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原著にあたることなく解説書から読み始めるときはいつも、映画の予告編やあらすじを勉強してから本編に向かおうとする時と同じような感じがする。本書も同様だ。他の人の解釈を通してその原著と向き合う。そのような他人色に染まった解釈のままで終えることがいかに多いか。良き解説者との出会いは次への導きとなる。本書を手掛かりに原著者の文献に(もちろん日本語で)挑戦してみたい。また、手を広げることになってしまいそうである。
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評判の高さを知り、単行本を買うかどうか迷っていたら文庫化した。
ソシュールとかを無駄に引き合いに出さない本。
偉い。
そして丁寧。
精神分析や現代思想にカブレていた十代。
ラカンはド真ん中だった。
何かの答えがあると思って。
中年になり再入門して、作者の所謂「居直り」をしているところだと気付く。
「シン・エヴァ」でさようならしたからかも。
人生の折り合い。
無限に先送りされる欲望。
永遠に遠ざかる風景。
遠い座敷。
仄めかし。
水で書いた名前はすでに蒸発した。
砂に書いた名前はすでに波でさらわれた。
シーツに遺された残り香。
熱で魘されていると、聞こえる何か。
何者かが、いや隣室で両親が、語らっているらしい。
気配。
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めちゃめちゃおもしろかった
《他者》の世界にいながら、《他者》とは関係のない幸せを探す
別の角度から、また人生の指針を上塗りされたような感覚
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『ゼロから始めるジャック・ラカン』
ようやく読了。
今まで自分がなんとなく抱いていた「精神分析」という単語からくるイメージは、ほんとうにいい加減なものだったんだなと実感した。
その人の生き方に迫っていく関わりは、診察の場面でも幾分当てはまるのではないか。厳密ではないにしても、一般診療における精神分析的な医師と患者の関わり方に可能性を感じる。というより、大なり小なりそういった関わり方が、今の臨床現場でも自然発生的に起こっていることがあるのではないかと思った。
《他者》の承認に依存しない〈特異的な幸福〉。自分も見出していきたい。
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入門書として分かりやすく丁寧で、思いやりがある本だった。《他者》の存在や「《他者》に裏切られた!」という気持ちがなぜ存在するのか、それらをどう理解し折り合いをつけるか、などを理論的に読め、気づきを得られたことは良かった。抱えてきたモヤモヤを言語化出来る素晴らしさがこの本にはあった。
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■評価
★★★★☆
■感想
◯精神分析は時間がかかるやり方であるし、自分で答えを見つけ出さないといけない。先生は話は聞いてくれて、たまに気付きや斜め上に発送を飛ばせそうな言葉に対してのヒントをくれるのみというのが新鮮だった。答えを求めていっても、答えは教えてくれない。自分自身の葛藤の中で見つけなければいけないというのが一番の収穫だった。そのために精神科医は傾聴力、賛成も否定もしないで耐えて聞くということが重要ということなので、ストレスがすごい職業だなと思った。
◯《もの》の体験によって享楽を得ることができるが、初めての体験が最高で、それを追い求めるけど到達できないという話があった。これはわかる気がする。サウナ・フルマラソン・性交渉など、初めてのこれだと思ったものは強烈で、後で思い返して享楽できるし2回目を追い求めるが、なかなか収穫隠遁の法則から抜け出せない。だから変化・改良改善を求めたり、べつの《もの》の体験をするんだと思う。中断して別のものに行くのは、暇つぶしや勉強としての態度としては非常に楽だなと思った。
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ラカンの理論は勿論容易ではないのだけど、書かれてあることは、今まで私の人生において実感してきたことばかりだった。
