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人文系の知見もなければアカデミック畑でもないただの素人が読むにはいささか冗長だし情報量がエグくて脳が破裂しかけるけど面白かった!通読して良かった。
コムギの奴隷であるホモサピエンス、というような人類史のビッグストーリーに新たな視点を提供する、というライト目な縦軸でも面白く読めるし、それだけではないのでいろんな人に読んでほしいなと思います。
個人的にはあとがきの熱量もとても良かった。
鈍器本なのでKindleおすすめ。
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本文だけで二段組約600頁の大著、しかもその内容が帯によれば、「考古学、人類学の画期的研究成果に基づく新・真・世界史!」というのだから凄い。
人類史20万年で分かっていることはごくわずか。しかし現実にはルソーの『人間不平等起源論』かホッブスの『リヴァイアサン』で示された発想の二者択一で、それをアップデートしたものが語られているに過ぎないと著者たちは言う。例えば、農耕の発明により「バンド」から「部族」へ、さらに「首長制」→国家へであったり、狩猟採集、牧畜、農業、工業といった生産様式の変化などなど。ベストセラーらとなったビッグ・ヒストリーの著者たち(自分も大変面白く読んだ)、ハラリ、ダイアモンド、ピンカー等も、これまでの常識に安住しているとして批判される。
17世紀末のアメリカ先住民の哲学者=政治家カンディアロンクによる当時のヨーロッパ社会に対する批判の紹介から始まり、トルコの前9000年頃からの遺跡ギョベクリ・テぺ、前1600年頃にアメリカの狩猟採集民により建造され、商品文化の痕跡のないポヴァティ・ポイント、前100年頃から後600年頃まで存続し、多くの絵画芸術が残り、また居住用アパートメントが作られたメソアメリカのテオティワカンなど、これまで聞いたことのない考古学的遺跡から分かってきたこと、また素朴で単純な未開人といったものではなく、高度な政治や外交が行われ、また”所有”に関する考え方がそもそもローマ法やロック流のものではない別の在り方があったことが明らかにされていく。
これまで常識とされてきた社会の拡大、国家の成立、支配と被支配といったことに関して、別の人間社会の在り方があったことを最新の証拠によって明らかにするとともに、今後もあり得ることを著者たちは強く主張する。訳の功績でもあろうが、著者たちの主張は明晰で論理展開は分かりやす。ただ、あまりに膨大でこれまで知らなかった情報が次から次へと出てくるので、その内容を消化するだけでも一苦労だ。しかし、既成観念を打ち壊されるのはある意味快感である。
40ページ以上の訳者あとがきがあるのも、膨大な本書のエッセンスを解説してくれるものとして、とても参考になりありがたい。
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ルソーの「人類は農業が始まって以来、戦争、国家権力、格差、金銭という悪を生み出した」と、ホッブスの「人類の原初は、孤独で貧しく、つらく残忍で短い、悲惨なものだった」の両理論の間違いを指摘して、本来の人間はどういう存在か、あるいはそれを踏まえてどんな未来を考えるべきか、を人類学と考古学のエビデンスから明かす。そしてそれは「とても遊戯的な楽しみ」に満ちた人間存在を示唆する。
第1章
ルソーとホッブスの理論は現代に生き続け、現代の社会や政治のあり方に多大なステレオタイプとなっている。
第2章
16世紀のアメリカ先住民カンディアロンクがヨーロッパに渡り、残した言葉を今までの人類史は「当時のヨーロッパ人が自己投影させて語らせている」とし、取り合わなかった。しかしかれが残した言葉は本物で、競争や金銭への執着、弱者の放置、同胞な見殺し、議論を遮る態度、女性の不自由、上下関係の卑屈、これらのヨーロッパ人の態度を批判した。
第3章
これまでの人類史が基盤としてきた「狩猟採取民は未開で未成熟」が偽りである証明をする。彼らは最初から成熟した政治アクターだった。そして「不平等の起源はなにか(例えば農耕の始まり)」という命題自体が間違っている。「人類はいかに閉塞していったのか」なのだ。
第4章
狩猟採取民の(平等)社会成立の要素として「積極的な余剰物生成の拒否」と、その拒絶として「余暇を選ぶ」を解説。
第6章
ここでは人類が「コムギの奴隷」になることをいかに拒否し、回避してきたか。そして人類史の重要なポイントとされる「農業革命」は無かったことを説明する。急激な発展ではなく、慎重に1000年以上の時間をかけて農業は世界に浸透していった。
第8章
