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政治家の批判本でしかなかった。
非常に残念!
もっと政治家、感染症専門家を公平な立場で
書くべきではなかったか。
政治家を批判し、ややもすれば国民の味方、喜ばせたい本としか私には感じられなかった。
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p145 数値で線を引く西浦は、押谷にあって自分にはないものを「本質的な優しさ」と表現した。
「押谷先生は、社会的弱者や歪が生じている部分に目を向けていく姿勢を貫かれている。歓楽街やハイリスクの場だって、一緒に生きていくためにはどうすればいいかを現場目線でどんどん考えていかれる。ただそういう姿勢では国全体の未来まで見通すことは難しいと思うんです。」
p234 これは本当は国のトップリーダーが引き受けるべき修羅場だったのではないか。
p242 そんな中、手にした内村鑑三の息子、祐史の自伝、わが歩みし精神医学の道という一冊の本との出会いが転機となった。権力側でも暴力革命側でもない、第三の道、それが医師だった。
p245 小林秀雄 無私の精神
ものごとを実行するには、自己主張よりも、「社会の現実や物の動き」を観察して、その動きに応じて「私」を捨てる覚悟がなければいけない。そんな小林の文章に、尾身は「自分を突き放す厳しさ、覚悟が必要だといわれたように感じる一方で、どこか心が解放された」といっている
p278 激論が交わされたが、一つの共通認識に行き着いた。それは「考え方の違いは価値観の違いからきている」ということ。このために専門家ができることは、政治家に対して選択肢を示すことなのだ、ということだ。
p283 阿南英明 新型コロナを通常の医療体制の中に位置づけるロードマップを示すべきだ
p304 社会を動かす道筋を示さないことによるリスクを考えた尾身
ウイルスのリスクを最後まで言い続ける責任を考えた押谷
p311 尾身
日本では、危機に際しての意思決定の文化がまだ確立されていないというのが私の実感です。専門家の意見を聞きつつ、他の政治状況も考え合わせて結論を導くという反・合の弁証法のようなプロセスが足りなかった。
p315 セキュリティというものを他者に任せていて、依存していれば大丈夫と考えてしまうというような、自主性が欠けているような国民性がありはしないか 西浦
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面白いと言うものではなかったが、知っておかなきゃいけないと思い読んだ。
専門家の方々に感謝しなければいけないと思った。
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コロナ禍の3年半、新型コロナウイルス感染症対策分科会などの専門家会議を通して政府に新型コロナ対策を助言し、時には前面に出て毀誉褒貶に晒され、そして表舞台から姿を消した、尾身茂、押谷仁、西浦博の各氏をはじめとした感染症専門家たちに焦点を当て、2020年2月から2022年8月(一部それ以降)までの専門家(科学)と政治とのせめぎ合いを克明に描いたノンフィクション。
専門家の側から見た日本の新型コロナ対応の過程がよくまとめられており、専門家たちと政治家・行政との間にどのような攻防があったのかがよくわかった。
本書は明らかに専門家たちにシンパシーを持った筆致であり、また、オミクロン株が中心となって以降の感染症専門家たちのリスク重視の考えやそれに基づく対応にはいかがなものだったのかと思うところもあるが、総じて専門家たちは政治との関係に苦心しながら、その時々のベストを尽くそうと奮闘してもらっていたのだという認識を持った。
一方、専門家たちの意見を受けた上での政治の側のリーダーシップと意思決定に係る説明の欠如に大きな問題があったと感じた。やはり科学的知見を踏まえた専門家の意見に耳を傾け、尊重しつつ、政治の側がリーダーシップをとって政策的意思決定を行い、その説明責任をしっかりと果たしていくべきであったろう。
今後、感染症対応だけでなく、様々な分野で専門家(科学)と政治との役割分担・協働は重要性を増していくと考えられるので、コロナ禍での専門家(科学)と政治の在り方をきちんと検証し、次に生かしていくことが必要だと思う。
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そんな尾身でもフラストレーションがたまることもあった。安倍晋三は小中高校の全国一斉休校を専門家に意見を聞かずに決めた。菅が決めたG o Toの前倒しスタートや岸田の待機期間短縮もそうだ。いずれも専門家の意見は聞かず、かつ、その選択の説明は十分に行わないことがあった。
