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恋愛感情の好きとは違う、別に向こうがこちらに気づかなくても良い、その方がいい、一方的に推すことに喜びを感じる。そこに生きがいを見出している。
程度の差はあれ、一度「推し活」をしたことがある人なら共感できる言葉が並んでいて勝手に嬉しくなった。同年代として、私たちのこういう気持ちも文学として受け入れてくれるんだな、という気持ちになった。
個人的には前作の「かか」の方がわたしには刺さった。読んでいる途中、「かか」とは結構テイストが違うな?と思っていたら、最後に作者本人が理由を述べてくれていた。本人の言葉でそこを説明したいと載せてくれたことに、すごく好感を持った。
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「TikTok世代のキャッチャーインザライ」、まさにだな。芥川賞!!!って感じ。いつの日かの川上未映子さんの作品を思い出す。
個人的には作品に深くのめり込んだわけでも、深く共感できたわけでもないが、金原ひとみさんの解説はわかりやすくて、痺れた感じ。こう解釈したら良いのか、ここまで深く広く理解すれば良かったのかと。もしかしたら、この主人公・あかりは発達障害だったのではないか。ままならない勉強、うまくいかないバイト、ひとつのものに熱中すること、この生きづらさは、まさにそうでは?と。
p.162 「あたしには、みんなが難なくこなせる、何気ない生活もままならなくて、そのしわ寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど、私を押すことが私の生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな」それがなければ、日常生活はおろか、立っていることすらできない、体を貫く骨。これは主人公が終盤で這いつくばる心にも聞いてくる、重く、切実な、唯一無二の比喩だ。
「重さを背負って、大人になることを、辛いと思っても良いのだと、誰かに強く言われている気がする」「その目を見るとき、私は、何かを睨みつけることを思い出す。自分自身の奥底から、生徒もふたもつかない膨大なエネルギーが湧き上がるのを感じ、生きると言うことを思い出す」これらの言葉に象徴されるように、あかりにとっては、人は生きる糧であり、術であり、目的でもある。そして同時に、今を生きる多くの人々にとって、押しが切実なものであると言う事実は、私たちが生きる社会の寄り方なさをも表している。例えば、かつて戦争中の日本では、兵力と労働力確保のため「産めよ殖やせよ」と言うスローガンが、打ち出され、国からの圧力により出生率が高まった。当時は、国と個人が簡単には切り離せない時代だったのだ。だが、現代人はもはや国とそのような関係性を保っておらず、各家族が指摘された時代すらも超え、家族と言う最小のコミュニティーへの帰属意識すら薄まっている。例えば、あかりの母は祖母に引き止められ、夫の海外赴任についていけず、涙を飲んだが、あかりはそのような家族の引力からも解放されているように見える。最後の砦であった家族すら解体されて個として生きるほかない人々が何を求めるのか、何と共に生きることを選ぶのか。本書はその問いの1つの答え、そしてその答えの先に見える景色を描いている。
現代人の多くは、この糸の切れた凧のような浮遊の中で、無意識に、自分を世界に、自分を日常に、自分を正に結びつけてくれるものを求め、押しをしているのではないだろうか。コロナ禍で、推しを持つ人が増えたのも、社会はいとも簡単に機能不能になる、死ぬ時は1人である、と言う事実がわかりやすく提示されたと言う理由からかもしれない。あかりも身をもって体験するが、自分自身の背骨を誰かに委ねるのはリスクを伴う行為だ。しかし、背骨のない生を、世界と自分をつなぎとめるものが何一つないまま整然と生きられるほど、人間は必然的な存在ではない。
