紙の本
面白くない
2018/01/12 17:43
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投稿者:井沢ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
つまらないの一言に尽きる。学者の書いた本は面白みがない。元寇は神風で救われたわけではないが支援になっただけの話を証拠をいちいち取り上げて解説しているが、専門家ではないので興味がわかない。読まなければ良かった。
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<目次>
序章 神風と近代史
第1章 日宋貿易とクビライの構想
第2章 文永の役の推移
第3章 弘安の役の推移
第4章 竹崎季長の背景
第5章 『蒙古襲来絵巻』をよむ
第6章 その後の日元関係
終章 ふたたび神風と近代へ
<内容>
元寇(蒙古襲来)について、淡々とした筆致ながら従来の説を撫で切りにしていく。神風は吹かなかったし、現地の武士はそうしたことは考えてなかった。日元両軍とも「神風の吹いた」翌日も戦っていた…。そして、『蒙古襲来絵巻』の有名なシーンが書き足しであったという説も否定する。絵具で結構書き換えていると(一部江戸時代の修復での塗りなおしはあったらしい)。そう思いながら考えると、著者の言っていることも一理ある。元寇の扱いは難しいと感じた。
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いわゆる文永・弘安の役は、戦前の「神風史観」によって次のように解釈されていた。
「二度ともに神風が吹いて(略)文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅した」
もちろん戦後「神風史観」は否定されたが、モンゴル軍が暴風雨によって壊滅的打撃を受け敗退したとのイメージは、一般にも学界にも根強く残っている。
著者はこのような通説に疑問を抱き、当時の史料を徹底的に読み直すとともに、地理・気象条件等を検討して戦闘の過程を再現する。その結果、旧来の元寇観を一新する次のような事実が明らかにされる。
①文永の役ではそもそも暴風雨は発生していない。
②弘安の役では確かに暴風雨によって南宋軍は打撃を受けたが高麗軍は健在で、暴風雨後の海戦・陸戦で御家人たちが激闘の末にこれを撃退した。
一部には「重箱の隅をつつくようだ」という評価もあるようだが、限られた史料や遺物を検証しより説得的な事実を明らかにすることこそが歴史学の醍醐味である。
歴史教科書も、自分がこどもの頃に習ったものと現在のこどもが習っているものでは随分違っている。蒙古襲来についても、将来は本書の研究成果が教科書に反映されるかもしれない。
なお、「米軍爆撃機グラマン」など専門外のところで一部事実誤認があるので、増刷、重版の際には「戦闘機」に修正をお願いしたい。
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蒙古襲来といえば、鎌倉時代に日本が、当時の国の名前で言えば「元」から二度の攻撃を受けて、それを見事に跳ね返した歴史的な事件として歴史で習う事柄です。私が初めて習った40年ほど前は、確か、二回とも台風が来て幸運にも助かったとのことですが、時代を経るにつれて変わってきたと思います。
曰く、一度目は偵察に来ただけで、自主的に引き上げたとか、二度目の来襲は台風シーズンを外して攻めてきたが、抑撃体制にあった日本軍が上陸をさせなかかったので、そのうちに台風が来たとかいうものです。
この本では、2つの来襲について、具体的な兵士の数の考察や、二度目の来襲(弘安の役)における台風は、両軍に対してどの程度の被害をもたらし、その後にどんな戦いがあったのかを、多くの歴史書に基づきながら解説しています。
台風が来た後にも、戦いがあったのですね、この本を読んで初めて知りました。てっきり台風で元軍は全滅したとばかり思っていました。将軍達や台風被害の少なかった方面の軍は、頑丈な船に乗ってしっかり帰国していることも知りました。
最後の部分に、神風という言葉で日本人なら誰でも連想できる「神風特攻隊」について触れられていました。出撃した特攻隊のうち、少なからずの飛行機が近くの島に不時着していて、もう戦死したことになっているので隔離されて生きていた、という事実を知りました。やはり死にたくないので、少しでも機体に異常を発見したら、不時着したくなる気持ちも私にはよく理解できました。こういう事実を知ると、少しほっとした気分になれます。今になって明かされる事実なのでしょうね。
以下は気になったポイントです。
・弘安の役では、確かに台風は来たし、実際に鷹島沖に船は沈んでいる、ただしそこに全軍が碇泊してのではなく、旧南宗軍(江南軍)であった。高麗中心とする先遣部隊(東路軍)は大宰府間近にいた。台風通過の4日後の7月5日には、博多湾・志賀島沖海戦、7月7日に鷹島沖戦は継続された。この二つの海戦の結果、戦争継続は困難と判断した蒙古軍は、両軍ともに退却を決めた(はじめに、p3)
