紙の本
日常の言葉が伝える、戦争が日常のウクライナ
2024/02/08 19:46
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
ウクライナの詩人、オスタップ・スリヴィンスキーさんが、戦禍のウクライナの人々の証言を聞き取り、キーワード(単語)を抽出。それにまつわるウクライナの人々の「声」/物語を、辞書のようにまとめた「語彙集」に、それを日本に紹介したいと考えたロバート・キャンベル氏が翻訳し、さらに現地を訪れてオスタップさんや避難民たちと交流した時間や思索の旅をつづっている。
書かれている言葉は、特別なものではない。それだけに日常に戦争がある現実に胸が詰まる。
紙の本
早く停戦してほしい
2024/04/22 13:34
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投稿者:kisuke - この投稿者のレビュー一覧を見る
様々な人々の短い言葉が収録されています。
読みながら、この方々は今ご無事だろうか、ちゃんと食事は出来ているだろうかと心配になりました。
恐らく殆どの人は戦争には反対だろうと思います。それなのに世界のあちこちで紛争が続いている。
ロシアのごく普通の人達の本心が知りたいです。
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“戦争という経験をした時、全ての言葉は比喩的意味を失ったと思います”
目の前の出来事に言葉の意味が強制的に書き換えられるということ。それでも言葉を紡ぐことで互いをケアする戦場のリアル
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ウクライナ戦争下のリヴィウの街で、戦渦を生きる人々からの聞き書きによるストーリーを、戦争によって言葉の意味が変わってしまうという見立てのもと、辞書のようにフラットにならべた本。強烈なイメージをもったストーリーが並ぶ。
事態が深刻だからこそ、ユーモラスに語らずにはいられないのだろう。どれもどこか可笑しみが含まれている。狭い鉄道のコンパートメントに家族とペットで詰め込まれながら乗り込む「テトリス」、警報が鳴り響くなか「ゴミ」の分別に迷っている話などなど。
「自由」は誰からも提供されない、量産品ではない、ハンドメイドなのだ、という表明も忘れ難い。読むタイミングによって、刺さるストーリーは異なりそうだ。
聞き書きの短いエピソードが並ぶ形式もあって、『戦争は女の顔をしていない』と印象が近いのだが、『女の顔』のほうで出てくるストーリーには、もっとはっきりとドイツ兵への憎しみが現れており、憎しみによって開放されてしまう残酷さも見え隠れしていた。馬車でドイツ兵の死体を踏みながら進むとき、頭蓋骨が割れる音を聞くたびに快哉を叫んだ、とか。それがおぞましくも有り、切実でもあった。『語彙集』にはそれがないようにおもった。憎しみや残酷さは聞かれなかったのか、省いたのか、著者にそれを聞いてみたい。
後半は訳者であるロバート・キャンベルの本書の背景を探る紀行。
ウクライナの人々は、特に田舎の人々は花が好きで、破壊された家々の再建は簡単でなくても、花は植えられるからと花壇を世話する人たちの話が印象的だった。同じようなことを、私も東日本大震災の震災遺構のデザインの仕事のなかで経験したからだ。震災遺構として整備される津波被災をした学校校舎の計画を、元の住民たちに示したところ、周囲を囲むフェンスの位置を変えて欲しいという。今の計画では、花壇がフェンスに囲まれてしまい、簡単に世話をできなくなる。いつ行っても花をさわれるように、花壇がフェンスの外になるようにしてほしいというのだ。それで、フェンスの位置を変えた。花壇はいまも定期的に世話されている。
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ウクライナの人々の日常に起きている生きている言葉
物々しさだったり、ユーモアだったりと
いろんな感情が垣間見れる
後半は、この本をまとめるにあたっての話しだったが
そちらは端折ってしまった
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この本におさめられているウクライナの市井の人たちの言葉は、とても深刻で、時に可笑しくも美しくもあります。日常生活に戦争が入り込んでしまった人たちにとっては、普通の言葉、単語ですらとても重い物語を持つのだと実感されました。ただそのような言葉、物語を語ることで救われることもあるのでしょう。キャンベルさんの、「言葉もシェルターになれるのではないか」という問いがとても響きます。
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紐解き始めてみて、頁を繰る手を停めることが出来なくなってしまった。強く惹かれてドンドン読み進んだ。或いは、ウクライナ関係のモノということでは「こういうモノこそ読みたかった」というような気もしている。
