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2025/02/22 14:33
投稿元:
教養としての軍事史ということで読むには、丁度良い内容と思う。個人的には現代戦史の項は、映画やニュースで見たもの、今起こっていることの背景はこういうことか、これからあれに繋がっているんだと改めて知ることが出来た。もし、現代戦史の項に、これから続編が書かれるとなるなら、このところ返り咲いたトランプ大統領が、現在進行形の各紛争に言いたい放題で振る舞っていることの結果がどうなるか?とちょっと不気味な感じがした。
2025/04/09 19:12
投稿元:
1. 軍事史の多面性と「決戦」の重要性
軍事史は戦争史、戦略史、戦術史、軍事技術史など多岐にわたる側面を持ち、それぞれの内面には様々な観点が要求される学問分野である。
本書は、幅広い軍事史の概要を把握するための入門書として、「決戦」という主題を設定し、解説を進める。
「決戦」とは、様々な背景や思惑が一点に集約された戦闘であり、しばしば歴史に画期をもたらす要因となる。
戦闘はいくつもの「決断」の積み重ねであり、「戦場」は長期的にも短期的にも重要な「決断」が試される場である。
「本書は、歴史を軍事史的側面から新たに捉えなおすことを目的としています。幅広い「軍事史」の概要を把握するため、「決戦」という主題を設定し、これを中心に解説を進めるものです。」
「こうした様々な背景や思惑が、1つの「戦闘」に集約されることがあります。このような戦闘は「決戦」と呼ばれ、しばしば歴史に画期をもたらした要因として紹介されることも少なくありません。こうして考えると、「戦闘」とは、いくつもの「決断」の積み重ねであると考えることができます。そのうえで「戦場」とは、長期的にも短期的にも、重要な「決断」が試される場であると言えるでしょう。」
2. 戦略における目標と原則
戦略において最も重視すべき目標は、「相手の強みを減殺しつつその弱みを利用する」ことである。
戦場の状況は常に変化するため、当初の作戦行動が予定通りに進むことはほとんどない。特に敵の情勢の変化は最も重要である。
戦闘においては、自軍の損害を避けられない中で、敵の意表を突く攻撃(奇襲)が重要となる。
奇襲の成功には、敵軍と自軍の強みと弱みを的確に評価し、比較・対抗させる必要がある。
戦争は軍だけでなく、政府の政策の一部として実行される側面もあり、戦場の指揮官と政府との連携が不可欠である。
「したがって、戦略において最も重視すべき目標は、「相手の強みを減殺しつつその弱みを利用する」ことにあります。」
「戦場の状況(戦況)は刻々と常に変化していきます。これによって、戦闘の次の局面はどうしても予想しづらいものになります。言い換えれば、当初予定していた作戦行動の通りに、順調に戦況が進むことなど、ありえないのです。とりわけ敵の情勢の変化はその最たるもので、実際の戦闘においては、自軍の損害が免れないなかで、敵軍の意表を突く攻撃のことです。」
3. 「残滅」と「攪乱」の重要性
最小限の損害で最大限の成果を得る理想的な手段が、「残滅」(敵の兵力を大幅に減殺すること)と「攪乱」(敵の戦意喪失を強いること)である。
大規模な会戦で決定的な勝利を得ることは、「残滅」と「攪乱」を同時に達成する可能性があり、戦争全体の早期終結を促す。
ただし、「決戦」は必ずしも大規模な戦力同士の会戦とは限らず、偶発的であれ小規模であれ、戦略上重要な意味を持つ場合がある。
「そこで、最小限の損害で最大限の成果を得る、「相手の強みを減殺しつつその弱みを利用する」という目標が改めて重視されます。この目標を達成する理想的な手段が、「残滅」と「攪乱」です。「���滅」とは敵の兵力を大幅に減殺することで、「攪乱」とは敵の戦意喪失を(なかでも想定外の機動や奇襲によって)強いるものです。」
「「残滅」と「攪乱」が一体となり、大きな効果をもたらす傾向にあるのが、大規模な会戦です。大規模な会戦で決定的な勝利を得ることができれば、敵の兵力を大幅に減殺できるばかりか、その戦意をも挫くことが可能となります。これは、戦争全体の早期終結を大きく促す主因となりうるのです。」
