紙の本
歴史的人間とは
2023/09/01 09:58
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
歴史のとらえ方は、日本ではどうも歪らしい。明治時代以降の皇国史観が基礎づけられ、戦後、唯物史観が席巻したが、世界的にみて妙なとらえ方を多くの人がしているらしい。歴史的人間という言葉を考え、社会的に重大な要請を求められる人間であり、それに応じて社会的にインパクトのあることを成し遂げた人間であり、必ずしも英雄ではない。個人の特異性ではなく、時代と地政学的な場所が人に影響したとき、それに大きく反応できたのが、戦国時代を終わらせた信長ということだろう。
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【ヒーローか、それとも普通の大名か?】信長が歴史を劇的に動かしたのはなぜか。人気東大教授が宗教・土地・軍事・国家・社会から答えを見出したエキサイティングな一冊。
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よく立ち寄る本屋さんで見つけた文庫本です、この数年間はこの本の著者である本郷氏の本は追いかけています。文庫化は最近(令和5年7月)のようですが、元となる単行本はコロナ前の2019年に発行されているようです。その時には私の目に留めることができませんでしたが、今回この本に出会えて良かったです。
織田信長の評価は時代によってかなり変化しているようですが、当時の戦争に革命を起こして戦国時代を終わらせて日本を統一する道筋をつけた素晴らしい人のように思います。
ただし、信長の下で働く人達(大名)はものすごく苦労したと思います。秀吉は信長の意思をある程度継いだように思いますが、江戸時代を築いた徳川家康は、明らかに彼らとは違うやり方で日本を統一したと思います。戦争疲れで休みたいと思っていた大名たちの気持ちを理解していたので、支持が集まったのだと最近になって理解できるようになりました。
この本では歴史学者・本郷氏による「織田信長像」がさまざまな切り口から書かれています。戦国時代を終わらせる先見性があったことはよく理解できました。
以下は気になったポイントです。
・天台宗の開祖・最澄が建立した比叡山延暦寺は、平安時代以降、日本の仏教の総本山のような場所であり、数多くの仏典(聖教・しょうぎょう)や古文書が所蔵されていた。法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら後に鎌倉仏教として花開く宗派の創始者はみな、延暦寺で修行した。真言宗の教学センターと言われる京都市の東寺には膨大な史料が残っている(p26)しかし、攻撃しても良いと考えられる理由として、当時、天台宗・真言宗が国家を担う宗教として耐用年数を過ぎていたのではということである(p27)最長の教えそのものは素晴らしいが、それを受け取る側が変化した(p28)天台宗も後の円仁が密教を学び直し(台蜜)真言宗の東密と合わせて、平安時代から鎌倉時代にかけての仏教世界は密教体制であった(p31)
・天台宗(顕教)の教義の中心は、生身の人間として法を説いた釈迦如来がある、密教は大日如来である、毘盧遮那仏と呼ばれる東寺の大仏が大日如来である。大日如来と釈迦如来の関係は、エホバとキリストの関係に似ている。キリスト教では人間としてこの世に現れたイエスキリストが信仰の対象となっているが、その背後に父なる神がいる(p29)キリスト教はこれに聖霊を加えて三位一体説としているが、仏教では「大日如来が人間の形でこの世に現れて教えを説いたのが釈迦如来」と考えた(p30)
・神秘的な力に頼る傾向に変化が現れたのは、鎌倉時代になって禅宗が入ってきてから。修行をしたり座禅を組む実践が行われるようになった、また禅宗とともに中国の儒教や道教、漢詩文なども伝来して、中国の先端の学問を学ぶ風潮も広がった(p32)
・信長が執念を持って戦い続けたのは、一向宗(親鸞が開いた浄土真宗の別名)である、他の宗派が浄土真宗のことをこのように呼んだ。一向に(ひたすらに)南無阿弥陀仏と唱えるので。浄土真宗の側では、この呼称を快く思っていないので、正式には使わない(p34)
・宣教師のレポートを読むと、キリスト教にとって悪魔の教えは「禅宗」と説いている、禅宗は「無」を強調する、これはニヒリズムを意味するから。一方で、商売敵になるのは「一向宗」と書かれている、南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土へ行きなさいという考えと、神を信じて善行を重ねて天国に行きなさい、というキリスト教の教えは似ている(p43)
・人々が願ったのは、国が一つにまとまることで戦乱が終息し平和な世の中が到来することであった、その時に打ち捨てられたのが「平等の概念」であった。平等の価値観を目指す一向宗は邪魔であった(p47)
・京都の権勢者や現地の領主のうち、一番上にいる有力者を「本家」在地領主が助けを求めた有力者を「領家」といい、本家と領家を合わせて「上司」という、この上司に対するものとして、在地領主を「下司・げす=地頭」という。人を蔑む言葉として使うゲスの語源である。荘園で生産された農産物である上分を、本家・領家・下司の三者で分けた(p64)このような状況なので、誰も土地の所有権を保証してくれない、所有が極めて未成熟な状態である(p65)在地領主が集まって、自分たちの権利を守ってくれる人として、源頼朝のもとに集まって鎌倉幕府が成立した(p67)源頼朝が御家人に土地を与えるといっても、役人として任命するのがせいぜいであり、頼朝の権力とはその程度であった(p69)
・鎌倉幕府は土地をみだりに売ってはならないという法律を出した、それでも土地を売る御家人が続出したので、最終的には永仁の徳政令(1297)を出して、御家人以外の者に土地を売った場合、その土地は無償で取り返すことができるようにした、無茶苦茶な内容だが、幕府が倒れるまで効力を持っていた。(p73)
・鎌倉にいた関東公方が政治を執り行っていたのは、関東地方だけで、東北の陸奥国と出羽国は京都の室町幕府が直接統治していた。ところが義満の時代に、その部分を切り離して、関東公方の統治下に置いた、同様に九州地方も幕府の統治から切り離した、つまり統治するエリアを、近畿・中部・中国・四国地方に限定した、そしてこのエリアの守護大名を京都に予備集めて常に住まわせた。地元では、城代家老のような家来(守護代)が政治を行っていた(p77)その主導権争いで起きたのが、1467年に始まった応仁の乱である。四国グループの細川氏と中部地方の山名氏の争いである(p77)
・長篠の戦いでの信長軍は兵種別編成が完全にできたかどうかわからないが、少なくとも鉄砲隊はまとめて運用されている、そのことからある程度までは兵種別編成はできていたと考えるのが自然である(p85)信長の軍勢は兵農分離の全くしていない他の戦国大名の軍勢にくらべて強かったと考えられる(p105)
・愛発関、不破関、鈴鹿関の東は「関東」と言われた、672年の壬申の乱の頃、律令国家が力を持っていくと、関東と呼ばれるエリアも狭まっていき、鎌倉時代を経て今の関東地方と同じ範囲に限定された、日本は西国型国家である(p138)
・1345年には、畠山国氏と吉良貞家の二人が奥州管領に任命された、京都では足利尊氏と直義の兄弟が争っていたため、それぞれの派閥から別々に送られた(p145)その後には、4人が任命されることもあった(p147)
・信長の場合、領土を広げて税金をかけたが、そこにはある種の公平性があった。民衆から見れば信長の支配下に入れば、税負担が公平に貸されるというメリットがあった(p183)
2023年7月22日読了
2023年7月23日作成
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信長もの、かつ本郷先生の著書というので迷わず買ってみたが「信長もの」ではなかった。今まで日本史を扱う本を読むときに人物史に目がいっていたが、社会の構造、及び社会の要請とは何なのか、という俯瞰した視点の必要性を痛感した。