キリスト教の希薄なエラスムス像
2024/01/21 18:29
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
エラスムスはルターやティンダルなどが新約聖書の翻訳を訳した時に底本にしたギリシャ語ラテン語対照新約聖書をやっつけ仕事にしても刊行したのだが、この本は人文主義者としての肖像ばかりに光が当たっていてカトリック教会には「異端」視されても宗教改革者の側には微温に感じるような改良主義者としてのエラスムスが見えてこない。エラスムスの伝記を書くにはキリスト教のテキストにも人文主義者として研究した側にも光を当てるべきだ。彼がギリシャ語ラテン語対訳新約聖書を刊行したフローベンはヨセフスのテキストも出しているしアルド・マヌーティオは人文主義者の版元として有名だが七十人訳のテキストを刊行している。
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我、何者にも譲らず:不信と混乱の時代に 不信の時代:誰からも求められた ロッテルダムのヘラルド 変革への底流:神曲の影響 世界の終末・新しい宗教 古代へのめざめ:古典への没頭 学問と信仰の調和 修辞学 ふたつの友情:ジョン・コレット トマス・モア イタリアへの旅:ルネッサンス最盛期 ヴェネツィアの印刷業者:イタリアから得たもの アルドゥスのアカデミア ゆっくり急げ:寓意表現 痴愚神礼讃:人文主義的文化+民衆文化 道化の存在 宗教改革の嵐:なぜ戦争が起こるのか 嵐のなかの生涯 自由意志論争 栄光ある孤立
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2024年に新しくエラスムスの本が出た事実を嬉しく思う。
●エラスムスと孤独とふるさとについて
「我、何者にも譲らず」というエラスムスの態度をあらためて格好良いなとおもう。
その一方で、私生児としてうまれ早くに両親をなくし結婚もせず、最後には新旧両派から敵視され友は遠ざかっていった様は、どうしても胸がくるしい気持ちになる。
ラテン語を自在にあやつりヨーロッパ各地を転々としたコスモポリタンとしての彼が最後にのこしたことばが「Lieve god」(愛する神よ)という故郷オランダの言葉だったことは、非常に示唆的である。
私生児として生まれた彼は、「デシデリウス・エラスムス」という名前さえ自分で付けた。その名前が父親の「ヘラルド」という名前をそれぞれギリシャ語とラテン語に訳したものであるという。また、彼が常に「"ロッテルダムの"デシデリウス・エラスムス」と名乗ったことを考えると、コスモポリタンたらんとした彼の根っこの部分にある、ふるさとという概念に対する憧憬を思わされる。
古典に対する愛も、こうした彼のふるさとに対する憧れの延長と見るのは考えすぎだろうか。憧れの気持ちは大いに膨らみ、しかし彼が長年のぞんだイタリアの地で見たのは、教会の堕落した姿だった。教皇が率先して戦いの先頭に立つような時代だった。
●微笑ましいエピソードについて
暗い晩年以前(正確には、ルターが95か条の論題を出す1517年以前)のエラスムスのエピソードはほほえましく思うものも多い。
ロレンツォ・ヴァラのラテン語をアルファベット順に並べたり、トマス・モアをあらん限りの言葉を尽くして長文で褒めちぎったり。
イタリア滞在時、当時のイタリアの質素で少ない料理が耐えられず、美食家のエラスムスはひとりで食事していたそうだ。微笑ましいが、人好きなエラスムスをおもうとすこし切ない。
またイタリアといえば食事が美味しいという思い込みがあったので驚いた。エラスムスはむしろモアやジョン・コレットと出会ったイギリスの料理を褒めちぎっている。これは本当にイギリス料理が美味しかったのか、エラスムスの主観が多分に入っているのかはよく分からない。
●その他
あの有名な「パンドラの箱」という言葉がまさかエラスムスの誤訳だったとは、なんだか感慨深い気持ちにもなる。元は「パンドラの壺」だとか。
その他、15世紀末には1500年というひとつの大きな区切りの近づきを目前として、終末感がひろくヨーロッパに漂っていたという。
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10月に逝去した高階秀爾氏の評伝を読むうちに高階氏の本を読みたくなった。最初にとったのは世界で学んだ知識程度しかなかったエラスムスの評伝。著者は西洋美術史の専門家でありながら、文学・精神史にも造詣が深い。文化の香りがする筆致でエラスムスという人物が浮かび上がってきた。
エラスムスはホルバイン、デューラーらの当時のトップの画家が描きたかった。そしてフランス、イングランドらの国王、ローマ教皇らから引っ張りだこ。生まれた身分は低かったが、聖俗問わず重宝がられた。本人は「我、何者にも譲らず」を貫き、近代的な批判精神を忘れず自らの精神の自由に重きをなした。
エラスムスの残した仕事には、キリストの僕としての業績という宗教にかかわる部分と、古代ギリシャ、ローマの重要な文献の翻訳や校訂といういわゆる人文主義者(ヒューマニスト)としての功績の二つがあるという。このバランス感覚は彼の特徴だ。
『格言集』『痴愚神礼讃』でヨーロッパ中で名をとどろかせたエラスムス。腐敗したカトリックの姿を諷刺し、世間の支持を得た。時代は彼を売れっ子で終わらせない。やがてルターが宗教改革を訴え煮え切らないエラスムスはローマ側に見え、ローマはエラスムスを異端視する。精神の自由を重視するがゆえに、両方から敵視されてしまう。
ちなみにルターと論争になった自由意志論の章は深掘りして読んでみたい。あと、オランダ出身で肉食・美食のエラスムスがヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウスが開いたアルド印刷所との出会ったくだり、イタリアは粗食で我慢できず別室で食事をしたというのは現代とはだいぶ違うなあ、と苦笑した。
最後に印象に残ったフレーズ(208ページ)を引用します。
形式にとらわれずに、その真の内容を求めようとする自由な精神、現実の人間的状況に対する肯定的態度、迷信を斥ける理性的精神と、その人間の理性の普遍性に対する健康な信頼、このような点において、エラスムスは、確かに20世紀の美術史ケネス・クラーク卿が指摘しているように、クアトロチェント(1400年代)の精神の最後の後継者といってもよいかもしれない。ただそれにしては、彼はいささか生まれてくるのが遅過ぎたのである。