紙の本
愛書家を理解することは難しい
2024/01/16 18:34
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
愛書家から転身して古書店主となった須藤康平を主人公とした冒険談3編。1980年頃を舞台にしているため、その当時のことを思い出しながら読むのも面白い。愛書家の愛書家たる振る舞いが、共感できる。ただ古書を収集する気持ちはよくわからず、「一生のうちで一度でよいから、幻の本を手にしてみたい」と考えることも、理解できない。自分自身も一時期、書籍を数百冊ため込み、家が壊れるといわれたが、今は集め貯めるよりも、読書する愛のほうが強い。
紙の本
むずかしい
2023/10/02 08:37
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投稿者:にゃんぱり - この投稿者のレビュー一覧を見る
評論家,著述家としてお名前は存じ上げていましたが,ミステリ作家の顔もお持ちとはしりませんでした。
作品は,古書取引の話が専門的で少しわかりにくかったのとハードボイルド的な構成のためか,登場人物の性格や感情があまり描かれていないのが少し物足りなかったです。
好みの問題だと思います。
最後の瀬戸川氏との対談は,神田の古書店の裏話を聞けて楽しかったです。
それだけでも読む価値があると思います。
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1985年刊行の文春文庫版は読んでいたけれど、このたび1991年創元推理文庫版が分冊版でリイシューされるというので迷わず買いました。この『古本屋探偵登場』には、1991年の創元推理文庫版が刊行されたときに書かれたまえがきとあとがき、文春文庫版には未収録の『無用の人』、解説対談として瀬戸川猛資との対談が収録されています。成島柳北の『柳橋新誌』幻の第三篇が題材となっている『無用の人』、和本についての蘊蓄が楽しくてあっという間に読み終えてしまいました。解説対談も興味深く、行われた場所が山の上ホテルなのも、にやにやしちゃいます。
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神保町に居を構える本の探偵・須藤の元に持ち込まれる三つの事件を収録した連作短編集。どうやら復刻版らしく、今作は1980年代前半の作品のようだが、当時の時代感による古臭さは殆ど感じなかった。本探しの依頼が思いも寄らぬ事件に発展する展開も実に興味をそそる。巻末の解説対談では今作に登場する愛書家達(古書マニア)のキャラクターは決して誇張したものではないと述べられているが、だとするとこの界隈には絶対立ち入りたくない。個人的には若竹七海さんの<女探偵・葉村晶>シリーズに通ずるものを感じ取ったので、続編も読むつもり。
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・紀田順一郎「古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿」(創 元推理文庫)は旧版の一冊本を分冊にした書である。本書はその1、短編3編が入る。珍しく私は旧版を持つてゐる。買はな くても良いのだが、読み直すのならこの方がはるかに読み易いので買つた。そして読んだ。おもしろかつたのは言ふまでもない。この手の本を読むと私は愛書家ではないといつも思ふ。本好きではあるが決して愛書家ではない。第一、本の数が違ふ。 家の根太がどうのなどと考へることはない。最近は、新刊以外はwebで探すことが多い。以前は結構古書目録を見てゐた。ほとんど買ふことはないが、見るだけは見てゐた。言はば目の保養である。今でも古書目録を 請求すれば送つてくれるはずだが、私は見ない。webでより安い本を探す。本書で問題になるやうな限定版の類には興味ない。言はば安物買ひである。こんなわけで私は愛書家とは言へない。ただし、「愛書家とか蔵書家とはいっても、普段はごく普通の人たちなんですね。」(解説対談「『本の探偵』と愛書奇譚」362頁)とか、愛書家は「まあ、フェティシズムの一種ということなんだろうけれど。」(同前)とかの瀬戸川猛資の言がある。これからすれ ば、愛書家といつてもごく普通の人であるのに、「現実生活とはおよそ無縁なものに、とほうもない情熱と精力を傾ける」ところがあるといふ点は、私にも似たところはあると言へよう。
・巻頭の「殺意の収集」の依頼人津村恵三は、「本探しの極意は熱意ではない、殺意だと思います。」(22頁)と言ふ人である。これが私家版2部のうちの1部を入手したといふことから物語は始まる。「カンと殺意」(29頁)で見つけた私家版はいかなるものかといふのを、書肆・蔵書一代といふ古書店主の須藤康平が推理する物語である。津村はサラリーマンで「要領がよく、言動にムダがないという感じで(中略)いつも整然とした話し方に感心させられ」(17頁)るやうな人である。およそ「殺意」を抱いた愛書家とは見えない。「無用の人」の依頼人尾崎朋信は「銀行の人」(293頁)で、「おれのポストは重要な、忙しい仕事なんだ」(349頁)と自ら言ふ人であるから、こちらもそんな愛書家とは見えない。ところ が「書鬼」の依頼人風光明美の祖父となるとさうはいかない。 本は「それはもうものすごいものです。そのころだって、書斎から廊下へ、玄関へとあふれて いて云々」(191頁)と明美が言ふほどである。しかも身分を明かしていない須藤に、「本を盗みに来おったのだろう」(259頁)と言ふほどに本に対する執着がある。本を動かされたらその場所が分かるかとの問には、「『わかる』言下に答が発せられた。」(同前)といふほどであるから、並みの者ではない。明るくして顔を見れば「人間の顔だろうか。」(264頁)である。従つて書鬼、正に書鬼である。こんな愛書家、蔵書家が出てくる本書で最も気になつたのは次の言葉である。「蔵書一代…人また一 代…かくして皆…共に死すべ し…」(140頁)「書鬼」の蔵書は“紙屑”として「一切合財処分」(同前)されてしまつ た。一軒の家ほどの大量の蔵書も本人以外は無用の長物であつた。津村や尾崎の蔵書、それもかなり高価な��定本の類らしい、も同じ運命をたどるのであらう。何でもさうだが、いかに重要なものであれ、その持ち主以外には無用の長物である。津村の商品たる古書とて同じこと、津村の後にどうなるかは分からない。作者自身「それが結局、本書のテーマになってるということでしょうね。」(374頁)と言ふ。いかにも紀田順一郎らしい。さういふところが好きなんだよなと言つておかう。