1970年代はじめかに発見されたウクライナの「メガサイト」はメソポタミアより古い都市だった。しかし考古学では、ここを「都市」としてみなされてない。それは集権的統治の痕跡や、ヒエラルキーの痕跡が見つからないから。メガサイトはこれらの生成を意図的に防止するシステムを構築していた。著者はこの「これは都市とは言えない」を批判する。
第9章
中国殷が集権的統治の国から無政府状態になったこと。それにより逆に豊かな国になったこと。メソアメリカのテオティワカンがコンキスタドールから「王国」とは見なされなかったこと(共和制とみなされた)。そのシステムは先進的政治をおこなっていたこと。
第10章
「国家」という定義の無効。「社会が高度に複雑になれば国家が出来上がる」、「国家が出来上がれば、社会が高度に複雑になる」という基準自体がおかしいし、何にでもこれを当てはめて考える思考態度の否定。
第11章
16世紀のアメリカ先住民たちはすでに富と暴力に支配された「文明」を熟知し、そのうえでそれを拒絶し、別の文明を構築しようとした、成熟した人々だった。その時代に生きたカンディアロンクは、モンテスキューなど当時のヨーロッパの知に多大な影響を与えた。
(グレーバーの、フリーダムはドイツ語の「friend(フレンド)」から由来する。つまり自由は、友を作ること、約束を守れること、平等であること��という指摘を踏まえ)最近の日本の「孤独礼賛」の風潮は、この社会の自由とその気風の喪失と関係しているのではないか。(訳者)636
長い間、女性は兵士にむかないと考えられてきたが、近年の実験から射撃は女性のほうがむいていると解った316
前11000~9500年頃、人類は穀物の栽培を始める前、中東三日月地帯で、最初は実ではなく藁の利用を始めた。263
ただの野生植物にすぎなかったコムギは、「人間が栽培化して繁栄した」と同程度、「コムギが人間を家畜化して繁栄した」ハラリ。石を嫌えば、人に取らせ、他の植物を嫌がれば日差しの中草取りをさせ、水が欲しければあちこちから運ばせた260
ウェンダット(インディアンの集合体)にはまがい物の首長と、本物の自由がある。私たち現代人には、本物の首長と、まがい物の自由がある。147
ピンカーの理論に反して、「未開」とされる文化には不思議な魅力があるようだ。アマゾンのヤノマミ族(最も暴力的とされる)に誘拐された少女は、後に現代社会に戻ってきたが、その生活に悩み再びヤノマミに戻った。南北戦争時に疎開としてインディアンに預けられた子どもたちは、終戦後迎えに来た産みの親を拒否して、育ての親のインディアンに泣きついた。逆にインディアン部族から剥がされ、文明社会で教育の機会などを与えられたインディアンの子どもたちは、逃げ出すか、適応しようとして失敗し部族に戻った。人が「何を幸せと感じるか」の基準を設定するのは難しい23
心理学者スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』は、杜撰な人類学知識と恣意的な資料(大抵は有名な人類学ニュース)をもとにして書かれている。心理学者の思いつきエッセイのようなもの16
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ひっくり返りました。本書でも度々言及されるジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」やユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」にもびっくりしましたが、本書はひっくり返りです。副題も「人類史を根底からくつがえす」です。先ずは西洋発の啓蒙主義の象徴、ジャン=ジャック・ルソーの前にカンディアロックというアメリカ先住民のヨーロッパへの社会批判を置きます。これがひっくり返しの最初のテコの支点になります。これによって時間軸の方向性がまっすぐではなくなります。このあと次々を新しい支点が置かれていきます。人類学と考古学と両方の見地から数々の研究成果や論説が並べられ読むの、めちゃ大変でしたが、それでもわからないなりに、ひっくり返されのカタルシスが次々起こるのです。「銃・病原菌・鉄」や「サピエンス全史」を読んだ時の説得されるけど人類の運命に対して悲観的になるのではなく、これから刻まれる歴史に対して可能性めいたものを感じました。膨大な記述なのでどこを語ればいいのかわからなくなりますが読了後の訳者あとがきで、「ラフな手引き」が記載されていて脳内整理に役立ちました。その第3章の手引きで書かれている『人間は当初よりただひたすら人間だったーかくして、本書の核心をなすといが定式化される。人類の「社会的不平等の起源はなにか」ではなく、人類は「どのように停滞したのか」という問い、平等の喪失ではなく、自由の喪失の問いである。』ここをメモっておきます。そして、①移動し離脱する自由②服従しない自由③社会的関係を創造させたり変化させたりする自由、という自由のあり方が現在の問題にも迫ってきます。ここすごくポイントだと思います。読了直後のレビューでまとまりませんが、先ずはメモとして。