4. 歴史上の個々の「決戦」の分析
本書では、古代から近現代に至る様々な「決戦」を取り上げ、その背景、戦闘経過、勝敗の要因、そして歴史的影響を詳細に分析しています。以下はその一部の例です。
メギッドの戦い (紀元前15世紀): トトメス3世の中央突破の決断と、勝利後のプロパガンダ戦略が、エジプト新王国の確立に大きく貢献した。
「トトメス3世はこれを一蹴します。安全な北か南の道を通ることは、どちらも恐らく大軍が配備されているだろうと反論します。対して、中央の道は大軍が移動するには不便だからこそ、敵も警戒していないに違いないと、トトメス3世は判断しました(①)。これが、彼の「決断」でした。」
カンナエの戦い (紀元前216年): ハンニバルの卓越した戦術と、ローマ軍の兵力過信がもたらした殲滅戦。しかし、その後のハンニバルの戦略的失敗とローマの持久戦略により、第二次ポエニ戦争はローマの勝利に終わった。
「兵力で圧倒的に下回るハンニバルは、ローマ軍の布陣を分析し、歩兵では劣るものの騎兵戦力では自軍が勝っていることを察します。そこでハンニバルは、自軍の中央部隊を軍の最前線に置き、また兵力もあえて薄くします。」
アレシアの戦い (紀元前52年): カエサルの築いた二重の包囲陣と、ガリア側の連携の欠如が勝敗を分けた。この勝利により、カエサルはガリア全土をローマの支配下に置いた。
「こうして、総延長28kmにも及ぶ包囲網が構築され、ローマ軍はこれを約3週間という短期のうちに仕上げます。この包囲網については、カエサル自身が記した『ガリア戦記』にも詳細に記録されており、マンドゥピィなどを頼りに再現した構造物は、以下のようになります(図12)。」
チヴィターテの戦い (1053年): ノルマン騎兵の突撃が歩兵中心の同盟軍を打ち破り、南イタリアにおけるノルマン人の勢力拡大を決定づけた。
「戦闘はノルマン軍右翼の騎士隊が突撃したことで始まります。この突撃は成功し、イタリア・ランゴバルド兵部隊は狼狽し、たちまちのうちになすすべもなく撤退します(②)。」
襄陽・樊城の戦い (1268-1273年): モンゴル軍が中国から導入した攻城技術と、南宋側の抵抗が長期にわたる攻城戦となった。最終的にモンゴルが勝利し、南宋の滅亡へと繋がった。
「モンゴルは中国から先進的な攻城技術を吸収します。投石機や城壁の掘削、さらには火薬兵器など、これらの技術や兵器をより改良・洗練させたのです。攻城技術を習得したモンゴル軍は、騎馬軍団の限界を突破したと言えるでしょう。その好例が、襄陽・樊城の戦いです。」
アイゴスポタモイの海戦 (紀元前405年): スパルタ軍の奇襲によりアテナイ艦隊が壊滅的な打撃を受け、ペロポネソス戦争における��テナイの敗北を決定づけた。民主政における衆愚政治の危険性も示唆している。
「さて、アテナイはこの海戦で致命的なミスを犯したと言えます。そもそも、この海戦はリュサンドロス率いるスパルタ軍が押さえた、アテナイへの穀物輸送ルートの奪回が目的でした。穀物輸送ルートを押さえれば、アテナイ艦隊の本隊が出撃することは明らかであり、リュサンドロスは最初からこの海戦で、アテナイ艦隊に決戦を挑むつもりだったのです。」
ラウペンの戦い (1339年): ベルン軍の長柄槍兵の組織的な運用と、指揮官の適切な「決断」が、数に勝るフリブール連合軍を破った事例。
「エアラハはここで全軍に突撃を命じます(③)(図28)。数で勝るはずのフリブール連合軍は、この決死の突撃に狼狽し、総崩れとなります(④)。」
パヴィアの戦い (1525年): 火砲の有効性と、騎兵中心のフランス軍の戦術の限界が露呈した戦い。フランソワ1世が捕虜となり、イタリア戦争の帰趨を決定づけた。
「フランス軍は6000の歩兵と3000の騎兵からなり、そのうち約3分の2がジャンダルムgendarmeと呼ばれた重装騎兵です。これにスイス傭兵8000にドイツ人・イタリア人傭兵合わせて9000の総兵力1万9800となります。」
鄱陽湖の戦い (1363年): 朱元璋の水軍が、火攻めなどの奇策を用いて陳友諒の水軍を破った大規模な河川戦。朱元璋の中国統一への道を拓いた重要な戦いであり、「三国志演義」の赤壁の戦いのモデルになったという説もある。