ウクライナの詩人でエッセイストでもあり、様々な活動をしているオスタップ・スリヴィンスキーの作品を、米国出身で、日本で活動する日本文学研究者で大学教員でもあるロバート・キャンベルが翻訳し、併せてロバート・キャンベルがウクライナを訪ねての経験を題材とするエッセイが収録されている。「2部構成」のようでもあるが、完成形になった作品を前半に示しながら、それが登場する迄の経過が関連する挿話を綴ったモノが後半に在るという、「両者で1つ」というように自身は理解した。
オスタップ・スリヴィンスキーは主にウクライナ西部のリヴィウで活動している。ロシア・ウクライナ戦争が始まり、戦禍を逃れようとする人達がリヴィウに集まる中、その人達を支援する活動に携わるのだが、そうした中で聴いた多くの話しを記憶に留めて、掌篇として書き綴り続けた。話しのキーワードを綴った篇の題名とした。そしてその各篇の題名を辞書の要領で、アルファベット順に並べる形で発表した。題して『戦争語彙集』である。全体で77篇在る。何れも1ページ、2ページというような次元の、正しく掌篇である。
ロバート・キャンベルはこの作品に惹かれ、翻訳して日本で紹介することを思い立ち、準備に取り掛かった。ネットでの通信でオスタップ・スリヴィンスキーと遣り取りをし、ウクライナを訪ねて御本人や、他の様々な人達に会うという計画もした。そして英語版を基に日本語翻訳を起こし、ウクライナ語・ウクライナ文学の研究者の助力を得て、ウクライナ語原版と対照する検討も加え、本書の前半の部分は完成したという。
日本語訳された各篇は「ランダムに並んでいる?」というように見えるが、全て原版のウクライナ語の辞書の要領(=アルファベット順)で並べたモノをそのまま写している。各ページにはウクライナ語で篇の題名に用いられた単語が示されている。
「戦争の語彙」とでも聞けば、所謂“軍事関係”な用語が多く出て来るのかと思わないでもない。が、本作『戦争語彙集』はそういうことではない。示される語彙は、一般的に誰でも使うような日常の語である。それらが「戦争」という様子の中で人々から発せられる時、そうした普通の語彙に「如何いう意味が込められる?」というようなこと、その語彙のキーワードで「何が語られる?」というようなことが主眼だ。
ゆっくりとこの作品の部分を読んだ上で、ロバート・キャンベルによるウクライナ訪問のエッセイを読んだ。
このエッセイの部分では、オスタップ・スリヴィンスキーが『戦争語彙集』を綴るに至った経過、その活動での心象の変遷というようなことが詳しく語られる。更に、オスタップ・スリヴィンスキーに綴るべき話しを提供した人達の話しも在る。
深く考えさせられたのは“沈黙”ということや、戦禍の中での文化や芸術の意味というようなことだった。
本当に疲れ果てて、言葉を発する気力も失うような中での“沈黙”というモノに、戦禍を潜り抜けた人達は包まれてしまう場合が���る。戦禍は文化活動のようなモノを吹き飛ばす、或いは塗潰すという面を持っているかもしれない。が、それでも表現する、それを観るというようなこと、何かを読んで考えて語らうようなことという文化活動は人には求められるのかもしれない。そういう話題の提起が在って考えさせられた。
そして大学教員でもあるロバート・キャンベルは、リヴィウ大学関係者と連絡を取って、大学で学生や教員への講演を行い、質疑応答や意見交換が為された。加えて『戦争語彙集』を事前課題として参加者に読んで頂き、それを題材とした対話も行っている。このリヴィウ大学関係の部分は興味深く読んだ。或いは「語彙」ということになるのかもしれないが、「平和」という語に対し「それは“勝利”に替えるべきだ」という意見が参加者から在った。こういう現在の事態に関する幾つも在る観方の一環が少し直截的に伝わった。
正直、2022年2月に事態が動いた時の連日のような情報発信に比べ、最近はウクライナの事態に関して少し静かになっているようには思う。が、当時の「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていて、何が如何なっているのか静かに観て考えようということを排撃するかのような調子よりは好いかもしれない。現場はウクライナで、ロシア側は「特定軍事行動」と称しているが、如何いうように観ても「大規模な軍事侵攻」で、それに抗う戦闘行為が発生すれば、そういうのは「戦争」と呼ぶ他に無い。戦争になれば、最も困るのは現地に在る普通の人達である筈だ。それでも「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていたような頃、ウクライナの人々の苦境を思いやるようなことを軽視するかのような感さえ否定出来ず、個人的には不快感を禁じ得なかった。過去の経過の故に、個人的な次元では縁者が両国に散って在る例も多く、事態に複雑な想いを抱いている人達も非常に多いというようにも思う。そして「非難!」と拳を突き上げるだけでは、事態の収拾を目指すこともし悪いようにも思う。
こういうような考えを持っているので、「人々に寄り添う」というようにして話しを聴いて掌篇を綴ったという本作は強く惹かれる。本作の原版が登場した時点で、2022年2月から1年半程度であった。もう直ぐ2年で、何処迄、如何続くのか、如何幕引きが為されるのか判り悪い状況ではある。そうなれば、更に「人々の話し」は出て来るであろう。オスタップ・スリヴィンスキーはそれらを更に綴り続けるという意向のようではある。興味深い反面、戦禍の少しでも早い幕引きを願うので、何時までもこの「語彙集」が綴られ続ける状況というのも考え物ではあろう。が、戦禍の幕引きの中での「語彙」というモノもまた在り得るかもしれない。