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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1785239865032094042?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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【はじめに】
『万物の黎明』(The Dawn of Everything)と銘打たれた本書は、考古学および人類学的な最新の知見から過去人類がどのようにして社会を形づくってきたのか、また人類の共同体の本質とは何であって、そして何でないのかを語り上げたものである。
本書は、ジャレッド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』やユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』のようなある意味ではわかりやすいビッグ・ストーリーの受容に対する批判の書であると言える。引いてはさらに遡り、ルソーやホッブスのような近代西洋哲学や社会学のルーツともなる人類の起源に関する論争についても批判するものである。そのことに著者らはずいぶんと意識的であるし、実際に本書の中でも批判的に数多く言及している。これまで語られてきたこれらのストーリーに対して、著者らは読者が喜ぶような分かりやすいストーリーを提供することはしない。古代社会については、完全にはほど遠いものの、これまでの研究によって数多くの事実が積み上げられてきており、今も積み上げられ続けている。この本はそれらの蓄積された発見に基づいた上で、複雑なものを複雑なままに理解をしようとする姿勢に貫かれている。そのため、非常に大部の本となっており、また読み進むにも苦労をしたが、それだけの価値がある本である。
【農耕革命という神話】
本書では、まず「農耕革命」という神話が解体される。農耕革命とは、『ホモ・サピエンス全史』などでも人類の歴史上の大きな節目となったものとして挙げられているもので、農耕開始によって、剰余を蓄積する可能性が生まれ、大規模な定住集団が生まれ、都市が形成され、国家が生まれる契機となったというものである。著者らは、このような単線の歴史を是としない。なぜならそれは理解しやすいストーリーかもしれないが、真実ではないからだ。それらは、「もっともらしい」ストーリーであるが、何らかの証拠に基づくものではなく、すでに聞かされた話の焼き直しであるから、すんなりと受け容れられただけなのだ。実際には、農耕は必ずしも私有財産を生んだわけではないし、身分階層や不平等を生んだわけでもなく、また不可逆的な過程ではない。農耕に適したコムギなどの植物の栽培が始まってから、完全に穀物が農耕として定着するまでにある地域では三千年もかかっている。人類はそれを慎重に適切な形で受容してきた。また、都市化が身分や官僚制度を必ずしも伴っていたわけではない。どちらかというと人類は「平等な」社会を維持することに長けていた。少なくとも永続化したヒエラルキーを持つことを避けてきたし、その構築と解体を繰り返してきたようなのだ。ここで「平等」というのは、その社会が最も重要とする価値が平等に分配されているということに誰もが納得している社会であるといったん規定している。社会的ヒエラルキーや不平等、私有財産の起源となる農耕革命、という神話の解体が本書の目的のひとつでもあった。
【自由と平等】
著者らは、人間の自由について考察を進める。近代社会は自由な社会だと言われる。一般に現代の先進国は自由な社会だと思われているが、その自由とは、経済的な条件や社会的な条件が揃えば自分の意志で何かをすることができるというものだ。果たしてそれをもって自由と言うことができるのか、昔の社会には自由がなく、近現代の歴史において自由が獲得されたという歴史観への疑問が本書が問いかけるものである。著者らは自由の定義について、三つの基本的な自由を挙げる ― 移動する自由、命令に従わない自由、社会的関係を再構成する自由 ― だ。移動するための時間や費用もなく、組織で上司の命令に背くことができないような場合、何をしても自由であると言っても、それは形式的自由であり、実質的自由を有しているとは言えない。これらは過去において十分に確保されていた時代があった。「遠方の地で歓迎されることがわかっているうえで、みずからの共同体を放棄する自由、季節に応じて社会構造のあいだを往復する自由、報復をおそれず権威に服従しない自由」が現代と違って遠い祖先にとっては自明のことであったと著者らはまた、不服従の自由についても、本当に謎なのは、首長や王、あるいは王妃がいつ登場したのかではなく、彼らを笑い飛ばすことができなくなったのはいつのなのかということなのだ。同じく 私的所有がいつ起きたのかではなく、どのようにして人間的事象の多くの局面を秩序付けることになったのが問われるべき謎として提示される。
