哲学者を地上から撲滅せよ——と言いたくなる珍書
2005/10/19 21:02
15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
友情という言葉にどの程度の思い入れがあるかは、恐らく育った境遇や年齢によっても異なってくるだろう。この言葉は漠然と使われる場合が多いが、実際にはそれを意識する個人の資質や社会のあり方に左右される度合いが高いからだ。だから、例えば高橋英夫は『友情の文学誌』(岩波新書)で、近代日本の文学者という限定を付けた上でこの問題を扱ったのである。
この『友情を疑う 親しさという牢獄』も、タイトルだけから判断すると現代人の友情のあり方について、社会学的な視点からメスを入れたものか、と思いたくなる。ところがどっこい、なのである。冒頭、著者は小学生にあてがわれる「友だち百人できるかな」という歌の文句をとらえて、次のように書く。「同級生が同級生であると同時に友だちでもあるというのは、ありえない」。なぜかというと、「学校と名のつく施設において、(…)生徒や学生に課せられた義務(…)は、ただ一つ、勉強すること」だからである。そして勉強の結果が成績となり、成績が相対評価である限りは同級生は競争相手であるから、つまり利害関係が対立している者同士であるから、同級生は友人ではあり得ない、というのだ!
私はこの箇所を読んでびっくりした。冗談を書いているのだろうか。ところが、先を読むと同じようなことが述べられている。スポーツ選手のライバル同士が友人であることはあり得ない、と同じ理由から著者は断じている。
ここで私はあわてて奥付を見た。中公新書だしそんなにおかしな内容であるはずはないと思って購入したのだが、ひょっとして装幀の類似したトンデモ本だったのかもしれない、と考えたからである。しかし中公新書に間違いはなかった。おまけに奥付の著者略歴によれば、東大の哲学科で博士号までとった人であり、某国立大助教授なのである。
正直言ってここで投げ出そうかと思ったのだが、辛抱して最後まで読んでみた。たしかに哲学者らしく、キケロ、モンテーニュ、ルソー、カントなどなどの友情論を吟味し、各思想家ごとの歴史的背景をも考慮した上で哲学史的に友情を検討している。その意味で勉強になる本であることは、まあ、間違いないのだ。
が、何か大事なものがこの著者には欠落しているのではないか。すなわち、友情という日本語に対する語感である。いや、現代日本人の友情に対する感覚をひとまず離れて、西洋哲学史上の友情概念を検討すること自体は意味がある作業だろう。だが、そのようないわば健全な距離感覚が著者には感じられない。むしろ遠い時代、遠い西洋の友情概念を勉強することにより現代日本の友情感覚を断罪しようとするかのような趣きがあって、そうした意図は「あとがき」にはっきりとした形で姿を現している。
哲学者——哲学研究者と言うべきか——はこの世に必要なのか、と言いたくなる書物だ、と評さざるを得ない。
投稿元:
レビューを見る
また こんな本読んでしまった・・ 昔は絶対に読まなかったのに 最近人間不信で ちょっとめげてます。なのでこの本読んだんですが 「友情とは遷いやすいもの」で 「人に求めてもいけないもの」だそうです。結局、私の問題で相手を誤解して 人間不信になってるんだと言うことで納得しました。 きっと相手も私のことで、人間不信に陥ってるんだろうな ごめんなさい 反省してます。早く仲直りしましょう。
投稿元:
レビューを見る
タイトル勝ち。友情にまつわる問題が公共性の問題だとは気づかなかった。哲学者が友情をどのように疑ってきたか、どういう問題と認識していたか、を記述した書。
投稿元:
レビューを見る
中島義道かよ!なタイトルとは裏腹に、とても安定した内容。安定している割には書き手のこだわり?が目立つ本。
ルソーの影響力にはフランス革命が補助的役割を担ってる、っていう説明にへええーでした。
投稿元:
レビューを見る
本文中に何度も現れる「友人とは何か、友情とは何か」という問いに哲学の歴史の中で答えは3通り。
一つ目が、友情とは公共の空間を成立させるための基盤であるとするもの。
二つ目が、本当の友人とは自分の「分身」であるとするもの。
三つ目が、利害の一致などでの親密な雰囲気を友情とするもの。
実感に近い、三つ目の見解はルソーによるものだが、著者はこの考えに嫌悪感に近いモノをあらわにし、徹底的に軽蔑している。「親しさ」と呼ばれるものが如何に「友情」を汚すか、そのことを繰り返す。
「親しい」とは異なる「友情」を考え、著者もまたアリストテレスの遺言に戻ってくる。
「友人たちよ、友人などいないのだ」
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
友人。
誰のまわりにも一人はいる身近な存在と考えられている。
しかし、友人との付き合い方にルールはなく、友人が私たちに何を運んでくるかは予測のつかぬ謎である。
誰が友人か、どこに友人はいるのか、友人と親しさの差異は何か、そして友情の政治的機能とは…。
本書は、哲学者たちの友情論を手がかりに、公共の空間における対人関係の本来の姿を描きながら、友情の消滅の危機と、それが原因の国家の危機を遠望する。
[ 目次 ]
第1章 友人という謎(学校に友だちはいるか;スポーツ選手の「友情」 ほか)
第2章 危険な友情(「友人」たちの犯罪;問題の発見 ほか)
第3章 友情の神秘(モンテーニュとラ・ボエシー;なぜ彼なのか ほか)
第4章 人類への友情(友人としての人間;合意形成と友情 ほか)