ウクライナの事態に少しでも関心が在るのであれば、本作は是非読むべきだと思う。非常に貴重な一冊だと思う。
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毎日新聞2024120掲載 評者:沼野充義(f名古屋外国語大学世界教養学部世界教養学科教授、ロシア東欧文学、近現代日本文学、亡命文学、他)
週刊金曜日2024419掲載 評者:岩崎眞美子(ライター)
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アレクシェーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」が過去から現代に現れてしまった。
死と隣り合わせになることで、人生が詩になってしまうと言う皮肉。
自由
「自由といえば、誰かがかわりに手に入れてくれるものではありません。誰かが与えてくれることもなければ、プレゼントしてくれることもなく、誰かに期待することはできないものなんです。自分の手で作る以外にない、ということです。そう、ハンドメイドですよ(笑)。自由を作る工場なんて存在しません。量産品ではないのです。」
「今年の三月八日、女性たちには生と死が配られることになりました。わたしたちは、生の方をもらいました」
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この本の意義は、証言者の1人であるオレーナさんの語ったところ(210頁)に尽きる。「(他国による侵略という事態を)経験した多くの人々の感情のスナップショット」。「とても新鮮な記憶、とても新鮮な傷、とても新鮮な感情を伝えるもの」。それらを時をおかずに世界中で共有することの重要性。ロバートキャンベルのレポートがこの本とのより深い向き合い方に導いてくれている。
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作品紹介にある通り、ウクライナ戦争により心身共に傷ついた市井の人々の生の声を元にした詩だ。
ニュースやドキュメンタリーとは異なり、直接心に響く。
後半はロバートキャンベル氏が、実際に詩の元になる証言をされた方々との会話を中心に、その心情に触れる。
食べもの
東部地域からやってきた家族を一晩お世話することになりました。
台所に案内して言いました。「ここがキッチン。食卓にある食べものを召し上がってくださいね」。
その瞬間、彼らは泣き始めたのです。「キッチンにある食べものを、召し上がってくださいね」という一言で。
安らかな場所で食べることができる幸せ。
何でもない日常が、彼らにとっては至上の喜びだったりする。
自由
自由といえば、誰かが代わりに手に入れてくれるものではありません。誰かが与えてくれることもなければ、プレゼントしてくれることもなく、誰かに期待することはできないものなんです。自分の手で作る以外にない、ということです。そう、ハンドメイドですよ(笑)。自由を作る工場なんて存在しません。量産品ではないのです。
そう、彼らにとっては自由も死を尽くして獲得するものなのだ。
・私たちが二つの世界大戦で体験したように、戦争は非常に早く場所を変えることが可能なのです。人間の残虐さと人間の優しさには、限界も無く、国境も無い。私たちは正しい側に立つべきです。
彼らは、全世界の人に正義というものを訴えている。
・普通の人々の死に対して無関心であってほしくないです。100人が死亡したというニュースや統計があるとき、それは単なる数です。でも、そこに語られた言葉があれば、それは感情です。
亡くなった人たちには、それぞれに歴史があり、感情があったことを忘れてはいけない。
・(なぜ戦争をしなければならないのか?と言う)問いはもちろん大事です。けれど今、わたしたちは圧倒的な、一方的な暴力にさらされています。生きるか死ぬかの瀬戸際にずっと立たされています。善い戦争というものはない、いつなんどきでも武器を捨てなさい、平和を第一に、そういうことなのか。そのような問答であるなら要りません。今は、そのことを問う時期ではないのです。「平和」の代わりに「勝利」と言ってください。
ふわっとした着地点の見えない「平和」では、むしろわたしたちの言語も文化も、わたしたちの生命すら脅かされかねないからです。
表紙の美しい絵も、ウクライナ人のアナスタシアさんによるものだ。
ロシア(プーチン)の理不尽さを、改めて感じた一方で、このような状況で、私たちはどうすべきかと考えさせられた。
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ロシアに侵略を受けたウクライナ、市井の人々の体験、ロバートキャンベル氏の思索。言葉の持つ力、言葉は第二のシェルター。戦争解説ではなく、イデオロギーはまったくない。ウクライナの人々・戦争被害者の困難な状況、戦争の終わり・平和、はつまり勝利への思いが言葉で伝わる。