投稿元:
レビューを見る
今まで親ガチャという言葉に共感する気持ちと、否定したくなる気持ちと両方ありましたが、この本で両方の気持ちがあっていいと思えました。人によっては親ガチャと言いたくなるのは当然である。だけど全てを親ガチャだからで終結させてしまっては己の境遇を己で変えようとも、変えられるとも思えなくなってしまう。
反出生主義に進撃の巨人のジーク、優生思想にポケモンのミュウツーが挙げられていたのが分かりやすかった。
優生思想に遺伝子操作が挙げられていて、遺伝子操作で力を得ることは結果良い悪いに関わらず、その力は操作した側に責任があり操作された側に責任はない。そのため操作された側は自分の人生に自分で責任を持つことができなくなり、自分の人生を生きられない。という話が納得したし面白かった。
厭世的思考に寄り添う物語や音楽が増え、SNSでも世の中に対して悲観的な声が多く集まっていますが、そうならざるを得ないほど人々の孤独が深まっているのだと思います。解決策は自己肯定感を得ること、自分で自分を引き受ける責任を持つこと。人と話し受容されることとあります。その為にはまず社会的な援助や繋がりが必要だと。それが今の世の中難しく、またたやすく手に入るか入らないかは【親ガチャ】に左右されやすい。でも本当に人生、それからなんですよね。
投稿元:
レビューを見る
責任は「私」が「私」であることを引き受けること。他者との連帯、対話があって初めて自分自身に向き合うことができ、自分の人生を引き受けることができる。
親ガチャ的厭世観を乗り越えるために求められるのは、なによりもまず、社会における対話の場の創出である。
投稿元:
レビューを見る
ただ親ガチャというワードに惹かれ、中身はよくわからないまま読み始めた。
親ガチャというマイナスイメージを払拭するために哲学的な解を求めていく。哲学の素人である私にとっては非常に難解に感じたが、固い煎餅をゆっくりと噛み砕いて飲み込むイメージで読み進めると、なんとか理解できて最後まで読むことができた。最後の方は、繰り返して主張が書いてあり、筆者の意図するところが理解できた。哲学については、なんでこんなことを深く考えるのだろうと思っていたが、語彙力や想像力を高め、表現できる世界を広げ、人間の思考力をつける尊い学問なんだと思えた。
投稿元:
レビューを見る
運VS努力:親ガチャ的厭世観 自己責任論は誤謬 親ガチャとは:絶望感 宿命論 居場所 本人次第=相対主義的 初期設定の違い是正 社会の連帯 無敵の人:自暴自棄型犯罪 無力感→責任↓ 反出生主義:ベネター・ロシアンルーレット ポリアンナ効果 ゲノム編集:責任と人生の物語 決定論と責任:宇宙の誕生の瞬間 スピノザ・飛ぶ石の比喩 サバイバーズ・ギルト 決意性 親ガチャを越えて:シモーヌヴェイユ・工場日記 中間共同体の喪失 システムへの過剰依存 無知のヴェール 自己肯定感:出出性 現われの空間 赦しと約束の力
投稿元:
レビューを見る
どうやって親ガチャ的厭世観を回避するかが語られる。個人的には反出生主義の幼稚さ、論理性の無さが改めて確認できていささかゲンナリさせられた。結論は色々と回り回って♪私以外私じゃないの〜との「自己肯定感」を対話を通じて持てるようにする、てな話に落ち着くんだが、まぁ結論の好みは分かれるところかもしれない。自分としては、親ガチャ的厭世観とはそもそも対話を持とうとするようなモチベーションさえ無い状態だろうから、そこはちょっと難しいんじゃないかと感じる。
結論へ至る過程でぐるぐる回る議論を眺めるのもこの手の本の趣旨だろうし、興味のある方はぜひ。
投稿元:
レビューを見る
読んだきっかけ
・「親ガチャ」という言葉が話題になり、2021年の流行語大賞トップテンに入ったことが気になっていた。
・2023年度の大学入学倫理の共通テストの出題
・秋葉原殺傷事件の加藤死刑囚のような“無敵の人”のキーワードがあったこと
・目次に『ポケットモンスター』や『進撃の巨人』『ONE PIECE』といった話題のコンテンツを基に、「親ガチャ」「反出生主義」「遺伝子操作」など、生まれの偶然性にまつわるテーマを掲げていたので、わかりやすいのでは?
