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読了w
一日で読み終わっちゃったよw
直前に読んでた古本食堂と比べてしまうと、若者とマダムではこんなにも生き方違うものなのかね〜と思ってしまう。
歳を重ねるほど丁寧な生き方になるのだね。
でも一つのことに熱を注げることこそ、若者ならではの有り余るパワーの成せるワザだとも思うしね。
それでいいんだよって思ったりもする。
そうやって色々やっていくうちに、自分にとって必要なものだけが身についていくのだと思うよ。
大きな辛いことあった時、この世の終わりみたいな気持ちになるけど、周りは何も変わらず日常が回っていて、自分ひとりが嵐の中に取り残された気持ちになってしまう。
でも生きている限り、その流れの中に自分も生きていかなきゃいけないんだよね。
縋りついていたもの、人、いつか必ず終わりは来る。別れは来る。
終わるけど始まりも来る。その繰り返し。
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その界隈にいたらよくある、よくいる話。ただ推しがいる、という人ではなく自らの生活を削ってまで推した経験がある人、その界隈に造詣が深い人が読むと良い意味で心が辛くなるはず。当然と言えば当然なのだが、SNSで推しのためのアカウントを作成したことがない人などは背景が見えづらく共感しづらい話だと感じる。私は好きでした。初版だけかもしれないが、帯のキラキラが可愛らしかった。
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うーん不完全燃焼。
読み終わった後に気になることが残りすぎてる。
「推し」に対する気持ちや「推し」方の描写は良かったんだけど、主人公自身のことが知りたくてたまらないです!
この子何の病気?1人暮らしさせて大丈夫なの⁈
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なんとも言えない感情が浮き出てくる作品。高校生のあかりにとって、何もかもうまくいかない毎日の中で、「推し」は全てで、生きる糧だったのだろう。その「推し」が居なくなるとは、背骨を無くすこと。その先の長い長い人生これからどう立ち向かうのか。新しい「推し」に出会えるのか…
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良かった。
読み終わって部屋を片付けようと思った。
部屋を片付けるということは自分を生きるということなんだろう。
自分で散らかした綿棒も、放置したせいで黴の生えたおにぎりも拾わなければいけない。
拾って、捨てて、また散らかして、そしてまた拾うを繰り返すしかないんだろう。
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自分の推しが紹介していたので手に取った本です。
ひとりの推しに対しても、期待を寄せること理想型は人によって違っていて、それぞれが思い描く推しを拠り所に生き、そうではない姿を見せられれば推しを失ったように感じるんじゃないだろうか。
推しは最も近くでわかっていたいけれど、最も遠くてわかり合えない存在なのだと思います。
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こちらを読んでる最中に、ちょうど自分の推しが軽く炎上しまして。
なんてタイムリーなw
炎上しても推しの言動を解釈しようとし、受け入れようとしている人達の姿が主人公・あかりと重なった。
きっとその人達は、まさに推しが背骨と化し、存在そのものが愛おしいんだろう。
この作品の装丁のように、推しの傀儡となってる気もするけど。
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純文学ではあるが、話題が今の時代にあってるのでさくさく読めた。
純文学に興味はあるが、とっつきにくいと思っていた私のような人にはおすすめです。
「何もしないでいるのが、何かをするよりつらい」、という文章がかなりしっくりきた。
主人公は推しに没頭することで辛さから逃げるが、
仕事に逃げてる人も多そう。
ただ、仕事という背骨はかなり脆いし、辛さに直結することも多くある。
時間を埋めるためにとにかく忙しくしているような気もして、自分の人生も一度振り帰ろうと思った。
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一気読み。最初は比喩表現がいまいちピンとこず、主人公あかりが推しに惹かれた最初のきっかけ、なんとなく感じる子どもっぽさ、全体に違和感があった。が、読み進めるうちにぐんぐんと解釈に繋がっていって、あかりにも、その母親にも共感して感情が揺さぶられるほど夢中になってしまった。どう決着をつけるのかと思っていたが、最後あかりが投げつけたもの、それがまた個人的には特別に刺さった。
あとがきもなるほどなと思うところがあり、読んで良かった。
