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ナボコフの項のみ、よく参照されるので、チェック。
?。何Elphinstoneは確かに不思議な雰囲気だが、床屋の息子が実は昔に亡くなっていた、なんていう仕掛けは、他にも沢山ありましょうし。殊更取り上げるほどのことでしょうか?ぐじぐじと良く読んでいる風なのは面白いけれど。ただ、ロリータは全体としては、そういう、「ドロレスちゃん大変だったのね」とあとから気付く点があるので、総体としてそういうことを言いたいのかな、と汲んであげれば、まあいいかと思う。そういうことを言いたいのか?
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なんの因果か、原書は1989年に出版されたもの。
ある意味で、ソシュール学者の丸山圭三郎やフロイト学者の岸田秀と、モチーフを同じくしているところもある。
その意味で世界的な同時代性を彼らの思考に見ることもできよう。
ローティーが突出しているのは、おおむね、丸山や岸田がモティーフの提示を中心にすえたのに対して、そこから広がる世界の可能性を中心的に論じて見せたところにあるように思う。
スリリングで刺激的な一冊
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[ 内容 ]
人間の連帯は、真理の哲学的な探求によっては不可能である。
他者が被る残酷さに対する私たちの感性を拡張することによって、連帯は達成されるのだ。
20世紀後半を代表する哲学者が、ありうべき社会はいかに構想されるかという課題を、永遠に自由を実現してゆく終わりなき過程である「リベラル・ユートピア」として描き直す。
世界中に大きなセンセーションを巻き起こした「哲学と自然の鏡」の政治哲学的帰結―衝撃の問題作。
[ 目次 ]
第1部 偶然性(言語の偶然性;自己の偶然性;リベラルな共同体の偶然性)
第2部 アイロニズムと理論(私的なアイロニーとリベラルな希望;自己創造と自己を超えたものへのつながり―プルースト、ニーチェ、ハイデガー;アイロニストの理論から私的な引喩へ―デリダ)
第3部 残酷さと連帯(カスビームの床屋―残酷さを論じるナボコフ;ヨーロッパ最後の知識人―残酷さを論じるオーウェル;連帯)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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wired・近代と社会・7位
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【要約】
・
【ノート】
「リベラル・アイロニスト」という立ち位置から、新たなリベラリズムの地平を目指したアメリカの哲学者は、本書で現代において人間の連帯がいかに可能かを指し示す。
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前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。
リベラルユートピアに必要なことは
アイロニーによる私的な領域と
残酷さへの意識という公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。
本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、
残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。
わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。
ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。
アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。
プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。
『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。
このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。
整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。
このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。
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やべ〜、『資本論』ぶりに全然頭に入ってこないし何言ってるかわかんない←哲学に造詣深くないので最初は苦戦したけど読み通していくうちに言いたいことはなんとなくわかってきた
第三部に入ってから読みやすくなった…ような気がする。文芸批評的趣きが強いからかな。ナボコフやオーウェル批評としても興味深いのでこの機に『一九八四年』読み返したり『ロリータ』『青白い炎』読みたくなった
『一九八四年』の拷問についての解説読んでると韓国の小説『生姜』思い出す
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https://www.iwanami.co.jp/book/b260939.html
https://1000ya.isis.ne.jp/1350.html
https://ameblo.jp/yasuryokei/entry-12838972663.html
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NHK100分で名著で放送している本である。非常に読みにくく内容が頭にすっとは入ってこない。本で読むよりも放送で聞いた方がよくわかる。原文が難しすぎるのか、あるいは翻訳との相性が悪いのかよくわからない。
学生にもどうやってすすめていいかよくわからない。
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我々の価値観や人間性の定義などの絶対的であると案じられるものは、歴史の中の「偶然性」によって獲得された相対的なものである。リベラリストは 自らのアイデンティティの基底を為す終極の語彙に関して常に疑いの眼差しを向ける「アイロニスト」であるべきである。我々の「連帯」を為す唯一の根源は「残酷さを減らすこと」であり、その内部には哲学が探究してきた真の価値などはなく、我々の範囲を拡大するために外部に積み上げてゆくものである。哲学の概念自体を大きく転換させる21世紀にも読まれづけてゆくべき名著。
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プラグマティズム→ポスト構造主義→ポストプラグマティズムの流れをなんとなく理解した。ポストプラグマティズムの次はなんだろう……ここから確率論のベイズに繋がると歴史を勝手に予測してる
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本書は、公共的な正義・連帯と私的な自己創造を、包括的な哲学観や思想・理論によって統一しようとする「単一の語彙」の放棄を主張する。真理は存在せず、言語・自己・道徳観は、歴史的な「偶然性」により生じた一時的な産物にすぎない。ある時点の語彙を常に疑い、自身の行為が他者に与え得る残酷さを自覚する「リベラル・アイロニスト」像が提起される。「残酷さ」こそが人間の共通項であり、人間同士の紐帯を生み出し得る。これは、詩的・文学的な営みにより涵養される。以上が本書の概要である。
著者の主張にはいくつかの難点があると考える。まず、「真理の放棄」は相対主義的であり、「リベラル・アイロニスト」像はブルジョワ的かつ自文化中心主義的である。「偶然性」の称揚は、至った結論や権力の正当性を認める根拠にもなり得るため、全体主義やマキャベリズムをも容認しかねない。また、彼の自文化主義的・エスノセントリズム的な立場からは、「リベラル・アイロニスト」が詩的・文学的な営みを通じてエンパシー能力をいくら高めたとて、そこから想像される「残酷さ」は狭い射程に留まるだろう。さらに、道徳観や信仰のみならず、真理の探求可能性や科学的技法までもを軽視・放棄してしまうことは、人類の連帯をむしろ遠ざけるようにも思われる。
しかしながら、「単一の語彙」の放棄は、異なる信念・思想を持つ共同体や個人が会話を継続するためには重要である。ここで、ロバート・ブランダムなどに代表される意味論的推論主義が持つ合理的合意形成の可能性を連帯へのオルタナティブとして挙げたい。会話の継続による意味形成によって、異なる価値観や信念を持ちながらもより広範囲の連帯が実現し得るのではないだろうか。