「朱元璋は風向きが東北、すなわち敵艦隊に向かって変わるのを見て取ると、決死隊を組織し、7隻の船に火薬を満載させて火船とします。火船は敵に悟られないよう、鎧を着せた藁人形を乗せる念の入れようでした。これを漢の水軍に突撃させるのです。」
ジョーン・モドの戦い (1696年): 清朝軍が火砲の優位性を活かしてジュンガル騎馬軍を破った戦い。騎馬戦力の時代の終焉を象徴する出来事であり、清朝によるモンゴル支配を確立した。
「清軍歩兵はジュンガル騎馬兵を引き付け、射撃に耐えながら徐々に前進します。この戦闘で、清軍はジュンガル軍を見下ろす高台を占領し、ここに砲兵を配備します。清軍砲兵隊は高台からジュンガル軍を激しく砲撃し、これによりジュンガル軍は野営地もろとも大損害を被ります(②)。」
ケベックの戦い (1759年): イギリス軍が奇襲的な上陸作戦でケベックを占領し、フレンチ・インディアン戦争(七年戦争の一部)の帰趨を決定づけた。難攻不落と思われた要塞の脆弱性を露呈した。
「9月上旬、ウルフはフランス軍より脱走したイギリス軍の捕虜より、エイブラハム平原に続く抜け道の存在を告げられます。これを受けてウルフは、大胆な行動に出ます。即座に軍を動かし、セントローレンス川を渡ってエイブラハム平原への上陸を断行したのです。」
アウステルリッツの戦い (1805年): ナポレオンの卓越した戦術により、第三次対仏大同盟軍を破った戦い。戦場の霧を利用した欺瞞、敵の弱点を突く中央突破など、ナポレオン戦術の最高峰を示す事例とされる。
「ナポレオンはここで「決断」をします。モラヴィアの連合軍を追跡し、これを迅速に撃破することにしたのです。」
ゲティスバーグの戦い (1863年): 南北戦争の転換点となった会戦。北軍の堅固な防御陣地と、南軍の度重なる突撃の失敗が勝敗を分けた。
「リーはここで自軍の勝機は、敵軍よりも先に北上してペンシルベニアに進出し、決戦に持ち込むことにあると判断します。」
ナッシュビルの戦い (1864年): 北軍が南軍を圧倒的な兵力と火力で破り、西部戦線における南軍の組織的な抵抗を終焉させた。
「トーマスは周到な準備を整え、フッドの南軍が攻勢に出るのを待ち構えます。そして12月15日、ついにトーマスは攻撃を開始します(図46)。」
ケーニヒグレーツの戦い (1866年): プロイセン軍の最新兵器(ドライゼ銃)と、参謀総長モルトケの冷静な指揮が、オーストリア軍に決定的な勝利をもたらし、普墺戦争の帰趨を決定づけた。
「プロイセンのドライゼ銃は、それまでの前装銃に比べて連射速度が格段に速く、伏せた姿勢での装填も可能でした。これに対し、オーストリア軍の小銃は旧式であり、連射速度も遅く、命中精度にも劣っていました。」
呉淞の戦い (1842年): アヘン戦争におけるイギリス艦隊と清朝水軍の戦い。イギリスの蒸気船ネメシスの圧倒的な火力と機動力が、帆船主体の清朝水軍を打ち破り、軍事技術の差を明確に示した。
「ネメシスの動力となった蒸気機関の開発もまた、イギリスの産業革命による産物の一つです。さらにネメシスは、当時としては珍しく船体および内装が鉄製であり、また喫水が1.5mと非常に浅いことにも特徴があります。」
イサンドルワナの戦い (1879年): ズールー王国の軍隊が、イギリス軍の油断を突いて大勝した戦い。しかし、最終的には近代的な装備を持つイギリス軍がズールー王国を制圧した。
「ズールー軍(インビ)はその布陣から「バッファロー(アフリカスイギュウ)の角」と呼ばれ、両翼に「角」と呼ばれた部隊(若い兵士で構成)が敵の動きを取り押さえながら包囲し、「胸」と呼ばれた本隊が決定打を与えます。また、「腰」と呼ばれた予備部隊が後方に控え、これはおもに敗走する敵の追撃に用います。」
ガリポリの戦い (1915年): 第一次世界大戦における連合国軍のオスマン帝国に対する上陸作戦の失敗。周到な準備不足、情報収集の甘さ、そしてオスマン軍の頑強な抵抗が原因となった。
「ドイツを中心とする同盟国と、イギリス・フランス・ロシアからなる協商国(連合国)との双方から参戦を打診されますが、当時の帝国で実権を握っていたエンヴェル・パシャの意向により、同盟国側での参戦を決定します。オスマン帝国は仇敵であるロシアへの報復の機会を窺っていたのです。」
