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「上善如水」が飲み物としても言葉としても好きだったのだけれど、言葉としての意味は恥ずかしながらネットの知識しかなかったため読んでみた。
「孫子」が読みやすくて個人的に好相性と感じた金谷治先生による老子道徳経の上篇・下篇、全81章の解釈と解説。
構成として、各章ごとに「意訳」「読み下し」「原文」「解説」となっていたり、副題?を付けてくれているなど、初心者にも読み進めやすい工夫が随所に凝らしてある。
この人の古典解説本、親切で本当にすき。
全体の率直な感想としては「老子、水、好きだなぁ」というのと「不幸な弱者がこれ言ったからってただの強がりにしかならんでしょ」。
たまに老子自身も「これ言っても世間は誰もわかってくれない」的な恨み節を言っていて急に親近感がわく。
そして、著者の解説が上手いのか、特に下篇の後半にかけてだんだんエキサイトしてくる感じに、ひとつの物語モノで味わうようなストーリー性を感じた。
読み終えたときの達成感とか読後感が清々しい。
かいつまんで拾い読みしても得られるものは多々あるとおもうけれども、個人的には頭から終わりまでぶっとおしで読んで痛快な清々しさを感じる、というのを何回もやりたい。
これは名著。
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https://mitchsato17.wixsite.com/home/post/%E9%87%91%E8%B0%B7%E6%B2%BB%E8%91%97%E3%80%8C%E8%80%81%E5%AD%90%E3%83%BC%E7%84%A1%E7%9F%A5%E7%84%A1%E6%AC%B2%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%80%8D
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「老子」と聖書を比較すると面白い。
「これこそが理想的な「道」だといって人に示すことのできるような「道」は、一定不変の真実の「道」ではない。これこそが確かな「名」だといって言いあらわすことのできるような「名」は、一定不変の真実の「名」ではない。
「名」としてあらわせないところに真実の「名」はひそみ、そこに真実の「道」があって、それこそが、天と地の生まれ出てくる唯一の始源である。そして、天と地というように「名」としてあらわせるようになったところが、さまざまな万物の生まれ出て来る母胎である。」
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。」
ヨハネによる福音書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
創世記
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」
ベイトソンが創世の神話を比較しているのを模倣できそうな感じがする。「老子」と「ヨハネの福音書」、「創世記」は言葉から万物が生まれるという点で類似している。聖書においては「神=言葉」はほとんど「創造」そのものであるが、「老子」においては、その向こうを見出そうとしているという差異をみてとれる。「ものそれ自体を認める立場」と「認めない立場」という差異性を見てもいいかもしれない。その立場は認識をどう切り取るかという話なので、どちらが正しいとかではなく。
ガリレオは「宇宙は数学の言葉で書かれている」という言葉を残している。ソクラテスのような対話が継承され、言葉は世界であるという世界観と交われば、科学が西洋で発展したということに頷ける。
ただし、アインシュタインになるとそれはほとんど反転しているかもしれない。「この世界につ��て最も理解できないことは、それが理解可能だということだ。」
なにかまとまったことを言うには知識がない。
カッシーラーは「実体概念と関数概念」という本を記していて、それは確かプラトンからアインシュタインに至るまでの科学の言説の変化を「実体」的な概念から、「関数」のような関係の概念への変遷として捉えたものであったよう思う。あまり覚えていない。ガリレオの言葉とアインシュタインの言葉にある差異は存在の言語、神の言語としての世界の解読を行っていた科学が、世界を関係の言語によって読み解くに至った過程を示しているのかもしれない、なんて。それが正しければカルロ•ロヴェッリまでそのストーリーで直接繋がっていくわけであるが、そこまで、一貫した何かが、果たしてあるのかどうか。
「まこと、有ると無いとは、たがいに有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難しさと易しさとも、たがいに相手があってこそ成り立ち、長いと短いとも、たがいに相手があることによってはっきりし、高いと低いともたがいに相手があることによって傾斜ができ、楽器の音色と人の肉声とは、たがいに相手があることで調和しあい、前と後とも、たがいに相手によって順序づけられている。」
「故に有と無と相い生じ、難と易と相い成り、長と短と相い形われ、高と下と相い傾き、音と声相い和し、前と後と相い随う。
是を以て聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行なう。」
この「老子」の言葉にはある項が他の項との差異性においてそうであることが書かれており、そして「聖人」がそれらに惑わされない、「ものそれ自体」のような位置にとどまりつづけることが示されているのではないだろうか。