我々が他者の世界に生きている限り、欲望は無限にズレていく。その不可能性に気付き、他者を神格化するのとは別の方法で「特異的な」幸福を見出さなければいけない。私が感じている根本的な居心地の悪さは当然のもので、その特異性から生まれてくる無意識の主体と上手くやっていかなければならない。
まんま『血の轍』やん。「再生の風景」やん。
エヴァンゲリオンやん。精神分析まだまだインチキなんかやないと思う。
あとは空虚さのところとか、「もの」の体験で、最近読んだ椎名麟三とアル中らもを思い出した。アル中もヤク中も砂糖中毒も口寂しいだけなのかもしれんね。
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一般的な医療は勿論、臨床心理学等とも異なった「言語」を用いて分析主体(一般的に言う患者)の生き方を見つけ出すことのサポートをするのが精神分析
実践と理論について、概観とはいえ重要な箇所を説明してるところが素晴らしいと思った
精神分析の目的について、実践的な説明の上理論的な様々な視点から説明が施されているため、精神分析ならではの「特異性」を感じた
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まだまだ分からない部分が多く、またどこかの岐路で読み直したいと思う。
でも不思議と生きていく勇気をもらえた。
すべての人には特異性というそれぞれの幸福がある。
過度に一般化すること、抽象化することに意識を傾け過ぎていたなと感じた。
読む前と読み終わってからとでは、見え方が変わったと感じる。
全体的に色が鮮やかに濃くなる感じ。
この感覚を忘れずに生きていきたい。
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難しかったが、ラカンの解釈本の中ではとても読みやすいのだろうと思った。例えが親しみやすく、イメージがはかどった。
ありのまま、欠けたままの自己を抱えて生きていくということ、それを援助することは、精神分析以外の臨床にも通ずる考え方だと個人的には思った。
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ラカンが『フロイトに帰れ』と主張していたことは有名である。私がラカンについて何か読むとき、いつもそれが不思議だった。フロイトのエス-自我-超自我の論を読む限り、どう考えても自我心理学、つまり自我を強固にしてエスと超自我をコントロールし、現実への適応能力を高めることを重視する、そういうふうにしか読めないからだ。ところが、ラカン理論は自我心理学とは程遠いものである。その疑問に、本書を読むことで一つの回答が得られたように思う。『フロイトに帰れ』とは、フロイトの書いたものへの回帰ではなく、フロイトにそれを書かせた無意識への回帰なのだ、そのように理解した。
本書は極めて理解しやすい形でラカンの精神分析理論を解説している。著者が『何よりもまず、精神分析の固有性を明確化することに専心した』と書いており、この目標は成功しているように思う。精神医学や臨床心理学との違いはもちろん、後期フロイトですらそこに含まれるような自我心理学的精神分析との違いも明瞭になった。前半1/3で『第Ⅰ部 精神分析とはどのような営みか』を解説し、その後に理論編である『第Ⅱ部 精神分析とはどのような理論か』を置く構成は、この目標に見事に対応している。
精神分析とは、言葉だけを用いて、『自由連想』と『解釈』をプロセスとする実践である。自分も知らない無意識を想定し、そこに根源的なものが潜んでいると考える。効率の良い治療ではなく、時間もお金もかかる。
精神医学の目的は患者の治療であり、臨床心理学の目的はクライエントの援助である。投薬治療を中心とした精神医学について、著者は『「〈生き方〉を見直すことで精神的負担が緩和され、その結果神経伝達物質の分泌バランスが良くなる」はずなのに、いつの間にか「神経伝達物質の分泌バランスを良くすれば、精神的負担が緩和される」というように、原因と結果の関係が逆転してしまっている』と指摘する。私は実にもっともな指摘だと思う。さらに著者は、その裏には『資本のシステムが円滑に動くために病者を操作し管理すること』という目的が存在すると書く。これもある意味そう認めざるを得ない真実だと思う。要するに早急な社会復帰が最優先だ、ということになるが、一社会人である私が病に陥ったとしたら、仮に資本主義のシステムによる奸計なのだと思っていたとしても、やはり早期の社会復帰を望むだろう。生活があるのだから。