第5章 友情という幻想(友愛と友愛化;幸福な者への憎悪;「引力」の呪縛;友情の黄昏;統合の問題)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
親しい友人がいることは無条件にいいことだと思われている。
友人の数が、すなわちその人間の価値だとみなす風潮がある。
TwitterやFacebookなど、ソーシャルネットワークでも、フレンド数の多さが競われたりする。
名刺の数が「人脈」と称され、仕事の能力とほぼイコールだと考えられている。
確かに、人と人とのつながりは尊い。人間は一人では生きていけないから、人間同士のネットワークが大事なのはあたりまえだ。しかし──。
「あいつは人付き合いが悪い。だからつまはじきにしてしまえ」。
「あいつは友達だから、特別に便宜をはらってやろう」。
「同じ釜の飯を食った友人なのだから、不正にも目をつぶるべきだ」。
「能力のない首相だが、永年のつきあいだから支持しよう」
こうして見ると、社会の不正、停滞、犯罪の根っこに、しばしば「友情」が隠されていることもまた確かではないだろうか。
本書はこうした「友情」の逆理を見据え、「絶対的によきこと」とされている「友情」が、むしろ思想史の中では危険視されてきたことを明かす。冒頭、アリストテレスの末期の一句「友人たちよ、友人などいないのだ」から始まり、ルソー、カントに至るまで、思想家のさまざまな考えが紹介される。「友情」はえこひいき、付和雷同、烏合の衆を生み出しやすい。だから一部の哲学者たちは国会など公的な討論の場における対等のパートナーをこそ友人と呼ぶべきで、意見を同じくする人々の密着した関係を友情とは呼ぶべきではない、とみなしていた。このような議論から著者は結論づける。「少くとも現代の日本では、本当の意味での友情が機能する場所は見い出されないこと、したがって、私たちが『友人』と名付けている知り合いは、本当の意味での友人なのではなく、比喩的な意味で『友人』と呼ぶことができるにすぎない存在であることが明らか」。
「友情」だけではなく「人間関係」全般にまで反省を迫る衝撃の書である。
投稿元:
レビューを見る
キャッチーなタイトルとはだいぶ趣が異なる、西洋哲学の論文だった。忙しい合間に読んでも目に映るだけで入ってこない、ちゃんと素養がある前提でじっくり読まないと無理な本・・・
友人たちよ、友人などいないのだ。
投稿元:
レビューを見る
著者は、「親密さ」が必ずしも哲学者にとって友情の条件として捉えられていなかったことを示す。
むしろ「親密さ」を友情の条件としたルソーは異端であり、友人は助け合うものという思想は全体主義に繋がるものとする。
「現代の日本を、(...)構成員の善意をあてにしなければ成立しないような鬱陶しい社会、友人の有無が生活の質を左右するような親しさの牢獄にしてはならない(...)」
書籍の副題を含むタイトルを顕著に表している一文。いささか過激ではあるものの、同調できる。
同じような思想を持つ者としかつるまず、異なる考え方を監視・排除して結束しようとする全体主義的な考え方は、フランス革命時の恐怖政治やナチス政権にのみ当てはまるものではない。
わかりやすいところで言えばヤンキー集団やカルト集団の在り方に共通するし、学校・職場など日常生活でも少なからず見出すことができる傾向であるように思う。
周囲の人との繋がりを共通項に求め、それを補完し合う関係が心地よいものであることは疑いようがない。
友情や友人の定義が曖昧な現代においてこの心地よい関係を「友情」と表現し、その相手を「友人」と呼び、絆を深め合う中で全体主義化していく。
この過程では、友人に対する善意や好意と、友人以外の者に対する敵意が貢献の指標となり、集団内の相互依存関係が加速していく。
個人が所属する集団は一つではないから、一つの全体主義的集団で得た自己満足はほかの集団においても適用され、友情や友人という言葉を離れて、善意をあてにした集団形成が伝播していくのかもしれない。
だが、このような集団形成は理性による「最も効率的な最大多数の最大幸福の実現」を疎外するように思えてならない。
私はできることならば、各人によって異なる視点を擦り合わせて合意を形成し、それに向けて善意ではなく目的意識でもって形成される集団に属したいし、それができる関係性を友人と呼びたい。
内容は西洋哲学に特化しており、私自身が高校時代に感じていた西洋の思想および社会構造のダイナミックな世界史の流れに対するロマンを思い出した。東洋思想版も読んでみたいものである。
最後に不躾ながらも著者の印象について。
あとがきにて著者は、友情という言葉が「使えない」ものだとし、この状態を以下の言葉を用いて嘆いている。
「未来というものは、明日というものは、誰にとってもいかなるときにも一種の闇でしかありえないのであり、私たちは、その闇へと後ろ向きに、ボール・ヴァレリーの言葉を使うなら、「あとずさりして」入って行くことしかできないのである……。」
哲学者ゆえの悲観というべきか、(自分が以前は同様の考え方をしていたことは棚に上げて)暗すぎて笑ってしまった。
「友情」や「友人」という言葉が使い物にならないことへの空虚感はさておき、言葉をめぐる曖昧さをもって未来に対して闇のみを感じるのはいささか短絡的という気がする。言葉というものは、時代、地域、思想によって定義を変えていくものであり、その曖昧さゆえに見出すことのできる危機や、それを未来において打開しようとする意欲や希望をもつ余地のあることを本書は教えてくれたように思う。
2018/05/27