ソシュールの言語学との類似性を見てもいいし、自分の作った比較尺度の話ともかなりの類似性を持っている。禅宗は道教との交流が多く、その禅について学んだベイトソンを読んで禅について考えるようになった自分が、「老子」の言葉に類似していくのは何かあるかもしれない。
「老子」の言葉は奇妙に思う。自分が練りに練ってたどり着いた場所に近いところに頻繁に言及しているが、そこに至るまでの論証過程がなく、答えだけがあるように見える。答えしか示さないのはあまり教育上よくない。その点対話篇が残っているソクラテスや哲学の過程は優れている。論証過程があまりないから、むしろ複数人の非常に優れた知恵者が残してきた伝承や言い伝えに近いような気がする。知識の形態がなにか違うのかもしれない。道を探求してきた知恵者の身体や習慣の中に刻まれているのかもしれない。
自分が比較尺度の話に思い至るに至ったのはシャノンの情報理論、ベイトソンの情報の定義、ノイマンのいう影の社会、ソシュールの言語学や柄谷行人の可能世界論などの近代以後の論者の多くの手がかりから考えていたにも関わらず、それと類似したものを古代に閃いていたということに驚きを禁じえない。神秘。
「慈なるが故に能く勇」という言葉には感銘を受けた。訳者の解釈とは少し違うが、自分はこう思った。多分、「慈しみ」を持っていること自体が「勇」そのものなのだと。相手を倒そうと「戦う者」はその相手に打ちのめされることを恐れている。あるいは相手に何かを奪われ、失うことを。しかし、たとい相手が自らよりも強大で敵意を持っている場合でも、そのものに対して恐れからでなく「慈しみ」を分け与えることができるものは「戦う者」よりも遥かに「勇」を持っていると言わざるを得ない。その者は相手もその暴力も、何かを失うことも、自らの死も恐れていないのだから。そして、その命がけの跳躍に成功したならば、確かに「敵」を打倒できるであろうし、それは「争い」への勝利であり、そこにはただ平和だけが残るであろう。
ただし、これはほとんど「人間」にできることではない。それができるのは神性を帯びた「聖人」のみであろう。多分、それは「福音」の最も崇高ななにかの一つでもあるのだと思う。
ウクライナでは争いが起こっている。自分にはその争いは否定することはできない。自分自身、聖人になんてなれやしない。ただ、それでも最も勇敢な者は争う者ではなく、慈しみを持っている者だということを信じて、それに近いものに満ちあふれた世界作ることを夢見ていたい。
なぜこんなことを書くのか本当に意味がわからないのだが、思いついたことを記しておく。
分断する世界でも、我々は「共通の利益」を持っていないわけではない。米国と中国がどれだけ対立しても、①「第3次世界大戦」、「核戦争」の勃発、ひいてはそれを連鎖的に誘発する紛争の発生、あるいは②環境問題による人類、地球上に生けとし生けるすべての生物の現在と未来の住環境の毀損、それらを避けることは「共通の利益」であろう。
それは米中間のみならず、すべての国家、地球上のすべての生物の利益に当たるはずだ。米中ほどの大国、さらには、西洋、日本、韓国と中国の衝突が起こればいずれの側にも多数の犠牲が出ることは目に見えている。
まずは、以上の2点がいかに世界が分断しても、存在し続ける「共通の利益」であることを確認した上で、西側と東側が双方「調和をもたらす自由」と「総体から見られた真実」を尊重して、一昼夜で問題を解決するのではなく、根気強く対話を進めれば軍事的な衝突を避けることはできないだろうか。
紛らわしいレトリックや表現を弄んでいる自分が言うのもどうなのだろうという感じである。一応はあくまで、メタファーやらなんやらを用いただけであって嘘をついたわけではないと思っているのだが、まあ、そんなことはどうでもいいだろう。ただ、自身の言説における真理の探究という点で妥協をしたおぼえはないから、残しておきたい。
いつも通りのいい加減なお話。
正直なところ、自分が考えるべきでない、考えたいとも思わない、現代の時勢についてあれこれ考えすぎてしまった。向いてもいない、知りもしないことに注意を向けてどうも道を誤ってしまったようだ。
自分のこれからの本当の仕事はプラットフォームは少なくとも10年〜、思想やら社会の仕組みやらは200~300年単位の仕事であるはずだ。未だに誰からも何のコメントもメールもないから、最初で最後かもしれないが、心意気だけはそのつもりでやっていこう。何か見られているような気はするけど、それに反応するとまた病院行きだ。ただの自意��過剰であり、自分は何も見ていない。
これから諸々のことに集中するために、この読書録は次とその次で終わりにする。
「老子」は文句なしの星5つ!繰り返し読んで人生の道標にしたい。素晴らしい読書体験だった。
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老子
無知無欲のすすめ
著:金谷 治
紙版
講談社学術文庫 1278
関西将棋会館の対局室に掲げられる四永世名人の掛け軸が、老子からのものだと知って不思議な思いがした。
人法地 地法天 天法道 道法自然 (25章)
人は地にのっとり、地は、天にのっとり、天は、道にのっとり、道は自然にのっとる
天法道 十四世名人 木村義雄
地法天 十五世名人 大山康晴
人法地 十六世名人 中原誠
道法自然 十七世名人 谷川浩司
本書では、25章は、万物の根本であり始源である「道」を説く章 とある
将棋というものを、道としてとらえているのか、将棋の無限の変化を、混沌とした世界ととたえているのか、
老子にも、将棋にも、くわしくない自分ではわからない。
とにかく、老子というものに興味をもったのが、この、関西将棋会館のエピソードがきっかけであった。
■儒家と道家