しかしラカン的精神分析の目的は違う。それどころか『「健康」という考え方もありません』というのは驚くべきことだと思う(他の精神分析学派には普通に健康の概念があると思う)。著者は『症状をなくして健康になることではなく、その人が自分自身で納得できる〈生き方〉へと踏み出していけるようになること』、その人の『特異性』を目指すこと、これが精神分析の目的になると主張する。それは『「自己実現」というような輝かしいものよりも、一種の開き直り、つまり「自分はこんな人間だから仕方ない」というような居直りだと考えた方が良い』ということだ。
分析の臨床においては『いたずらに他人を理解したり共感したりすると、他人が持っている特異性を殺すこと』になるので『一見して優しい言葉の中に秘められた一種の暴力に、分析家は敏感でなければならない』と警告する。安易な理解に妥協すれば、『特異性』、つまり『〈もっと他のこと〉は決して出てこない』のである。『ラカン的精神分析が相手にするのは、自我よりもむしろ主体』と説明されるが、これは『特異性』が抑圧されることで生じた『無意識の主体』であり、通常の意味とは違って『「能動的なもの」「統御するもの」「理性的なもの」「意識的なもの」という性格が全くない』ことを理解しておく必要がある。排除された『特異性は暴力的に自らの姿を現そうと』した結果が、もろもろの悩みや症状なのである。
『人間の心の領域の区分』として『想像的なもの・象徴的なもの・現実的なものという三つの要素』が区別される。
象徴界は『言語の領域』であり、『狭義の言語構造』だけでなく、文化のような『人間の表象活動がもつシニフィアン的な構造の全体』までもを含む概念である。それは想像界、つまり『イメージの領域』も制御する。なぜなら『イメージに触れる際も、言語を把握する際の仕方が大きく影響』するのであり、普通の意味での現実とは『言語とイメージ(象徴界と想像界)による構築物』なのである。象徴界は、『「ルール一般」のような意味』を司る『〈法〉の領域』でもあり、『象徴界には「言語=文化=〈法〉」という等式』が見いだされる。
『鏡像段階』とは『神経系が未発達の状態で』生まれた人間が、鏡像という『他者』において『自分を対象化』して、『神経系の統一が発達する前に、それを視覚的に先取り』し、『精神分析的な意味での〈身体〉』を体験する過程である。この『身体』が『自我』の起源となる。重要なのは、言葉どおりの『光学的に鏡に映った像』だけでなく、『自我の像を与えてくれる他者一般』が含まれた概念であることだ。この事態について『自我は他者があってこそ成立するもの』と説明される。その成立に必要な他者を区別する概念が《他者》、いわゆる大文字の他者Autreである。普通の他者は想像的なものであるのに対して、《他者》は象徴的なものである。著者は『あくまで親という大文字の《他者》が保証してくれるおかげで、鏡像という小文字の他者が機能する』と説明する。さらに『人間に無意識があることと、人間が《他者》の世界の中に生まれてくることとの間には、厳密な因果関係がある』とされ、さらに『無意識の主体は、言語の世界への参入によって誕生する』と明言される。だから、無意識を構成するのは、『抑圧されたもろもろのシニフィアン』であり、『無意識とは《他者》から受け取ったシニフィアンの集積』である(ラカン『無意識は《他者》の語らいである』)。『抑圧されたシニフィアンが形を変えて回帰することにより生まれるもの全般を無意識の形成物』と呼び、その代表例が『夢』である。精神分析では『無意識の形成物を手掛かりにして、形成物が表現するものと抑圧されたシニフィアンとの間の結びつきを回復させること』で、『無意識の〈法〉との関係が変化する』ことが目指される。
フロイトの『エディプス・コンプレクス』も、ラカンによって『幼児が《他者》の世界の中に投げ出されて、主体としての存在を確立していく過程��、さらには『《他者》の欲望を自分の欲望として身につけていく過程』として再解釈される。