しかし、本書を読んだとき、彼らの背骨とその喪失を描いた本書もまた、誰かの背骨となり、この世界を生きていくために足りない何か1つになり得るだろうと言う確信があった。誰かの手に取られ、背骨肋骨として埋め込まれ、誰かの中で行ける無数の「推し、燃ゆ」思うと、嬉しさと愛しさで爆発しそうになる。なんと愛おしい背骨、なんと強靭なたこ糸だろう。小説とは死ぬまで体を支える、消えない背骨になり得るのだ。喪失を描いた作品が、喪失を埋める。そんな神業を実現させた著者が作り出していくものを、ずっと何か1つ足りないこの体で、私は待ち望み続けるだろう。
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ずーっと読みたくてやっと読めた。
推しがいるのは今や当たり前?なようだが、控えめに言って生きる力をくれる存在なのかな、と。
主人公はやりすぎだと思うけど、ここまで好きなことがあるのは強いなと思った。
うまくいかない現実を推しへの気持ちで埋めて毎日をなんとか進んでいく、そんな主人公が少し痛々しくて悲しかった。
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私にも推しがいる。だから、物語の中の推しに対する主人公の気持ちや、周りの状況などはとても理解できた。
ただ、文章が残念ながら私には合わなかった。私の読解力が足りないからかもしれないが、頻繁に出てくる比喩表現がまどろっこしく感じ、共感できないものが多かった。そこで引っかかってしまい、あまり楽しめなかった。
だから、ラストの主人公がこれからどうするかという場面も結局どうしたいのか、文章から読み取れず、モヤモヤして終わってしまった。
評価が高く、話題になった本だったので期待し過ぎてしまったのかもしれない。
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読了w
一日で読み終わっちゃったよw
直前に読んでた古本食堂と比べてしまうと、若者とマダムではこんなにも生き方違うものなのかね〜と思ってしまう。
歳を重ねるほど丁寧な生き方になるのだね。
でも一つのことに熱を注げることこそ、若者ならではの有り余るパワーの成せるワザだとも思うしね。
それでいいんだよって思ったりもする。
そうやって色々やっていくうちに、自分にとって必要なものだけが身についていくのだと思うよ。
大きな辛いことあった時、この世の終わりみたいな気持ちになるけど、周りは何も変わらず日常が回っていて、自分ひとりが嵐の中に取り残された気持ちになってしまう。
でも生きている限り、その流れの中に自分も生きていかなきゃいけないんだよね。
縋りついていたもの、人、いつか必ず終わりは来る。別れは来る。
終わるけど始まりも来る。その繰り返し。
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その界隈にいたらよくある、よくいる話。ただ推しがいる、という人ではなく自らの生活を削ってまで推した経験がある人、その界隈に造詣が深い人が読むと良い意味で心が辛くなるはず。当然と言えば当然なのだが、SNSで推しのためのアカウントを作成したことがない人などは背景が見えづらく共感しづらい話だと感じる。私は好きでした。初版だけかもしれないが、帯のキラキラが可愛らしかった。
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うーん不完全燃焼。
読み終わった後に気になることが残りすぎてる。
「推し」に対する気持ちや「推し」方の描写は良かったんだけど、主人公自身のことが知りたくてたまらないです!
