カルトグラフィー」という。製作者は「カルトグラファー」である。特殊な専門職のようにきこえるが、そうではないだろう。人と会う約束をするとき、落ち合う場所を手書きの地図なり市販の地図から写すなりして渡すものだが、すでにそれがカルトグラフィーであって、立派な一人のカルトグラファーというものだ。 「地図出版は江戸時代二百数十年の間に独自の発展を遂げ、幕末にはひとつの頂点に達している」 地図は政治
イギリスの作家ブルース・チャトウィンは死の直前、自分のお気に入りの旅のエッセイと記録をまとめ、タイトルをつけた。What am I doing here──旅の途上に、あるいは山を登っていて、誰もが思うことだろう。いったい自分は何をしている、どうしてここにいるのだろう? 「チャトウィン」とは珍しい姓である。当人も少年のころ気になってならず、訊きただしたそうだ。大叔母によると、古いアングロサクソン語でチェッチワインデという言葉があって、そこからできた名前らしい。「曲がりくねった道」の意味。なんだか遠くへ行くようで、少年には自分の姓が気に入った。
歴史家網野善彦は山梨県生まれで、東京に出てからも生活は「甲州風」にやってきたという。晩年は山梨市に家を求め、いずれそこに住むつもりだった。そんな縁から山梨県紙に連載したので、タイトルに「甲斐」が入っているが、その視野はひろく、「日本の歴史をよみ直す」と読みかえることができる。死の前年に刊行され、実質的には最後の著書にあたり、これまでの仕事を要約したぐあいなのだ。
山国は当然のことながら耕作地に乏しい。つぎに言われる常套句が「田畑のない地域は貧しい」である。網野歴史学はこれに、まっこうから反論した。人々は田畑にかわる多様な生業を発展させて、縦横に走る川の道で流通させてきた。山に入り「貧しい」はずのところに、目を丸くするほど立派な集落があることは、山好きならよく知っている。
春夏秋冬に分け、身近な植物や動物を相手にした遊びが七十種あまり紹介してある。著者は昭和元年(一九二六)の生まれであって、戦前に体験した。だが、戦後のある時期まで、子供の遊び文化といったものは変わらずつづいていた。私自身、体験者のひとりであって、エノコログサの穂先で首すじを撫でられると、全身がもだえるほどくすぐったいのを肌身で知った。それが性的感覚とウリ二つだったことは、大人になって気がついた。だからこそ女の子の首すじに穂先を垂らすのが、うしろめたいような快感をもたらしたのではあるまいか。
高野山、吉野、 大峯、熊野三山、立山、 石鎚山。気がつくと、信仰心とは無縁なのに、また聖地巡歴をこころがけた覚えもないのに、おおかたの霊山は訪れている。何か惹かれるものがあるからだろう。日ごろ物量の洪水のなかで見失っているもの。聖なる霊山とはいえ、しばしば時の権力と結びつき、政治性を持ってきた。権威化するなかで世俗にまみれ、しばしば人間臭さを露呈してきた。
タイトルのせいで誤解しそうだが、これは絵本ではない。キツネタケに始まりハルシメジまで、四十二種のキノコについてものがたった、たのしくて秀抜なエッセイ���である。ただ著者はもともと画家であって、それぞれに絵を付けた。われ知らずペンに先立ち画ペンをとったまでである。
写真家桑原 甲子 雄 は一九一三年の生まれ。二十代で一九三〇年に立ち会った。二十一歳のとき、あこがれのライカ(C型)を手に入れ、「写真なしでは夜も日も明けぬ」(「私の略歴」)日々を過ごした。この青年が変わっていたのは、そのころ写真界で流行した「新即物主義」といった理論にとらわれず、自分がおもしろいと思う往来の風景を撮りつづけたことである。当時、おそろしく高価なカメラとフィルムを、そんなスナップ撮りにあてようなどと、誰も思わなかった。
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