この章が極めて難解なように感じるのは、父・母・ファルスといった語が、(1)通常の意味のそれらと大きく異なる、(2)フロイトの意味のそれらとも大きく異なる、これが理由になっているように思う。フロイト自身ははるかに生物学的な書き方をしているので、父・母といった語も、その日常語のままにしておく意義が大きい。だがラカンにおいては、ここまで換骨奪胎するなら新しい専門用語を造ればよかったのに、という気がしてならない。著者もここには気を遣ってくれていて、随所で例えば次のような注釈を入れてくれる。
『フロイトですら多くの場合〈父〉を想像的な次元でのみ捉えています。しかしそうした想像的な父親像と、ここで述べている象徴的父は異なります。』
〈母〉は『「子供が出会う最初の《他者》」であり、それは子供を保護・養育する存在全般』である。〈父〉は『〈法〉を保証し、司る機能そのもの』として『《他者》の世界に〈法〉』をもたらす『《他者》の《他者》』であり、その意味で『個人として現実に存在するものではなく、一つの機能』である。…もうこれだけで、母とか父とかいう語を使うべきじゃないと思う。
最初の《他者》である〈母〉、多くの場合は通常の意味での母親、に対する『愛の要請』は『「あなたがそこにいること」そのもの』を求めるものであるが、『《他者》が異質であり、自分との間にギャップがあるから』完全に満たされることはない(ラカン『愛とは持っていないものを与えることである』)。このギャップから『欲望』が生まれる。これは生理的な欲求とは異なり『決して充たされない不満足』である。幼児の〈母〉の『言葉の中に』存在する《父の名》によって、『普遍的なものとしての〈法〉が導入される』ことで『第一に従うべきは〈母の法〉』ではなくて〈法〉、つまり『この世の理』になっていく。この過程において『いろいろとトラブルが生じる』ために『エディプス・コンプレクス』が生じる。『愛の要請』の対象である〈母〉の『現前と不在の背後に』、子供は『〈母〉の欲望を見いだしはじめる』のである(ラカン『欲望は《他者》の欲望である』)。そして、『子供は自分が〈母〉の欲望の対象になろうと』する、つまり『〈母〉の欲望の対象への同一化』しようとする。ここで精神分析における『「欲望の究極的対象」に名付けられた固有の名前』として『ファルス』が出てくるが、『ラカンは「ペニスが特別な象徴的意味をもったものがファルスである」とは』考えず、逆に『ファルスという欲望のシニフィアンがあり、人類はそれをペニスと混同していた』と考える。ラカンにおける『ファルス』は『純粋な欠如』であり『想像的な仕方では把握不可能な「謎の空虚」』である。フロイトにおける『母親にペニスがない』が『〈母〉という《他者》に欠如がある』と読み替えられる。そして『子供は自分が想像的ファルスと化すことで、〈母〉が万能の存在のままでいてくれる』ことを信じるが、『想像的父を前にして』それを断念し、『子供が〈母〉の根本的な欠如』、つまり『去勢』を受け入れることで『エディプス・コンプレクスの終焉』を迎える。
『フロイトは「男児は去勢されることの不安(去勢不安)、女児は去勢されていないことへの羨望(ペニス羨望)によってエディプス・コンプレクス(における父親への憎悪/母親への失望)を克服する」と述べましたが、ラカンは、性別に関係なく「主体は〈母〉の去勢を受け入れることによってエディプス・コンプレクスを克服する」と考えます。ラカンがフロイトの用語を相当改変していることがわかります。』
そして『エディプス・コンプレクス』の解決方法として(1)『〈存在〉(ファルスである)から〈所有〉(ファルスを持つ)へ』移行して『自分の欠如を埋めてくれる対象を他所に探す』ようになった主体が〈男〉となり、(2)『〈母〉の去勢を認めた』うえで『〈父〉のファルスになろう』として、欠如そのものであるファルスを覆うヴェールを身に纏った主体が〈女〉となる。
