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死について、著者はキリスト教信者でプロテスタントであるというスタンスで、自身の死生観を述べつつ、古今東西の哲学者や文化人、ビジネスマンなどの死に対する考え方の言葉や文章をピックアップし解説した一冊。
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誰もが死ぬし、わたしも死ぬ。
当たり前のことだけれど、死生観について改めて考えたことはなかったし、他者の死生観について配慮しようという考えも浮かばなかった。
時代や文化、宗教によって死生観はさまざまで、それらのどれもに正解はない。
ただ、いつか死ぬということに目を瞑って生きていくことは独りよがりな生き方になりやすい、という著者の意見にはっとさせられた。
自分なりの死生観を模索し続けたい。
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「死」を前にした賢者(だけではないが)の言葉を、佐藤流にコンパクト解説する本だが、余りにも内容が薄く、上っ面をなぞっているだけの本なので、まあ読まなくてもいい本の部類。「はじめに」だけ読んで終わりでもいい。
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慢性腎不全から腎移植を経験し、その間には余命宣告もされていた佐藤優。キリスト教カルバン派を信仰するため予定説で自らの運命と向き合いながら、生き延びられたのは神の思召しであり、至近は映像にも挑戦しようと。そんな同氏が、今一度、人類が持つ「死の言葉」を慰めや勇気づけ、コレクションのように並べて点検していく。
本来、死を担当するのは宗教だ。しかし、そこに挑んだ哲学があった。ニーチェの「超人」である。幾つかの死の言葉の一つとして紹介される。神の死の宣言、そこで登場する「超人」。ニーチェの語る超人は神という絶対的真理に受動的に従う人間を拒否して、より強くより大きくなろうとする「力への意志」を持った強固な存在。超人はキリスト教の神が約束する死による平穏を拒否して、永劫回帰によって繰り返される生の力の発露である永遠を求める。死は救いではない。死などを求めても生の力に溢れた永遠は掴めないではないか。
その通りだ。一粒の麦となり、私個人の肉体の滅びを肯定する途端に、死は美化され、殺人すらも正当化しかねない。彼我の区別なくエゴを捨てて、耽美な死後を思う時、私があなたを殺めぬ理由があろうか。人工的な宗教には超えられない。何故なら神は人間には解釈され得ないからだ。
極度の貧困や生まれながらに労役に苦しむ人たちは、現世に救いがない。こうした人々に救いを与えるために、欺瞞を承知で天国を創作した。
グノーシス主義とネオプラトニズムの結晶として、肉体が滅びても魂は永遠に生き続けるという考え方が生まる。このような思想をキリスト教に導入したのが、神学者アウグスティヌス。彼は神の国と地上の国との違いを強調し、地上の国から離れ、神の国に向かった魂はそこにおいて永遠の命を生きると説きました。その後、この思想はカトリック思想の中に深く入り込んでいく。
色んな人の言葉が紹介される。印象的だったのは一休だ。「世の中は起きて箱して寝て食って後は死ぬるのを待つばかりなり」。死に臨んだ一休の言葉「死にとうない」、その解釈を佐藤優は述べる。ただ単に思ったことを発したに過ぎないと感じる。
死の存在を忘れたまま死ぬのが良いか。メメントモリを意識するのが良いか。いずれが良い人生かという、自らの選択つまり信仰であり、真のリビングウィルである。思考のきっかけになる本。
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偉人たちの名言から生と死を学び直す。【目次】
第1章 死を乗り越える(神は死んだ。―フリードリヒ・ニーチェ;死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。―吉田松陰 ほか)
第2章 死を知って生きる(お前たち、そうやって死を遁れようとしているが、どうせいずれは向こうからお迎えに来る。―ムハンマド;燃えたよ…真っ白に…燃え尽きた。―梶原一騎・ちばてつや ほか)
第3章 死を受け入れる(散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ―細川ガラシャ;死とは死によってすべてから去るものであるとすれば、すべてから去られるときも死であるといってよいに違いない。―森敦 ほか)
第4章 死の周辺を巡る考察(アウシュヴィッツでは死が至高の支配者だったが、死の傍らには偶然があり、これが収容者たちの運命を決めたのである。―ハンナ・アーレント;野心は思考の死である。―ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン ほか)