儒教は孔子:論語+孟子で、王者の学問、国家という人工物を扱う思想
道教は老聃(ろうたん):老子+荘子(そうじ)で世捨て人の学問、自然に帰れという思想
儒教という堅苦しく表向きに正統的な思想であるに対して、老荘の思想は、その裏面を支えるものであったという
老子を貫くものは、道、自然無為、そして、水のたとえである。
論語などと比べると、リズムがよい。韻を踏んだり、上記、天法道のような流れる表現。そして、老子には、皮肉にも、逆接的な表現が多いのである。
老子道徳経というが、道徳を説いたものではない、上下に分かれていて 上篇の初めに道を解説、下篇の初めに徳の解説があるのでそうよばれているのである
作者、老聃(ろうたん)にしても、孔子ほどにはわかっていない。手がかりは、司馬遷の史記にある、「老子伝」である。
史記が、「老子伝」を書くころには、伝承はあいまいになっていたようで、すでにいくつかの伝承があるようである。
気になったのは、以下です。
■上篇
1 道の道とすべきは、常の道に非ず
これこそが、理想的な道だといって人に示すことのできるような道は、一定不変の真実の道ではない
(いきなり、冒頭から逆説で始まる。儒教の説く道は、道ではないといっているのである、これが道教といわれるゆえんである)
3 賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ
為政者が才能すぐれたものをとくに尊重するということをやめれば、人民が競争に熱をあげたりはしなくなる
(理想の政治)
5 天地は仁ならず
天地の造化のはたらきは、塵埃の徳があるわけではない
(非情は、自然無心なはたらきである)
7 天は長く地は久し
天は永遠であり、地は久遠である
(天長地久:天皇の誕生日は天長節、皇后の誕生日は地久節といった。皇室にも、老子が及んでいる)
8 上善は水のごとし
最高のまことの善とは、水のはたらきのようなものである
(老子では、水のたとえが多い)
18 大道廃(すたれて)仁義有り
すぐれた真実の道が衰えて、そこで仁愛と正義を徳として強調することが始まった
23 曲なれば即ち全(まった)し
曲がりくねった樹のように役たたずでいれば、身を全うできる
32 道は常に無名なり
真実の道は本来いつも無名であり、名としては表せないものである
33 人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり、人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は、強し
他人のことがよくわかるのは知恵のはたらきであるが、自分で自分のことがよくわかるおは、さらにすぐれた明智である
他人に打ち勝つのは力があるからだが、自分に自分で打ち勝つのは、ほんとうの強さである
■下篇
45 大成は欠くるが若(ごと)く、其の用は弊(すた)れず
ほんとうに完全なものは、欠けたところがあるかのようであって、そのはたらきはいつまでも衰えることがない
(道の無限であることをいっている)
48 学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損ず
学問を収めていると、その知識は一日一日とふえてくるが、道を修めていると、その知識は減っていく
(知識はいらなくて、無為の極限には、無為のままですべてのことをりっぱになしとげることができるようになる)
53 我れをして、介然として知有らしめば、大道を行くに、ただ、ななめなるを是れ畏れん。
もしわたしに、ほんの少しでも世間的な知恵があるなら、大きな道を歩くときにその知恵に惹かれて脇道にそれることこそ畏れるだろう
(道教という大きな道をあるいていけといっています)
55 物は壮なれば即ち老ゆ、是れを不道という
ものごとは強壮であれば、あるほど、むりをして、老衰へと落ち込む。これこそ道に従わないということだ
56 知る者は言わず、言う者は知らず
ほんとうに分かっている人はしゃべらない、よくしゃべる人はわかっていない
60 大国を治むるは、小鮮を烹るが若(ごと)し
大きな国を治めるのは、小魚を煮るようにかきまわさず、静かに無為であるのがよい
63 無為を為し、無事を事とし、無味を味わう
何もしないことをわがふるまいとし、かくべつの事もないのをわが仕事とし、味のないものをお味わってゆく
65 古えの善く為す者は、以て民を明らかにするに非ず、将(まさ)に以てこれを愚かにせんとする
道をりっぱに修めきったむかしの人は、それにひょって人民を聡明にしたのではなく、逆に人民を愚直にしようとしたのであった
68 善く士たる者は武ならず、善く戦う者は怒らず
りっぱな武士というものはたけだけしくない、すぐれた戦士は怒りをみせない
78 天下水より柔弱なるはなし
世界中に水より以上に柔らかで弱弱しいものはない
81 信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は禅ならず。知る者は博(ひろ)からず、博(ひろ)き者は知らず
実のある言葉は飾り気がなく、飾り立てたことばに���実がない。りっぱな人物は口上手ではなく、口のうまい人はりっぱではない。ほんとうの知者は博学ではなく博学な者はほんとうの知者ではない
目次
学術文庫版まえがき
凡例
老子道徳経 上篇 1~37章
老子道徳経 下篇 38~81章
解説
1 儒家と道家
2 老子の思想
3 老子という人
4 「老子」という書物
5 テクスト・注釈書・参考書
索引
ISBN:9784061592780
出版社:講談社
判型:文庫
ページ数:284ページ
定価:1110円(本体)
発行年月日:1997年04月
発売日:1997年04月10日第1刷
発売日:2003年02月20日第16刷