このように、著者はひとまずラカンに忠実に『エディプス・コンプレクス』を説明した後に『ラカンによって構造的機能にされた〈父〉や〈母〉は、それなりに一般的な「父母」の通念と合致するもの』であるとして『どこまで父権制の伝統を解体できているかどうかは疑問』とする。そして1960年代後半には『ラカンは「ファルスを基準として規定されるのではない女性性」への問いに着手』して『フロイトを越えて、エディプス・コンプレクスの外部にある〈女〉なるもの』を探究したようだ。著者は『エディプス・コンプレクスとは、寄る辺ないまま《他者》の世界に生れ落ち、《他者》の欲望という〈謎〉に直面した子供が、自分の手で作り上げる神話(ものがたり)』として『父権制が残っている社会ではその神話(ものがたり)も父権的なもの』になると指摘する。私もそのとおりだと思う。『エディプス・コンプレクス』自身が、第一にフロイトの生きた時代(性が厳しく規制されタブーとされていた)、第二にフロイト自身の家庭環境、これらの影響を強く受けて成立したものに間違いない。特にフロイトの家庭環境について知ったときは「そりゃ性癖もこじれるよな」と納得したものである。著者は『新たな時代には新たな「中核コンプレクス」が生まれてくる』としたうえで『それでも、きっと変わらないもの』として『人間の幼児が寄る辺ない存在であり、保護者・養育者 としての《他者》を必要とすること、そして《他者》が欠如を孕んだ、欲望する存在であるということ』があり、『欲望の〈謎〉は残る』とする。
1960年代になると、理論の中心にあった『想像界と象徴界の対立は背景に』退いて『「見せかけ(サンブラン)」の名のもと一つにまとめられ』、それと『現実界の対立』が中心になってくる。私はこの章が一番興味深く読めた。
欲望(désir)は『象徴界の〈法〉に従って』いるのに対して、欲動(pulsion)は『〈法〉をはみ出すような過剰なもの』である。欲動は現実界から生まれ、『〈法〉を振り切ってでも満足(享楽)を』目指す。欲動の発想のベースになっているのは、フロイトが語った『死の欲動』だそうである。そうであれば、フロイト『生の欲動』→ラカン『欲望』、フロイト『死の欲動』→ラカン『欲動』、という理解が成り立つように思う。『享楽』とは『快と不快が入り交じる両義的な〈気持ちよさ〉』であり、『快原理の〈法〉という安全装置を逸脱する無法者』として『危険なもの』でもある。私はここでバタイユを思い出した。時代も地域も同じなので、思想的な影響関係があったのだろう(フロイト、コジェーヴのヘーゲル講義、妻と元妻、等々)。『象徴的無意識は不条理なまでに自らの〈法〉を完遂しようと』する一方で『現実的無意識もまた、享楽を得るためには手段を選ばない』とされる。ラカンはフロイトの生物学的な本能論を退けて、『享楽』の起源に『《もの》の体験』を想定する。著者は『享楽』について『最初の授乳体験の中だけに(後から)見出される、すでに失われてしまった満足』だと説明するが、これが正しいかどうか、私には判断できない。とにかく『享楽もつねに〈失われたもの〉』としてしか見いだされない、ということだ。『享楽』の観点から『エディプス・コンプレクス』を再解釈すると『〈父〉は「享楽を禁止する存在」ではなく「享楽の不可能性を教えてくれる存在」』であり、それこそが『「去勢」の意味』となる。つまり、象徴界の膜によって現実界が封じられたようなイメージ、だと理解した。ここで基本的には『享楽はもはや不可能なものになってしまって』いるのだが、『禁止の度合いが高まるほど、禁止の侵犯への誘惑高まり』、『禁止の侵犯自体が自己目的化して』しまうこともある。1960年代の初期では『《もの》は失われた何かであり、享楽は不可能なものである』として『象徴界と現実界の断絶』が強調されていた。
ところが1960年代半ばから、ラカンは『対象a』という概念をとおした日常の『小さな享楽』についての議論を深めていく。『対象a』とは『象徴界のあちこちで見出せる小さな穴であり、象徴界はこの穴を通じて現実界と繋がっている』のである。そして『主体が対象aと結びついて出来上がるものをファンタスム(幻想)と呼び、ファンタスムこそが主体の欲望を根底的に規定する公式になると主張』した。その欲望についても『欲望とは《もの》の享楽を取り戻すことの欲望だ』、著者が言い換えると『欲望の目標とは欲動の満足である』、と再定義される。『対象a』のラカンの定義は『主体が《他者》の世界に参入した際に象徴化されきらなかった残余』である。著者は『変換エラーとして廃棄された一部分』、『見えないところに潜んでいる一種のバグ』、『象徴界の全体性の中に還元できない異物』、『ある意味でゴミのようなもの』、『自分でもよくわからない謎の異物』と表現し、これはかなり分かりやすい表現だと思う。私はバタイユの『非‐知の夜』やウィトゲンシュタインの『語りえないこと』を思い出した。