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みんなが当たり前に出来ることが出来ない人は、なぜそれが出来ないのかを上手く言葉にすることも出来ず、当たり前に出来ることが出来る人は、出来ない人がなぜ出来ないのか、なぜ言葉が拙いのかを理解することが出来ない。
想像してもらいたい。自分が出来ないことが異常だと決めつけられた社会、出来ないことが認められない社会で生きることの苦しさ。味方はいない。ここでは「家族」も理解者にはならないし、あかりは最初からそれに期待もしていない。
そんなあかりにとって、「推し」は自分と社会を繋ぐ細い糸(背骨)だったんだろうと感じる。
そして、それは一定のへだたりがある、互いを干渉しすぎない優しい社会でもあり、ゆえに推しが人間になった瞬間、それまでのあかりの中で解釈していた推しは消失する。
推しが人間になった瞬間、それはあかりにとって生きにくい社会の中に組み込まれた人になってしまったのだ。
わたしは、社会を俯瞰してみるために小説を読む。
社会とのつながりを知るために小説を読む。
わたしにとっての背骨は小説であり物語である。
金原ひとみさんの解説に深く共感した。
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推しを推す人の中には、推しに恋人が出来たり、問題を起こしたりすると、急にアンチの側になる人間もいるようだ。そういう人間達は、どこか闇があるんだと思った。「あたし」は、精神を病んでしまっていて、高校も中退し、バイトも出来なくなってしまった。でもその種の人間ではなかった。小さい頃からの推しを見続けてきた「あたし」は、推しの出演するものは全て見て、記録し、グッズだって全部買う。推しの引退ライブの時に、推しは大人になったんだと気づく。そして推しは人になったんだと。そうしてますます病んでいってしまう。推しを推す人というのは、一見自分とは全く違う種類の人間だろうと思っていたが、子を持つ親としての自分と重なりすぎていてびっくりした。子供の行動は全て把握したいし、何を考えているのか全て知りたいし、理解したいし、子供がやりたいと言った事にはできる限りお金を出したいと思う。そして子供が反抗期などで、思いもよらぬ行動を始めたりすると、激しく動揺するし、場合によっては精神を病んでしまうことだってある。そして自分の元を巣立ってしまったら、空虚になるに違いない。程度は違ったとしても、そういうものだと思う。「あたし」はどうなってしまうのかと思ったけど、最後、「当分はこれで生きようと思った」とあって、安堵した。この気持ちがとても重要だと思う。全ての人が、最終的にこう思えるといいなと思った。
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自分には推しとか特にいないので、楽しそうに推し活をしている人たちが羨ましいと思うこともあったが、推しがいなくても生きていけるというのは幸せなことかもしれないと思った
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アイドルファンの女子高校生を描いた小説。
・アイドルファンの描写が表面的すぎる。アイドルファンに見られるパッション・切実感が全然伝わってこない。このパッションこそがアイドルファンの過激な発言や行動の源だろうに、これが描けていないから主人公が何をしようが自然な行動には感じない。
・主人公が応援してるのは地下アイドルという設定なのに、付き合ってると噂が出るのが女子アナだったり、グループが解散するとき記者会見を開いていたり、設定がブレていて混乱する。
と、不満をもったまま読み終わったら、文庫版あとがきで著者が、
『「本当のこと」を彼女の自意識すらうまく把握できていないので、地の文にもあらわれてこない。それでも、書いていくうち、ときどき何かがにじむことがある。』(p154)
と言っていて納得。
つまり、著者は「何かがにじみ出てくれ!」と願っただけで、確信的に何か深いものを描き出そうとしたわけではないということだ。
そんな小説が何かの賞を受賞してたなと思って調べたら、芥川賞だった・・・(笑)
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あとがきと解説込みで読んで欲しい作品だと思った。背骨という比喩が素晴らしい。また、自らも推しがいる人間であるため主人公と自分を重ねる部分があり、推しからの行動に感情が衝撃を受けた。
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推しを推すことにおいて以外のところでは、この本の主人公の家族のほうに共感した(というか家族と同じ感覚を持っているとおもう) 。主人公はやはりどこかうまく日常生活には馴染めていなくて、でもきっとこういう生きにくさみたいなのを抱えている人がいるんだろうなとどこかで思っている。それはもしかしたら差別的な感覚を自分が持っているということかもしれないけれど、でも全く想像も出来ない人もいるんじゃないかと思うと、小説のなかにいる登場人物に共感したりすることができるようになるくらい、小説というのは想像力を育ててくれるなと思う。