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危機を前に機能しない政治、割れる世論、続く医療危機、そして使命感を持って立ち上がる専門家集団‥
ほぼ感染症の専門家だけに密着して聞き取った結果、そうした図式的な見方を補強する内容になってしまったと感じる。それでも他国に比べ被害や分断がマシだったのは自身の領域から一步踏み出した尾身を始めとする専門家のおかげとも言えるのだが‥
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この本を読むと、日本の政治家や官僚がいかに学者や科学的知見に敬意を持たず、尊重していないかがよく分かる
反面、コロナ禍に際し、尾身先生をはじめとした専門家の方々の努力のおかげで(他国と比べると)奇跡的に人口当たりの累積死亡者数が低く抑えられたことも理解でき、改めて感謝の気持ちを覚える 国として謝意を示すべきでしょう、本当に
コロナの記憶が生々しい今読んでおくべきオススメのドキュメンタリーです
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先日尾身先生の著作を読了したので、当事者ではない人が著した振り返りを読みたくなり本書を手に取りました。
読了しまず思ったのは専門家と政治家とのやり取りの掛け合いというか牽制しあいというか…。ぶっちゃけて言うと政府は自分たちの良いように専門家(医療関連、経済関連その他コロナ対策に関わった全てのスペシャリストたち)を使い捨てたのだなということ。(p298など)
特に岸田政権になってからの専門家に対する対応はひどいと読みながら腹が立って仕方なかったです。尾身先生の著書にも岸田政権になってからあまり呼ばれなくなったし、会議が開かれなくなったというようなことが書かれていましたが本当にひどいと思いました。
日本に尾身先生がいなければもっと深刻で更に長い医療崩壊や経済停滞が続き、現在のような状況にはなっていなかっただろうと思います。(今でも決してコロナの状況にせよ経済にせよ良くなったとは言えないと思いますが)
著者が尾身先生、押谷先生、西浦先生をメインに書かれているので(そうするつもりだったというよりかは取材をしていき文章をまとめていく中でそうなったのでしょう)どうしてもそこへ読者も思い入れしてしまいますが、それを鑑みてもやはり、本書の最終盤で西浦先生がおっしゃっていたように尾身先生の功績はもっと讃えられるべきだと私も思いました。
P34「一般的な医師の考えは一人の患者に対していかに最善を尽くすかと考えるが公衆衛生学の考え方は人間集団として何がベストかという考え方をする。(要約です)」というような内容が出てきます。医療の専門家と一口に言っても、どの立場からコロナを見るかで全く判断や意見が異なるのだということがよく分かる記述でした。
p58後に北海道モデルと言われた全国に先駆けた北海道知事の判断は今振り返っても英断だったと思います。
オリンピックがなかったらなあとよく考えます。オリンピックが日本で行われていなければコロナ政策も全く違ったものになってあそこまで迷走しなかったのではないかと思っていました。本書第7章、8章は読んでいて小池知事ののらりくらりっぷりに腹が立ちまくりました。
さすが政治家の鏡だなと思いましたよ(褒めてません。よくある自分の立場を守るために立ち回るのがうまい政治家像の典型という意味です)
選挙も絡んでくる終盤に向かうにつれ政治家(それから官僚)に対する怒りがどんどん読み進めながら湧いてきました。(p282官僚が専門家に責任を押し付けるべく専門家がまとめた選択肢を突き返す場面に、思わずこの官僚の不幸を願ってしまうくらい(苦笑)特に怒り)
反対に、どんなに意見が割れても怒号が飛び交って立ち位置が分かれてしまったとしても、お互いの立場や価値観や判断を尊重しようとする専門家の人たちのただ「状況を良くしたい」という一念がとても伝わってきて苦しくなる場面もありました。意見が割れても「彼には彼の立場がある」と理解できるというのは本当の理性と知性だと思いました。(p304など)
P257人々に強く訴えかけるには「損失のメッセージ」ではなく「利得のメッセージ」のほうが適し���いる。
これはこれからもあらゆる場面で使える方法だと感じました。
都合よく専門家を使い、5類に移行したあとはデータもまともに集積していない政府に先が思いやられます。