自由に関しては、コロナ禍において行われた社会的な自由の規制が受け容れられたことが想起される。そこでは、基本的自由とされる移動の自由と命令に従わない自由が著しく制限された。哲学者のアガンベンがこれに対して激しく反応をしたが、一般的にはそれはある種のやむを得なさであり、命の代償として受け入られたし、何となれば積極的に自ら受け容れることとなった。そこに対しての反応が薄かったことは、現代社会の何らかの自由に関する側面を示しているように思えた。
第二章に置かれ、またその後も何度か言及される非西洋的思考を象徴する17世紀の北米インディアンがヨーロッパの住民と遭遇したときに示した態度から、自由と平等に重きを置き、倫理的な態度を堅持するその姿が浮かび上がる。そして、彼らの眼から見たヨーロッパの社会と住民は自由でも平等でもなかったのである。北米インディアンのウェンダックの哲人カンディアロンクの眼にはヨーロッパの特にイエズス会の思想は異常なまでに尊大で受け入れざるものであると映ったのである。北米インディアンについては、文化圏に関する議論も興味深い。北米大陸北西海岸と現カリフォルニア州太平洋側での文化の違いがなぜ発生し、継続したのかが考察されている。両者では奴隷の有無においてまず異なる。またカリフォルニア州内の集団間でも違いが生じている。その動因のひとつには、隣人に対して自らの文化を差異化することを挙げている。そこに可能性としての文化の多様性を見ることができるのである。
【近代国家と文明】
著者らは、支配の三つの原理 ― 暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ ― を措定する。
近代国家は主権、官僚制、競合的政治フィールドの組み合わせとして定義される。しかし、過去を振り返るとこの三つがそろっている必要はどこにもないことがわかる。「近代国家は、人類史のある時点でたまたま束ねられた諸要素の集合体であり��まちがいなくふたたびほどけていく過程にある」という。現代の民主主義は、大物たちの繰り広げる勝敗ゲームにすぎず、それ以外の人間はほとんど野次馬に近いと指摘する。そこには本当の意味での政治的平等性も民主主義もないのである。
支配の原理として挙げられる暴力に関して、恣意的な暴力の行使であり、恣意性こそが権力を示すものであった。マックス=ウェーバーも国家の役割とは暴力の独占である、と言っている。著者らも、国家は「例外的暴力と、表向きにはすべてがケアと献身に奉仕している複雑な社会的機械の結合」であると考える。国家の共通の特徴は、「ケアリングの衝動を抽象的なものに置き換えようとする傾向」であり、この抽象的なものこをが「国民(ネーション)」と呼ばれている。
そして、この国家はどこでも歴史の進歩の過程で生まれてきたものではないと理解されるべきである。エジプト王国とインカ帝国を国家の原初的事例として取り上げられ、「主権の原理が官僚制で武装し、テリトリーを一様に拡張することに成功したばあいになにが起こるか、その可能性を示唆している」が、これは例外的事象であったのかもしれないというのが著者らの主張だ。仔細にその考古学的史料を検証すると、メソポタミアでも、マヤでも、中国でも事情は異なっていた。
そして、近代国家と文明と呼ばれるものについて、以下のように批判する。「文明とは、世界秩序の理想であれ、飽くなき神々の祝福であれ、つねに手の届かないもののために基本的な三つの自由、そして人生そのものを犠牲にすることに等しい。... これまで「文明」と呼ばれてきたものは、実は、女性を中心とした以前の知的体系を、男性がジェンダー的に流用し、その主張を石に組み込んだものにすぎないのかもしれない」
【そうでなかった可能性について】
著者らがこの長い書物で主張していることのひとつは、別であったかもしれない種類の社会の可能性である。
「いったん出来事が起こってしまうと、なにか別のことが「起こりえた」ということすら考えがたくなってしまう。歴史には、事前に予測ができないということと、一度きりしか起こらないという性質がある。そして、現在の世界においては地球全体がひとつのグローバル・システムとなってしまったことによって、近代国家や産業資本主義が必然であったのか他の在り方があったのかを比較によってその可能性を確かめることが至極難しくなっているということなのである」