・菅前総理が「自助、共助、公助、そして絆」といったとき、コロナ禍の混乱期にあり、批判があった。この言葉は別に悪くはないのだが、「自助」で頑張っているのに、「共助」「公助」の仕組みが整っていないではないかと。自己責任論が全面的に押しだされ、よりこの言葉が苦しみの意味で浸透してしまったのかと思った。
政治家がいう言葉のタイミング、政策などいろんな難しい状況があると思うのだが、ただ、「親ガチャ」の言葉を考えると、今この苦しみからなんとかしてほしい、と叫びをあげている人に視点を持てる社会でなければならない、虐待や貧困など自分ではどうすることも出来ない環境にいる子供たちが「もっと良い家庭に……」と考えることは、非常に当たり前のこととだからこそ読んでみようと思った。
・親ガチャ的思考を乗り越え、「自分の人生を自分のものとして引き受ける」この言葉にひかれた。
<内容から>
「親ガチャ的厭世観」とは意志と選択の能力を否定する人間観
社会において「親ガチャ的厭世観」で苦しむ人が救われるためには、傾聴や対話の場があることが重要だと説く。
「親ガチャ的厭世観」を持って苦しんでいる人々は、自分自身と向き合うことすらできないほど力を奪われているし、傷つけられている。自分自身を引き受けるためには、むしろ他者とのかかわり、自分の言葉を受け止めてくれる誰かがいるという信頼が必要である。「責任の分担」という幻想があることが重要。それが人を孤独から守る。切迫した時間を緩めてくれる。そういうつながりの中ではじめて、逆に責任を取れる。
残念ながら、現代社会では地縁や血縁に根ざした伝統的でクローズドな地域コミュニティの喪失が、傾聴をしてくれる他者の喪失につながっているとしている。
ローティの「連帯」やアーレントの「現われの空間」を援用して、連帯の必要性を説き、「新しい中間共同体」の必要性として、哲学対話の場を用いたコミュニティの可能性、「対話の場の創出」を提案していた。
ただ、内にこもった時間的、経済的余裕がないと参加できないのでは?
情報弱者や孤独に陥っている人にどう手を差し伸べることができるのかということ。
課題は残る。
「私」がそこにいてもいいと思える場所。
「私」が他者とともにそこに帰属することが許される場所。
他者ととともに居場所を持つことで、はじめて自己像を健全な仕方で作り上げることができる。
学校をはじめ、図書館など公的機関でのそういった「居場所」としての機能性がもっと柔軟に求められるし、実際活動しているところも増えている。
・対��の中で相手の言葉を聴くこと。何より言語化することの重要性をあらためて確認。
・ケア=傾聴には共同体が必要で、人為的に対話の場を創出すること。
・もっとも弱い立場の人から社会を考えること。
・連帯を実現するために不可欠なのは想像力
ブクログで感想を書く、その行為も私にとっては言語化することである意味ケアしてもらっているのだなあと思いながら読み終えた。
<本文で気になった個所>
・「親ガチャ的厭世観」意志と選択の能力を否定する人間観
p.15
・「不運であり、苦境に陥った人が、自分の置かれている状況を、あるいはその人生を理解するための概念である」(と捉える。
pp.15-6
・「この言葉が流行する背景には、そう考えでもしないと生きていくことさえままならないような、苦境に陥っている人々が存在する」
p.180
・「自分の言葉が他者に届いているという感覚……は、苦境に陥っている人に不思議な力を与える」
p.181
「自分の人生を引き受けるために、私たちは他者に耳を傾けてもらう、そうしたケアをしてもらうことを必要とする」
P.220
「私たちは、自分のできる場所で、自分のできる範囲で、他者と対話する機会を、この世に創り出していくべきです。……誰かに話すことが許されること、誰かが自分の話を聴いてくれることを信じられること──それが、現代社会のニヒリズムへの、根本的な抵抗」
投稿元:
レビューを見る
対話すること、話を聴いてもらう、話を聴く、簡単なようで難しい。だけど、自分の人生を引き受けるためには、自己肯定感を高めるためには、とても重要なこと。
投稿元:
レビューを見る
親ガチャというキャッチーなところから入って自己や他者について考えられてよかった。親ガチャ的厭世観が一種の逃げというか防衛本能というか。
投稿元:
レビューを見る
親ガチャ的厭世観が現代日本社会で流行したのは、苦境に陥った人々が、自らの苦しみへの対処として選び取られたからではないか、というところから考察が始まる。
一時の安らぎはあるだろう。しかしどんなに努力しても希望はない、という絶望から救われることがない。
▶︎子どもが親に「生んでくれなんて頼んでない」「生まれたくて生まれたのではない」と言う時、子どもは傷つき、自分の力ではどうにもならない苦しみを抱えている
このことに思い至らなかった。自分の力ではどうにもならない苦しみに自暴自棄になっていたのか。
私は今までも、今でも反出生主義に魅力を感じてしまう。
でもそれは、生まれてしまったからには、こう生きねばならない、こうあらねばならない、というmust思考と、現実との乖離が自分の力ではどうにもならなかったからだろうと思う。
筆者は自己責任論を否定しながらも、個人が幸福に生きるためには自分を引き受けることも必要だと説く。
「私」が「私」であることの責任を引き受けられるようになるにはどうしたらよいか、ハイデガーから展開する「自由意志を前提としない責任」を理解すること、アーレントの「現れの空間」の必要性を論じる。
私も反出生主義に魅力を感じながらも、自分を引き受けたくて、でも引き受け方が分からなかった。
すべては偶然と説いた九鬼に立ち返りたい。