最終章で西浦先生が「セキュリティを他人任せにして依存していれば大丈夫というような自主性に欠けているような国民性のある国。そういう国」と日本のことを言う場面があります。確かに何かことがあると日本人は何かと「責任者出てこい」のような態度になりがちに思います。責任を追求することも大事ですが、どうすればそうならなかったのか、どうすれば今後そういうことにはならないだろうか自分にできることは何なのかと冷静に考えることが一番大切なのではないかなと思います。
コロナのことだけの話でなくこれからの全てに於いても政府任せではなく、怒るべきところは怒って注視していかないとそのような気性であることを良いことに、どんどん政府の言いなりにさせられてしまうと危惧します。本書の締めにもそのような啓発的な意味合いも感じました。
それにしても第9章の尾身先生の「青春の蹉跌」はすごかった。本当にこんなすごい人をきちんと評価しない日本の政府は残念としか言えないです。
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今現在でも新型コロナ新規感染は、引き続き発生はしているが、既にニュースのネタになることはない。私たちの頭からも、あの感染力と致死率の高さに怯えたことが、ウソのようにフェードアウトしているのではないか。
しかし100年に一度と言われるパンデミックへの対応が、日本では極めて不十分で、COVID-19の総括と、国として、また国民として、今後どのような施策と心構えを持つべきなのかは、きちんと総括した上で明らかにしていく必要があると感じたのを覚えている。
そんななかで、新型コロナ発生時から専門家として携わった人たちにフォーカスを当て、私たちが報道で見聞きする表面づらの話ではなく、彼らがどのようにたち振る舞ったのか、またそうせざるを得なかったのかを、多くの専門家、官僚、政治家の方々からの取材を通して明らかにした本があると知り手に取った。
多くの学びがあったし、改めてこの国の政治家と官僚の劣化度を思い知った。
「失敗から学ぶ」。これは云わずもがな、万能ではない私たち人間が改善できる方法だ。
新型コロナの発生は予見出来ないものだったし、国民の命と生命を守ると言う、国(政治家)としての基本的な理念を、きちんと全う出来なかったことも事実だろう。だからこそ、今後どうするかなのだ。
喉元過ぎれば で、まだ出来ていないよね。と思っていたのだが、どうやら岸田首相が行ったらしい。
首相は「コロナ対応を徹底的に検証し、22年6月までに抜本的な体制強化策をまとめる」とぶち上げ、第6波が落ち着いた22年ゴールデンウィーク明けに「検証」をスタートさせた。
この時点までですでに3万人が死亡している未曾有の厄災で、近い将来に必ず来ると思われる次のパンデミックに向け、コロナにおける意思決定の検証作業は期待されて当然の試みだった。
しかし「新型コロナウイルス感染症対応に関する有識者会議」が設置されたのは5月11日。6月までに徹底的な検証を行うには到底不可能で、「危機管理庁の創設」という総裁選の公約に手をつけたというアリバイ作りのようだった。
案の定、有識者会議はそんな代物とは程遠く、わずか5回の会合の後、「新型コロナウイルス感染症へのこれまでの取組を踏まえた次の感染症危機に向けた中長期的な課題について」という21ページの報告書を出して終わった。
そして医療体制整備からワクチン開発までさまざまな問題点が端的に列挙され、その解決策として首相をトップにした「司令塔機能を強化する」ことが提示されただけで、その後検証の会議は置かれてはいない。
しかも、感染者が増加する中でのGo Toキャンペーンや、五輪開催、また配ったら瞬時に落ち着くと高を括ったアベノマスク(どれも専門家の意見は聞いていないか、聞いたとしても無視している)の総括がないばかりか、専門家委員会の問題点だけを挙げつらっているらしい。
国は本来なら身の安全確保といった環境整備を行うべきだし、専門家委員会のように科学的な視点でリスクを回避しようとする人たちへの反発があるなら、むしろそれを宥めるべきだ。
ところが、実際はどうだったか。
危機の局面では短期的な内閣支持率に汲々とするばかりに専門家をリスクや痛みを語る前面に押し立て、その一方、政治家が前面に復帰するフェーズになれば、官邸肝いりの検証報告書に専門家の問題だけを書き、政治家自らの検証には頼被りする。これが日本の政治であった。
国民を守るための仕事で、国民の代表から、あるいは国民から蹴り出される。そうわかっていながら黙って職責を果たそうとした者たちもいた。そのことだけは記憶されてよい。
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未曾有のコロナ禍にあって、「専門家」がいかに頑張ったかを取材、「文藝春秋」の連載記事をまとめたもの。