たとえばユーラシア大陸と分離されたアメリカ大陸の歴史を見てみると、農耕の発生と君主制の出現は必ずしも必然ではなかったということができるというのが著者らの主張だ。そこでは、バンドや部族から首長制などの社会の進化の定義も当てはまらない。農耕についても、いったんその技術を獲得した後でも、その必要がなければ離脱する動きも見られた。著者らは、社会の多様な可能性をここに見ている。ダイアモンドやハラリらのビッグストーリーに対する批判の射程を超えて、ここではより一般的な疑問を突きつける。つまり、今の現代社会、国家、資本主義的社会、は必然的帰結であったのか、ということである。
著者らは本書で紹介された彼らの営みを、「わたしたちの祖先に完��なる人間性を復権させる歴史学」と位置付ける。先史時代の人類の考えは極めて多様であり、またその考えはそこから一本道に進化したというようなものではなかったことを示す。人類の集団が、バンド、部族、首長制、国家という段階を取り、経済的発展と拡大を遂げてきたという考え方は否定される。過去の人類や非西洋の集団がそのロジックに決定的に当てはまらないのだ。
考えると、彼らが救い出そうとしているのは、今このようにある世界が、そうではなかったかもしれないという可能性であるように思う。著者らは、「この世界がひどくまちがってしまったのは、疑う余地がない」という。一部の人間に権力が集中し、他の人間たちの運命を支配するような世界になぜなったのかを問う。その答えを求めるための材料をこの本では語っているのだ。そう考えると、これまでの歴史は、自由と平等の喪失の歴史と捉えているように見える。なぜ、古代には保持されていた平等と自由を人類はこのように失ってしまい、それを確固なものとして受け容れるようになったのかが、著者のここで伝えておきたいこととなっているのだ。
【最後に】
本書は2023年12月時点で、kindle版・紙の書籍ともに5,500円だが、分量と質ともにその価値はあろうかと思う。共著者の一人のデイヴィッド・グレーバーは本書が刊行される直前に亡くなっている。この本を読むととても残念なことだと思わざるを得ない。『ブルシット・ジョブ』の著者としても有名だが、彼の主要作は『負債論』だと目されており、本書でも多くの参照がなされている。ぜひ、『負債論』を6,600円の価格を付けて売っている出版社(以文社)はkindle化(と、できれば値下げを)実現してほしい。
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『ブルシット・ジョブ』(デヴィッド・グレーバー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000614134
『サピエンス全史 (上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/430922671X
『サピエンス全史 (下) 』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のレビュー
http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309226728
『銃・病原菌・鉄 (上)』(ジャレド・ダイアモンド)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4794210051
『銃・病原菌・鉄 (下)』(ジャレド・ダイアモンド)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/479421006X
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暗黒時代とは、進化論の視点から現在を中心として歴史を観 察したときに現れる異分子を指している。本書は発展段階の 秩序空間に存在しえず、エラーとして意義付けされたすべて の可能性を肯定的に読み返す。すると、そこに現れるのは進 化の奴隷から開放された遊戯の人類史であった。
個人的に、千のプラトーの直後に本着を手に取れたことが僥 倖だった。歴史の境界線を反復横とびする自由な欲望の形態 が、具現的な形で理解できる。
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「よりよい問いを発しよう」という訴えがこの本の根底にはある。それは、仮に本書の問いが「不平等の起源を問う」という事であった場合、最終的な結論が「人類の本性として卑しむべき在り様に警鐘をならし、ささやかに手をくわえる」ことくらいだということがわかっているからだ。それとは異なる結論――つまり「不平等の起源など存在したなかったのではないか」ということこそが切実なる訴え本書を支えている。