ヴェルダンの戦い (1916年): 第一次世界大戦におけるドイツ軍とフランス軍の激しい攻防戦。長期にわたる消耗戦となり、両軍に甚大な損害を与えた。ペタン将軍の決断がフランス軍の防衛を支えた。
「ここでペタン将軍は決断を下します。マース川両岸の防衛線をどのように維持するか?彼は、たとえ左岸を失っても右岸を死守するよう指示します。」
スターリングラード攻防戦 (1942-1943年): 第二次世界大戦の東部戦線における、ソ連軍とドイツ軍の壮絶な市街戦。ソ連軍の「ウラヌス作戦」による包囲殲滅戦となり、大戦の転換点の一つとなった。ハンニバルのカンナエの戦いを彷彿とさせる戦���であったとも言及されている。
「1月ード旬、ソ連軍はスターリングラードの南北からドイツ軍を逆包囲する「ウラヌス作戦(天王星作戦)」を発動します(図59)。」
テト攻勢 (1968年): ベトナム戦争において、北ベトナム軍と解放民族戦線が南ベトナム全土で展開した大規模な同時攻勢。アメリカと南ベトナムを奇襲し、戦争の戦略的転換点となった。
「北ベトナムの政治局(ベトナム共産党)は、有利な条件を交渉のテーブルで引き出すべく、アメリカとの大規模な決戦を企図します。」
湾岸戦争 (1991年): 多国籍軍によるイラク軍のクウェートからの撤退作戦。「砂漠の嵐作戦」におけるハイテク兵器の活用が目立った。しかし、フセイン政権の打倒には至らず、その後のアメリカの対外政策に影響を与えた可能性も示唆されている。
「多国籍軍は、2月24~27日の4日間でクウェート全土を解放し、イラク領内深くへ進撃します。この「砂漠の剣作戦」をイラク側に悟られることなく遂行に成功します。」
キーウの戦い (2022年): ロシアによるウクライナ侵攻におけるキーウへの攻撃。ロシア軍の兵站の脆弱性、ウクライナ側の抵抗、そして無人兵器(ドローン)の活用などが、ロシア軍の撤退の要因となった。
「ロシア軍の兵站の方策は、第二次世界大戦よろしく大量に物資を送り込むというもので、冷戦期までは十分通用しましたが、兵器や機器のハイテク化や細分化が進んだ現在では、途端に混乱が生じることは必至です。さらに、兵站を民間に委託するロシア軍では、兵站システムの維持に必要な士官の育成すら行っておらず、これにより兵站システムの近代化そのものが滞ったままであることが明らかとなったのです。これがロシア軍の陥った誤謬、ひいてはキーウの戦いの明暗を分けた要素と言えるでしょう。」
5. 歴史研究の視点と重要性
戦いの勝敗だけでなく、長期的な視点や当初の戦争目的などを考慮して歴史を評価することの重要性を説いている。
軍事史、政治史、経済史、社会史などは、歴史を考察する上での様々な視点であり、それぞれの観点から現代に至る歴史の流れを考察することに意義がある。
歴史研究においては、史料の精査、当時の価値観の考慮など、多角的な考察が必要である。
研究者だけでなく一般人も、「こういった可能性はないだろうか」という視点を持つことが重要であり、その上で関連書籍や研究を調べることで、情報の精査や多様な観点に触れることができる。
「しかし、より長期的な目線や、当初の戦争目的などに照らし合わせてみれば、勝利や敗北という結果だけを見ることは、戦争を評価するうえでは必ずしも適切とは言えないでしょう。」
「軍事史、政治史、経済史、社会史などは、あくまでも設定する観点(論拠のスタート地点)に過ぎず、そこからどのように現代に至る歴史に合流するかを考察することに、最大の意義があると私は考えるのです。」
「予測あるいはアイデアが浮かんだ方は、ぜひそうした観点で書かれた書籍や研究がないか、調べてみていただきたいのです。もちろん、自分の予測と完全に合致するものは、簡単には発見できないかもしれません。しかし、こうして調べるという作業を進めるだけでも、情報の精査���、多様な観点に馴染むことができるのではないかと私は思います。」
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