・元を盟主にすることが目標であったが、敵国たる宋を支援し続ける国が日本であった、通商関係は300年に及んでいた(はじめに、p5、p18)
・太平洋戦争中に、二つの台風がアメリカ機動部隊に被害を与えている、1944年12月18日のコブラ台風、1945年6月4日のヴァイパー台風、両方とも百機以上の航空機を失った(p7)
・宋から日本への輸出品は、銅銭、陶磁器、医薬品、銅銭を日本で鋳造しなかった理由は、中国から輸入した方が安上がりであった、銭一枚は日本の方がおおむね3-4倍高い価値があった(p9)
・日本からの輸出品の二大品目は、木材(ヒノキ、杉)と硫黄(火薬製造に必要)大宰府の外交である博多から出された(p13)
・900隻の船のうち、上陸用のスピード小艇(300)、水汲み用ボート(300)、母艦=千料舟(300)と、三種類の船がある(p23)
・文永11年10月20日を太陽暦に換算すると、ユリウス暦なら1274年11���29日、グレゴリウス暦(1582年から使用)なら26日となる(p35)
・弘安の役は、6月5日に前哨戦、8日が総力戦、翌日までも引き続く最大の激戦であった(p67)
・東路軍は兵士のみなら1万数千、江南軍はこれよりも多かったが、合計三万人強である。九州にいた日本兵力はざっと三万人程度(p78)
・鷹島沖に沈んだ船は、残留人員2000人という数字から判断して、20隻程度であろう。海戦は船の捕獲合戦であるので、10隻以上を失えば完敗であった、老朽化し、積載も過剰な、欠陥・問題のある船が沈んだ(p107、109)
・蒙古軍は日本軍の奇襲(煮立てた糞尿の投げ込み)に対して相当動揺した、この動揺が伝わり戦闘意欲を喪失した(p194)
・東路軍は2か月以上も待ち続けたが、江南軍はとうとう到着しなかった、この致命的な遅延は、東路軍に対する大きな背信である、結果としてこの遅れが台風シーズン到来に重なった(p218)
・神のおかげで勝ったという意識は、貴族、神官、僧侶には強くあったが、武士をはじめ当時の日本人の当事者意識に「神風」はなかった(p234)
・神風特攻隊は出撃した段階ですでに死者と認定された兵士には、戻るところがなかった、彼らは福岡市にあった陸軍施設、振武寮に収容=事実上の隔離をされた(p236)
・戦争に役立つ海軍兵学校、陸軍士官学校卒の職業軍人は温存、弾としての用兵に過ぎなかった特攻要員には、戦争遂行に役立たない文系大学生に、熟練パイロットとはいえない予科練出の少年飛行兵を組ませた(p238)
2018年2月18日作成
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113頁:軍人・何三於(かさんお)。
・この「於」は、「於弘安九年四月上旬日」の「於」だと思う。名の一部ではなく。
軍人・何三が弘安九年四月上旬日に補整した。
元稹の別称は「元九」といい、李白の別称は「李十二」という。
139頁:『日本の絵巻』
・他の箇所でも,こうなっていたと思うが,『日本の絵巻』13,と書いてくれた方が,親切だと思う。たぶん,正編20,続編27はあるのだから。
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蒙古襲来(元寇)について、「文永・弘安合戦ともに暴風雨によって元軍は敗退した」という類の説(「神風」説)は、教科書や一般書はともかく、歴史学の本ではさすがに近年見かけなくなったが、本書は近年の研究に比べても旧説・通説に対して徹頭徹尾全面否定で、主要な論点についてことごとく新説を提起している。
その中でも特に注目しなければならないのは、(1)モンゴルの日本侵攻の当初目的は、日宋貿易による南宋への硫黄(火薬の素材となる軍事物資で中国では産出しない)供給を絶つためである。(2)文永の役では元軍の平戸・鷹島侵攻は確認できず、また戦闘は1日(文永11年10月20日)ではなく数日間にわたった(『関東評定伝』が記す10月24日の太宰府での戦闘を再評価、威力偵察説・デモンストレーション説を否定)。(3)弘安の役で東路軍(高麗軍)は太宰府の目と鼻の先の志賀島を基地化しており、江南軍(旧南宋軍)とともに鷹島で全軍集結したという説は「誤読」で(よって弘安4年閏7月1日の台風による元軍全滅もありえない)、主戦場は博多湾であった。(4)『蒙古襲来絵詞』の奥書は近世の偽書であり(「未来年号」問題)、竹崎季長が鎌倉への上訴で地頭職を獲得したという見方は、肝心の絵詞本文に言及がなく、当時の政治情勢からも成り立たない。以上の問題は単に蒙古襲来の経緯や『絵詞』の解釈にとどまらず、鎌倉時代後期の社会・政治の根本にかかわることで、史料批判の正当性も含めて、門外漢が容易には評価できない。
なお叙述自体は難しくないが、従来の学説への全面批判という性格上、蒙古襲来や『絵詞』に関してある程度の知識がないと内容を理解しにくいと思われる。鎌倉時代の通史や従来の蒙古襲来の概説書を読んだ上で本書を読むと、より本書の「革命性」を痛感するはずである。
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通説である「神風史観」を痛烈に批判する一冊。