それでかあ。なんか言ってることにまとまりがないなと感じたのは。
本を通して何を言いたいのか、主張がなにかよく分からなかった。
「客観的な」レポートかと思えば、相当偏っている。
そんな読み込むつもりもなくて恐縮だが、多分、専門家の「専門」の部分アゲ、の悪いことの根幹は政治家。それは通ってんのかな。
それでいて、その「専門家」の尾身さんが、総理に感謝していたとサラッと書いてて、だから何と思って前後読み返してみたが、それ以上何もなく。
専門家は、「コロナ感染絶対悪」を抑えることしか考えてないし、政治についても「野党」については全く触れてない。内閣だけが政治やるんじゃないでしょ。
政治家があの時期、いろんなことに翻弄されて、「決断」できなかったことは事実だが、あまりの事態に判断し辛かったことも事実だし、あんな時でも足を引っ張ろう、俺たちは「正しい側」だと印象付けようという勢力が大きくて、酷い状況だったのも事実だ。
専門家といっても、本当に「専門」なのか分からない。
感染の専門家なのか、ウイルスの専門家なのか、町医者なのか。
専門家が「政治」に足を踏み込むことに是非はあるが、踏み込まざるを得なかった、それは決めない政治のせいだ、というのはどうかね。尾身さんはこの本読む限り元々政治家だし、「踏み込まざるを得なかった」ことの検証があまりなく。
経済については、本の後半に触れてはいたな。
政治家は、この最初からそれも考えている。もちろん利権もだが。
挙句に、専門家の言葉に耳を傾けないのは国民性に問題がある、みたいなことも言い出した。
こういう、責任を取らないマスコミ、ジャーナリズムも問題なんだろう。
結局、何も総括されてない。次に備えてどうするか、全く検討されていない。
そりゃ、過去の大戦すら総括できない国だからしょうがないが、そこが一番問題なのだろう。起きたことはしょうがない。その時々に色んな人が一生懸命頑張った。なんだかんだ言って、日本は滅んでない。ったら結局、「専門家」が消されて、問題なかったんじゃないのか。
だからいいんじゃなくて、次どうするか。何が問題だったか。もっといい対応するにはどうするか。
そういうことへの提言が必要だと思う。
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奔流
コロナ「専門家」はなぜ消されたのか
著者:広野真嗣
発行:2024年1月17日
講談社
3年以上のコロナ騒ぎで、我々一般人が初めてその名を知った人、最も有名になった人、といえば、尾身茂である。もちろん、医師だが、公衆衛生の専門家として、WHOの西太平洋地域事務局長の職務を2期、10年にわたって勤めた人物。選挙で選ばれ、WHOでアジアのトップに君臨。もちろん、次の地位はWHO本部トップの事務局長だが、2006年の選挙に立候補するも敗れている。西太平洋地域事務局長の時には、SARS禍で手腕を発揮した。
そんな尾身は、なんと、初めは外交官を目指し、慶応大の法学部に入ったという。ところが、外交官もしっくりこないと思い、小林秀雄の『無私の精神』に出会い、さらには内村祐之(ゆうし、鑑三の息子)の自伝『わが歩みし精神医学の道』と出会い、医師を目指すことにした。両親にも相談せずに慶応大をやめ、自治医大で学び、9年間の僻地医療義務も終わりにさしかかるころに、目指していた救急医療への道が体力的(体型的)に厳しいことが分かる。そんな時、ユニセフで働く高校時代の同級生に会い、ワクチン接種の重要性を諭される。それが、WHOへ進むきっかけになった。
尾身は、政治判断に口を出しすぎ、とも、専門家としてもっと言うべき、とも、両サイドからの批判を受け続けてきた。よく投げ出さないものだと思った人も少なくないと思うが、著者は彼を「リスクコミュニケーター」として評価する。すなわち、首相、担当大臣(西村)、知事、厚労省(役人)が主体的にやるべき対策を言わないため、テレビに出て尾身が批判を受け、答えるということもあり、それを繰り返したことでそれが成し遂げられたという。
これは、外交官を目指してきたこと、また、WHO生活20年間のうち、選挙で選ばれて地位についたアジアのリーダー10年間のなかでの、彼自身が目指してきた本来の立場でもあるようだ。彼は、臨床的な医師の立場ではなく、あくまで公衆衛生の専門家でありながらも、経済や社会のことを考えて選択肢を提案することを職務としてきたようである。
go to トラベルには明確に反対したが、政治の力に屈したようであった。真相は、以前から言われている旅行業界のドンである二階俊博と、地方の中小企業と深いつながりのある公明党が強引に進めたためだという。結果は、いうまでもなく医療崩壊を起こし、東京を外すなど応急処置に追い込まれていった。