思うに、それは『象徴界』つまり言語的なものからはみ出していく何かであるので、精神分析的に幼児の発達過程に託して語る必要は無いのではないか、そのような言外の余剰や異物は、現在進行形でいくらでも生まれるのではないか、とも思う。著者は、『ファンタスム』は『現実的なものへの問いに対する主体的な答えとして形成される人生の指標』であると書く(『もっとも強大なファンタスムは宗教』である)。そして、精神分析において『ファンタスム』は『現実界に介入するための恰好の媒体』であり、『分析主体が自らの隠れたファンタスムを露呈させ、新たなファンタスムを構築しなおすこと』が促進される。そうやって『新たな〈生き方〉を見出していくことが精神分析の目標���あるという』ということになる。
神経症は『欲望の苦しみであり、それは《父の名》が機能することで初めて生まれる』。これは理解できるように思う。神経症者の苦しみは、過剰なルールによる苦しみであるように思う。
それに対して、精神病は『《父の名》が機能しないこと』、『《父の名》の排除』により生まれる。彼らはにとって『《もの》や享楽は〈法〉の向こう側にある失われた「憧れ」ではなく、つねに自分の近くにある恐ろしい何かであり、世界は享楽という無定形の危険に満ちている』のである。その状態は『あらゆる〈法〉が崩壊し、無秩序に陥ってしまう危険』を孕むので、『自分で世界の〈法〉を作り出し、維持しなければならない』のであり、その結果が『一般に「妄想」と呼ばれるもの』である。この説明も理解しやすい。そこでの分析家の役割は『決して妄想を消失させることではなく、精神病者の妄想を持続可能なものにすること』とされる。あまりに反社会的な妄想は、周囲とそれなにりやっていける妄想に切り替える必要がある、ということだろう。あるいは、この妄想とやらから完全にフリーな人間は存在しないのかもしれない、と少し思った。そうであれば、我々と病者の違いは妄想の強度的なものだけであり、質的な部分は地続きなのかもしれない。
著者は『もろもろの苦しみは結局、人がみな《他者》の世界の中で生きなければならないということに起因』すると書く。そして、残された道は『他者》の中の〈至福〉に依拠しないような自分固有の「幸せ」を見つけ出すこと』、つまり『特異性』に他ならないとする。それは『幸せがないことをそのまま肯定するような〈生き方〉』、『誰が何と言おうと、自分の生き方をそのまま肯定するような態度』を示す。
『すべてうまくはいかなくても、それでも、新しい日々に踏み出したい人のために精神分析はあります。』
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自己啓発本として書かれたと思しきこの本。その割にはフロイトをそれなりに知っている前提で書かれた箇所が散見されるが、本書で示されるのは著者なりに解釈したラカン論であり、それが粗雑な枠組みのままで提示されるので、まあわかりやすく、そんなに困ることはないと思う。問題は、これではもはやラカン自身の理論は原型をとどめておらず、入門書の体裁をなしたエッセイになってしまっているところであり、ラカンの解説書として中途半端な印象は拭えない。著者がラカンを読んで考えたことを追体験し、新たな人生論を見出すという意味では、立派に自己啓発本ではあると言えるだろう。
それゆえに、この本を読んでいる最中ずっと浮かんでいた疑問は、ラカンを専門に研究する大学院生がこのような典拠も何もなく、全く学術的とはいえない著書を(余暇として同人誌を発行するならともかく)広く世に問う動機は一体どこにあるのだろうということである。しかしこれは研究者というものに対する偏見に基づく穿ちすぎた見方だろう。おそらく、著者は自己啓発本のライターか、精神分析の実践者あるいは教育者を目指しているのだ。そして、それこそが著者が医者を諦め、研究者を諦め、臨床心理士を諦めた結果たどり着いた特異性=幸福という結論なのだろう。人は誰もが活躍できるわけでも成功できるわけでもないのはそのとおりであり、ぱっとしない人生と折り合いをつけていくことは重要である。とはいえ、著者はかなり活躍しているほうであるし、そこで自身も満足のいく業績をあげている。そうした人が現状をひたすらに追認して人生をやり過ごす理論としてラカンを提示するのは、あまりにも憤懣やる方ない卑怯なやり口ではないか。