人間は生まれつき凶暴な生き物であり、人類史とは始まりからいまに至るまで暴力に彩られている。であるならば「進歩」「文明」とは人間の競争を好む性質を動力としての救済となる。このようなストーリーはわかりやすく、特に億万長者からは非常に人気のある考え方だ。
だが、人類史をたどると、そういった楽観的説話には明白な欠点があることがわかってくる。それは、もしそのような西洋的な文明が”そんなにいいものなら”、なぜ自然と世界中に広がっていかなかったのかということだ。ヨーロッパの権力者たちが500年近くもかけて、頭に銃口を向けながら強制的に採用しなければいけなかったのかの説明がつかない。
つまり、あらゆる人間が、私たちが典型的に現代的なものとみなしているような高度に創造的な方法で考え行動する様式は、かつて歴史の中に実在していた。
が、それは私たちの直感に反してしまう。遠い過去の人々が、私たちが直面している不平等の問題を解決――問題とさえみなさないような洗練された社会を形成していたということはまったく直感とは異なるがゆえに容易には受け入れられない。
「ビッグ・ヒストリー」の多くは、技術革新として農耕だったり馬だったり鉄だったり虚構こそが、人類の進歩においてブレイクスルーを起こしたと記述し、そこに至るまで人間社会が取りうる形態を排除してしまう。テクノロジーが重要であることはいうまでもないが、それを過大に評価することで、抜け落ち、見過ごしている過去の社会があるのではないだろうか。
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考古学者と人類学者の共著のビッグヒストリー系なんだけど、ハラリやダイアモンドが前提としていることを否定する。
ビッグヒストリーを書いてきた思想家はルソーとホッブズとの考えの間を行ったり来たりしてきたが、どちらも真実ではない。古代の人や未開の人は我々が思っているような未熟な人ではなく我々と同様に思索する人々だった。アメリカ先住民は西洋を批判していて、ヨーロッパ人は彼らから多くのことを学んでいた。社会的不平等に起源があると考えるが、それは農耕によって不可避的にもたらされたものではない。本当に問題にすべきは社会的不平等の起源が何かではなく、どうして閉塞したかにある。人類はそれまで様々な社会組織の間を往復しヒエラルキーを築いては解体してきた。新石器時代の農耕は長い時間をかけて進化しており、革命と呼びうるものではなかった。戦国時代の小氷期がアメリカ先住民の人口減少によるものである可能性。文化は他集団との違いを強調するためのもので、これが閉塞の一つの条件。ヒエラルキーの痕跡のない都市や共同体。現代の国民国家が決して自明のものではないこと。
翻訳者も凄い、これだけ専門性高いものを読みやすく訳して。
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いい本なんだけど、どこからどこまでがグレーバーのアイデアで、どこからがウェングロウのアイデアなのかがあまりはっきりしていない印象があった。斬新な価値観、西洋中心主義への揺さぶりは、グレーバーが提唱せずとも西洋の文献には存在する。グレーバーがそのことを知らなかったはずはない。本当はもっと別の内容を、グレーバーが一人で書きたかったのかもしれない。
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学校で習った、新大陸の人達を、ヨーロッパ人が啓蒙しました的な人類史は、あくまでヨーロッパ的な視点。旧アメリカには、そうではない、ヨーロッパより、より自由な、より豊かな国家(に近い組織)がありましたよ、という本。旧アメリカ大陸では、ヨーロッパ人が来る前に、奴隷制が発生したり廃止されたりした形跡があるようなので、世界的に応用できたら、世界はもっと平和で幸せになると思いました。
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我々の不平等な社会はいつ始まったのか?という問い。これを人類史の考古学的証拠を見ていきながら、なぜ我々の社会は閉塞してしまったのか?という問いへと定義され直される。その答えへの手がかりには太古の人類を現代人と同じような人間として認識しなおし、これまでに存在した多様な社会を無視せずに包括する必要性がある。近年人気を博しているポップ人類史に対する批評であり、改めて構造主義的見地から人類史を捉え直す名著。