この子何の病気?1人暮らしさせて大丈夫なの⁈
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なんとも言えない感情が浮き出てくる作品。高校生のあかりにとって、何もかもうまくいかない毎日の中で、「推し」は全てで、生きる糧だったのだろう。その「推し」が居なくなるとは、背骨を無くすこと。その先の長い長い人生これからどう立ち向かうのか。新しい「推し」に出会えるのか…
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良かった。
読み終わって部屋を片付けようと思った。
部屋を片付けるということは自分を生きるということなんだろう。
自分で散らかした綿棒も、放置したせいで黴の生えたおにぎりも拾わなければいけない。
拾って、捨てて、また散らかして、そしてまた拾うを繰り返すしかないんだろう。
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自分の推しが紹介していたので手に取った本です。
ひとりの推しに対しても、期待を寄せること理想型は人によって違っていて、それぞれが思い描く推しを拠り所に生き、そうではない姿を見せられれば推しを失ったように感じるんじゃないだろうか。
推しは最も近くでわかっていたいけれど、最も遠くてわかり合えない存在なのだと思います。
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こちらを読んでる最中に、ちょうど自分の推しが軽く炎上しまして。
なんてタイムリーなw
炎上しても推しの言動を解釈しようとし、受け入れようとしている人達の姿が主人公・あかりと重なった。
きっとその人達は、まさに推しが背骨と化し、存在そのものが愛おしいんだろう。
この作品の装丁のように、推しの傀儡となってる気もするけど。
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純文学ではあるが、話題が今の時代にあってるのでさくさく読めた。
純文学に興味はあるが、とっつきにくいと思っていた私のような人にはおすすめです。
「何もしないでいるのが、何かをするよりつらい」、という文章がかなりしっくりきた。
主人公は推しに没頭することで辛さから逃げるが、
仕事に逃げてる人も多そう。
ただ、仕事という背骨はかなり脆いし、辛さに直結することも多くある。
時間を埋めるためにとにかく忙しくしているような気もして、自分の人生も一度振り帰ろうと思った。
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一気読み。最初は比喩表現がいまいちピンとこず、主人公あかりが推しに惹かれた最初のきっかけ、なんとなく感じる子どもっぽさ、全体に違和感があった。が、読み進めるうちにぐんぐんと解釈に繋がっていって、あかりにも、その母親にも共感して感情が揺さぶられるほど夢中になってしまった。どう決着をつけるのかと思っていたが、最後あかりが投げつけたもの、それがまた個人的には特別に刺さった。
あとがきもなるほどなと思うところがあり、読んで良かった。
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みんなが当たり前に出来ることが出来ない人は、なぜそれが出来ないのかを上手く言葉にすることも出来ず、当たり前に出来ることが出来る人は、出来ない人がなぜ出来ないのか、なぜ言葉が拙いのかを理解することが出来ない。
想像してもらいたい。自分が出来ないことが異常だと決めつけられた社会、出来ないことが認められない社会で生きることの苦しさ。味方はいない。ここでは「家族」も理解者にはならないし、あかりは最初からそれに期待もしていない。
そんなあかりにとって、「推し」は自分と社会を繋ぐ細い糸(背骨)だったんだろうと感じる。
そして、それは一定のへだたりがある、互いを干渉しすぎない優しい社会でもあり、ゆえに推しが人間になった瞬間、それまでのあかりの中で解釈していた推しは消失する。
推しが人間になった瞬間、それはあかりにとって生きにくい社会の中に組み込まれた人になってしまったのだ。
わたしは、社会を俯瞰してみるために小説を読む。
社会とのつながりを知るために小説を読む。
わたしにとっての背骨は小説であり物語である。
金原ひとみさんの解説に深く共感した。
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推しを推す人の中には、推しに恋人が出来たり、問題を起こしたりすると、急にアンチの側になる人間もいるようだ。そういう人間達は、どこか闇があるんだと思った。「あたし」は、精神を病んでしまっていて、高校も中退し、バイトも出来なくなってしまった。でもその種の人間ではなかった。小さい頃からの推しを見続けてきた「あたし」は、推しの出演するものは全て見て、記録し、グッズだって全部買う。推しの引退ライブの時に、推しは大人になったんだと気づく。そして推しは人になったんだと。そうしてますます病んでいってしまう。推しを推す人というのは、一見自分とは全く違う種類の人間だろうと思っていたが、子を持つ親としての自分と重なりすぎていてびっくりした。子供の行動は全て把握したいし、何を考えているのか全て知りたいし、理解したいし、子供がやりたいと言った事にはできる限りお金を出したいと思う。そして子供が反抗期などで、思いもよらぬ行動を始めたりすると、激しく動揺するし、場合によっては精神を病んでしまうことだってある。そして自分の元を巣立ってしまったら、空虚になるに違いない。程度は違ったとしても、そういうものだと思う。「あたし」はどうなってしまうのかと思ったけど、最後、「当分はこれで生きようと思った」とあって、安堵した。この気持ちがとても重要だと思う。全ての人が、最終的にこう思えるといいなと思った。