この本は、とくにこれまで明かされなかった裏事情を暴露しているようなものではなく、時系列的にコロナ禍での専門家(分科会)と政治の動きについて整理して紹介する内容である。とりわけ、尾身茂については3年半の間に14回のインタビューをしていると自慢している。そして、ふた回り以上先輩の尾身を「理想の上司」と仰いできた京都大学大学院教授の西浦博、さらには、その間の年齢となる東北大学大学院教授の押谷仁の3人の動きを中心に語られてく。ただし、押谷には、途中、著者の書いたある記事に激怒され、以降はほとんど無視されるようになったらしい。
西浦博は、数理モデルが専門分野で、第1波の感染拡���期に「人と人の接触を8割減らせば1ヶ月で感染者を急減させることができる」としたため、「八割おじさん」と呼ばれるようになったらしい。その前に、対策をしないと死者は42万人になるとも試算していた。
押谷仁は、ウイルス感染症のデータ分析では世界的に名の知れた研究者で、WHOで尾身の部下だった時期もあったようだ。彼も、高校時代は医学ではなく、文化人類学の梅棹忠夫やルポルタージュの名手・本多勝一に憧れ、京都大学を受験したが不合格だった。そして、翌年、東北大学医学部に進んだという。
尾身は、ずっと時の政権、政治家に都合よく利用されてきた。しかし、go to にはきっちり反対し、オリンピックも「今の状態での開催は、普通はない」とはっきり会見でも言い切るなど、言うべきことは言った。そして、いろいろ言われてもものともしないふうだったが、一度、非常に腹立たしく思ったことがあった。それは、20年3月に全く誰にも相談なしに、安倍晋三が学校を休学にした時だった。
安倍、菅、岸田の3政権のうち、専門家の話を全然聞いていないというか、無視して、自分の都合だけでしているのは岸田政権だったようだ。この本を読む限り、聞く力とやらはまったくなかったようだ。
専門家の試行錯誤は、3段階に分けて整理できるという。
第一期:2020年2月~6月。そこまでの総括として、専門家会議が「卒業論文」と称するものをまとめた。前面に出すぎたとして、発信機会を絞る姿勢に転じた。
第二期:2020年7月~12月、緊急事態に相当するのか、そのワンステップ前か、感染状況を判断するのは国や自治体にまかせ、専門家は表明しないと自制した。それが対処の遅れにつながった。
第三期:2021年4月以降、専門家は再び積極的に感染状況に意見表明する姿勢になった。
積極的→消極的→積極的と試行錯誤し、変化した。政治家を説得することの難しさに尾身たちは直面したことが分かる。
著者の広野真嗣は、神戸新聞の記者から、猪瀬直樹事務所のスタッフを経て、フリーのジャーナリストになった。文章が洗練されていないため、読みづらくはないが、読んでいて退屈だった。ただし、猪瀬直樹が副知事になり、やがて知事になって問題を起こしていき、他のスタッフがみんな離れていった時、自分も早く独立してやめたいのに、もうちょっと、とか、次のこのタイミングまで頼む、とか、ずるずると言われて引き延ばされた経緯が書いてあり、その記述については興味深くて面白かった。
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厚労省内の無線LANは脆弱で、地方の現場とZOOM会議をしていると途中で途切れ、メンバーの私物のポケットWi-Fiを持ち寄って机に並べ、綱渡りのテレビ会議をした。
尾身は東京教育大附属駒場高校時代、短足だったために「ドーナガ、ドーナガ」とドナドナの節で歌われたが、憎めない感じが人気だった。あだ名は「ドナちゃん」で、大学時代にも通用した。
小池百合子は、医師会をバックに当選してきているため、医師会に配慮せざるを得ない状況だった。
OECDの統計によれば、日本の人口100万人あたりの病院数は66で、フランスの45、イギリスの29、アメリカの19を上回っている。救命救急や高度医療を必要とする重症患者向けの��床では、人口あたりの数がアメリカの3倍以上もある。一方で、その7割が200床以下の中小病院で、人や設備が分散しているため、病院にアクセスできても、対処が手薄になる。
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未曾有のコロナ禍の政策決定の裏側で繰り広げられた政治家、官僚、専門家の丁々発止の駆け引き。科学的なデータ分析・評価に基づき正しく政策決定すればいいだけなのになぜ駆け引きが…責任逃れと自分の都合のいいように科学者を使うどうしようもない政治家たちに忖度官僚。ホントに未来はないかも…それにしても「同じ目的であってもアプローチ、考え方これほど多様…。