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やっと読み終わった、という感じ。だが、それに見合う本だった。世界の見方を変えてくれる本というのはそうそうあるものではないが、本書は自分にとってまさにそういった本の一つとなった。多分、何度か読み返してそのたびに考察のヒントを与えてくれそうな予感がする。
一般に流布している人類史の見方として、1 人間集団はその規模を拡大するにつれて複雑化するため、やがて集団を制御するための非生産階層が必要となり、その階層が集団を支配するようになる。2 規模の拡大につれて支配層が分厚くなり、ヒエラルキーの度合いが増大する。3 農業などのテクノロジーにより、規模拡大が加速し、ヒエラルキー形成が加速する、といったところがあると思うが、それらを裏付ける証拠は何もない、人類の発展はもっと多方向で自由なものであった、ということが趣旨と思われる。
人類はどうしても自分が一番可愛いものと見え、近年のビッグヒストリーに関する論説では、現在ある社会を前提としてそれをバックキャストして過去の社会を考える傾向にある。そうすると、社会は基本的に複雑化の階層を進む一直線な発展の仕方しかなく、過去のより小規模な社会は現在の社会に至る途中段階の一つという見方をされてしまい、現在を「プラスの到達点」と考えれば、過去の社会は「未開」ということになってしまう。あるいは現在を「マイナスの到達点(資本で堕落しているなど)」とすれば過去は「本来の人間性を持つ理想郷」になる。
だが現在の社会はあり得た到達点の一つにしかすぎず、過去の社会は人口の規模、農業の有無などに関係なく、自分たちにとって望ましい社会を試行錯誤しながら、時には複数の体制を行き来しながら社会を作り、壊し、移りゆきながら生きてきた、というのが本書の要点の一つと思われる。他のビッグヒストリーを扱う論評と異なり、多くの古代遺跡という物証をもってそれらが推察されている。そうだとすれば、現代社会のなんと画一的で非人間的なことか。「民主主義は最悪の政治形態である。これまでに存在したすべての政体を除いたとすれば」などと得々としていながら、実際には多くの可能性を自ら捨て去って「閉塞」していたわけだ。
思うに、これまでのような現代社会を「到達点」とみなす考え方は、自分可愛さということもあるが、キリスト教の影響(すなわち、西洋的な思考)も大きいのではないか。本書でもそのような感触の記載はあるが、一神教で神から選ばれた人類が世界の最高到達点である、という考えに立つと、それ以外の生物、および神に祝福されていない人類は、どうしても一直線のゴールに向かう途中段階とみなされるようになる。最高到達点の神に認められた人類からすれば、まさに「下等」というわけだ。予定説に従えばさらにその傾向は強まるはずで、意識しようとそうでなかろうと、神を頂点にする神聖さのヒエラルキー、という見方が強く影響した西洋文明が支配的になると、そうした歴史の見方に偏るのも無理はないと思う。
過去の人類が、規模や技術発展に関係なく、ヒエラルキーによらない相互扶助的で男女同権的な社会を築けていたとしたら、なぜ人類はそれ���捨ててしまったのか。本書の範囲内ではまだ明確な結論は得られていない(これからの研究に待たなければならない)が、行き過ぎたケアリングが権力と結びつくなどのいくつかの可能性が示唆されており、考察しがいがある。
個人的には、人間が思考のリソースを節約する傾向を持つことも関連しないか、と思っている。社会の規模が大きくなりつつも自分で社会と積極的にかかわって社会を運営していくことが必要だと、どうしても考えるべきところが多くなり、思考が大変になる。そうしたときに、何かの理由で大規模な計画に大勢を動員するようなことが起こると、「誰かの指示に従うことによる思考リソースの節約」に味を占めるものも出てくるのではないか。いったんそれが定着すると、支配者と被支配者が共依存の関係になり固定化が進む、ということもあるように思う。
ちなみに個人的にはハラリ氏やダイアモンド氏の著作が大好きなので、彼らの論説がポップ人類史扱いされているのは少し悲しいが、それもやむなしと思うほどの圧倒的な説得力であった。
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挑戦的な書。
なぜわたしたちは単一のありように帰着してしまったのか?
閉塞を打破する視点の転換。変化の可能性。
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ひとことで言えば「ビッグ・ヒストリー」への疑問、アンチの超大作だが、ハラリやダイアモンド、ピンカーなどをポップ人類史と徹底的に批判しているのが興味深い。
遊戯農耕とシリアス農耕というコンセプトも大変面白い。わかりやすく直線的に語ることの弊害にも気付かされる。
膨大で熱のこもった訳者あとがきもあるので、先にここから読んで全体の見取り図とするのも良いと感じた。