対話の場がもっとあればいいのに。
投稿元:
レビューを見る
『親ガチャの哲学』
2024年5月23日読了
昨今よく聞くようになった「親ガチャ」という言葉。
「子どもは親を選べず、親によって子の人生が変わること」を端的に示した言葉である。この言葉は俗にいう「ハズレ」を引いた人が使用することが多く、本書の中でこの概念は悲観的とも厭世的ともされる。
本書は「現代社会は親ガチャ的厭世感に覆われている」ということを出発点とし、「無敵の人」や「反出生主義」などのキーワードに思考を膨らませながら進んでいく。『ワンピース』や『進撃の巨人』といった人気漫画やポケモンなど、具体的に想像しやすい例えを用いながら話が進むので、大変わかりやすく一気に読むことができた。
本書がおもしろいのは、「あなたが苦しんでいるのは、あなたの努力が足りなかったから」などという安易な「自己責任論」を持ち込まない点だ。苦境に陥り思考停止せざるを得ない人、自分自身から逃避しなければならない人が、どうしたら自分の生を引き受けられるかを、主にハイデガーの思想を用いて以下のように述べている。
「私」が「私」であることは、誰のせいにもできないのです。だからこそ、私たちは思うままにならない人生であっても、その人生が自分のものだと思うことができる。
(中略)このように自分自身を引き受けることの真価は、自分の人生をよりよいものにしようと配慮すること、自分を尊重しようとする態度を可能にする、という点にあるのではないでしょうか。
「自分の人生を引き受ける」とは、「自分を知り、自分の幸福を追い求める」ということだと思う。
SNSが急速に発展した現代。他者と自分の人生を容易に比較できるようになってしまった。だからこそ、わかりやすい成功への諦めがつかなくなり、自分が思い描く幸福を追うことが難しくなったのではないだろうか。だれかと同じ成功を求めすぎるがために、自分の幸福がわからなくなってしまい、だれかの成功とは程遠い自分の人生を、引き受けらなくなっているのかもしれない。
また本書では、自分自身と向き合うためには、他者との対話が必要と説く。私たちは誰かが自分のことを受け止めてくれるという信頼感の中で、はじめて自分と向き合えるとしている。
やはり「誰のせいにもできない人生」を歩むというのは、不安で恐ろしいことだと思う。だからこそ一時であっても自分の話を聞いてくれる(=自分の存在を認めてくれる)他者や共同体の存在は心強い。ここでは現代における実例として「哲学カフェ」が上がっていた。つながりの少ない現代社会において、なにかしらの共同体に(一時的でもいいから)属し、話を聞いてもらうというのは、今を生きていくコツなのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
漫画から哲学まで分かりやすく、書かれていて読みやすかった
親ガチャ的厭世観は誰かが聴いてくれず孤立している時に生まれてくる。誰かのせいにするのは簡単だが、そのように思ってる人に寄り添わず、無視してはいけない。
辛い気持ちを持ってる人に対してひとりではないことを話し合える機会や場所がより増えていけば、親ガチャ的厭世観はなくなっていくと思った。
投稿元:
レビューを見る
親ガチャの厭世観と、責任や自己肯定感、対話などを哲学の視点から検討するという内容。
さらりと書いてあるが、それぞれが深い
投稿元:
レビューを見る
親ガチャの関して様々な議論をまとめた本書には、哲学的な示唆に富む考察がふんだんに出てくるが、一般の人間にとって哲学的なことを考察するチャンスは非常に少ないと感じている.自分の責任と他者との関わりの中で生きていく人間が連帯を確立していくことで一つの解決策を見出して行けると提案している部分が気になった.p201: すでの存在している<われわれ>へと帰属させるのではなく、人々がすでに所属している<われわれ>のなかに、それまで<われわれ>ではなかった人々を含めていく、そうして<われわれ>ではなかった人々を含めていく、そうして<われわれ>の外縁を拡張していく.
投稿元:
レビューを見る
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO82255310T20C24A7CE0000/
投稿元:
レビューを見る
親ガチャというある意味ネットスラングとして用いられている言葉をキーワードとして様々な近代的な事象を紐解いていく、かなり易しい哲学書だと思いました。
人には思想や価値観が人それぞれに有していて、それを否定することは許されない。
自分の価値観が絶対に正しい、別の価値観は間違っているから否定してよいという態度を「残酷さ」という。
もちろん間違ってる価値観はあるかもしれないがこの態度という言葉に着目すると、揺るぎない確信さえあれば何を否定しても構わないと読み取りました。
自身の価値観も他人の価値観と同じように揺らぐものだと認識し、対話をするということが親ガチャ的厭世観を持つ彼らを救う唯一の方法ではないのでしょうか。
対話とは私が私であるという感覚、つまり自己肯定感を意識できる方法だと紹介していたと思います。
自己を肯定するとは何か、例えてみるとすれば「計算が苦手な自分」「身長が低い自分」「足が速い自分」など自分という存在を認識して受け入れることと私は理解しました。
自己肯定感感というものは何か他人と比べて優れていたり、劣っていたりするものだと我々は勘違いしていましたが、それはただの優越感や劣等感であり、自己肯定感とは異なるものでした。
私が私であるためには他者と対話をし、自己肯定感を高め、対話によってさまざまな価値観と向き合うこと。
我々が求める生活を続ける方法だと私は思います。