今も君臨する1931年(昭和)の池内宏「元寇の新研究」を丁寧に反証する。「神風史観」は時代の波にのって、他の学者の批判を抑えて、アカデミズムを含めた世の中にひろがり、神風特攻にも利用されたのだろう。
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鎌倉中期、外国から二度の攻撃を受けた蒙古襲来。「神風」によって敵を撃退できたとされるが、それは事実か。刺激に満ちた論考。
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鎌倉時代後期の一大イベント・元寇について詳細に解説している。昔からなぜ大陸の大帝国が日本のような島国を侵略しようとしたか疑問だったが、本書によると宋との貿易が背景にあるとのことで納得。なぜクビライの日本攻略の理由は、敵国である宋を支援し続ける国が日本だったから。兵器である火薬は、硝石、硫黄、木炭から作られるが、火山のない中国では硫黄はほとんど産出されないが、火山の多い日本では豊富で輸出されていた。
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元寇の表から裏側まで、その詳細な経緯を学ぶことができます。前半では様々な文献資料から、その時に実際は何があったのか。タイトルにもありますように「神風」はあったのか。を知ることができます。後半では、実際に戦に参加した人が残された資料を元に、その人の立場に即した流れをつかむことで、リアルに元寇を知ることができます。また今日に残る現場の遺物を紹介されることで、この元寇を様々な角度から学ぶことができます。
「神風」について、嘘ではないが、真実ではない。読んでよく考えれば冷静に理解できることが、あの戦争のときには出来ていなかった。この悲劇を繰り返さないために、事実を知ることの重要性として本書の価値は高いと思います。
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疑われることもなく『孫引き』されていた定説を、資料を丹念に読み解くことで否定していく。これはとても研究者として誠実な姿勢で好感が持てる。
もっとも、何故そこまで誰も定説の誤りを指摘出来なかったの?と言う疑問はとても残る(力のある人が主張していたからと言うことが示唆されていたが…)
ただし、「学界の定説を疑問視し、実証的に通説を否定していくことを使命」とまでいくと、それはそれで『先入観』ではないのか?という疑問は残る。
まあ、それはそれとして、絵巻を読み解いていくことで、文永の役、弘安の役の実相に迫るのが主題であるのだから、絵巻のカラー写真は入れて欲しかった。
元寇が『神風(台風)で船が沈んだから勝ったんやで』なんてのが嘘っぱちなのは、まあ常識の範疇でわかっていたが(勝っている侵攻軍は、橋頭堡を確保して内陸に侵攻しているわけで、空の船が沈んでも軍は滅びない)悪天候なんて関係無く、その後も戦いは続いていたのね。やはり。
一番の驚きは、日元関係である。
戦争なんてなかったかの様に交易が行われていたとは、驚きである…
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「蒙古襲来は、台風(神風)によって退けられた」とするいわゆる神風史観をはじめとした、蒙古襲来に関する通説を、情報伝達にかかる時間の考慮等により批判する。
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蒙古襲来で「神風」は吹かなかった? 『蒙古襲来と神風』 | J-CAST BOOKウォッチ
https://books.j-cast.com/2018/01/01006702.html
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台風もしくは暴風雨は確かにあった。ただ勝った理由はそれだけではないだろう。その後も戦闘は続いて日本は辛勝だった。と言ったところか。歴史上の出来事をしかも1200年代なんて、正確に把握する事は困難だ。なので新資料が出てきたり、丹念に精査すると実は違ったというのは結構あるのだろう。そういう意味では学ぶ方もアップデートしていかないといけないかな。絵巻があってそこに色々書いてあったりするなんて、覚えていなかった。どこかに完全な形で残っていたりしないのか。他の人は絵巻を描かせなかったのか。何か新資料とか出てくると面白いのに。モンゴル帝国の本を読んだこともあり、興味深く読めた。当時の日本は貿易の事、捕まった蒙古人のその後の活躍など勉強になった。
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旧来の通説の根拠とされた諸史料を批判的に検証し、蒙古襲来の実像を再構築する内容。史料の読み直しのみならず、考古遺物や地理・気象条件も考慮に入れた検討過程や、竹崎季長の背景考察、蒙古襲来絵詞の史料評価など興味深い点が多かった。