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知見、教養豊富な知識人が深い思索と広範な知識を用いてプラットフォーム資本主義社会の構造や見方を言語化してくれたものを本として享受させてもらえるのはありがたいなーと思いながら読みました。
頭フル回転で読まないと全然入ってこないので毎晩新生児の寝かしつけしながら1章ずつ読むのが限界だった。
前半10章くらいまでは面白く読めて理解も捗ったのですが11章の文学批評みたいなところで一気に振り落とされました笑
これはもうしょうがないのですが、問題提起や進むべき方向性の抽象概念まではなんとなく見えるんだけど、その先の具体的な解やアイディアが無いところは自分のような一般的ビジネスピーポー視点では物足りないなと感じつつ、いやいやそういうのこそ資本主義最前線で戦うビジネスパースンの役割だよな。と1人納得しました。(逆に宇野さんのような批評家にそこまで踏み込まれたら仕事がなくなる)
何にしても、万引きは犯罪だよね、とか。食べ過ぎたら太るから良くないよね、とか。寝不足は心身ともに良くないことが多いから寝よう、とか。ギャンブルは身を滅ぼす可能性があるのでやめよう、とか。
そういうレベルでSNS承認交換ゲームにハマるの、人生の貴重な時間と意識の使い先としてはあまり良くなさそうなのでやめよう、という一般常識的に多くの人がリスクを分かっている状態を少なくとも作らないとまずい気はした。義務教育レベルの話。
・資本主義ゲームのゲームマスターたるanywhereな人とプレイヤーにすぎないsomewhereな人がそれぞれで多層的にゲームをプレイしている
・プラットフォーム空間で画一化された身体を通じ、他人の承認、賞賛、評価、嫉妬、欲望といったのものにひたすら突き動かされる、承認の交換の奴隷化する人々
・web2.0がもたらしたのはインタラクティブ性と多様性ではなく低コスト承認交換という実態。事物への思考を奪い、反射的に承認獲得に動いてしまう
・人間関係を切り出して肥大化させたSNSの中はまさに承認交換ゲームの檻である。ここに、自然と偶発、そして人間関係以外の虫や花やあるいはふらりと立ち寄った本屋で見つける本のようなセレンディピティを産む、カオスの場としての庭が必要
・SNSでは簡単に自分の投げかけが波紋を起こせるが、公園などの公共物に影響を及ぼすにはコストが相対的にかかりすぎる
・自分が関わり変えられること、手触り感が当事者意識にも結びつく
・庭は人間外の事物とコミュニケーションがとれ、その事物同士でも外部に開かれた生態系構築でき、人間も関与できるが支配できない場所
・秩序だった組織グループと、バス停の行列のような集団であるコレクティフ、ムジナの庭は後者を意図して設計された
・孤独もまた事物に純粋に向き合うために必要なものである
・強く疎でも密でもないこと、いずれに寄ろうとも中道であろうとも認められること、共同体への無条件の賞賛なき世界
・民主的に選択されていない場所がプラットフォーム以上に求心力を持つことは考えにくい
・コモンズという自治による共同体のための場所ではなく私的な場所が公的に開かれていることが庭の条件
・銭湯のようにありのままの姿で誰も相互承認のコミュニケーションを取ろうとしない、ただ共生するだけの場所
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●読前#庭の話
宇野常寛さんの主張は、理解できないところももちろんあるが、激しく共感できたり、モヤモヤした考えをスッキリさせてもらえたりすることも多いので気になる。本書にかかれている「庭」という概念はいったいどのようなことなのか知りたい
https://mnkt.jp/blogm/b241211b/
●読後#庭の話
「そっか、確かに!」と、一段深掘りできる気づきを多くもらえた。僕もモデラーであり収集気質だったので似ているからか「孤独」に関する考え方には激しく共感。ページや難解な部分も多く、集中力と読解力不足を突きつけられた深みある本
https://mnkt.jp/blogm/b241211b/
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自分が抱いていた共同体への違和感をハッキリ明文化してくれて救われた
社会的ポジ、距離感いろいろ考えさせられる
問いを与えられ、自分で考えるキッカケをくれた
良書と思う、数年後また読み返したい
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初出は文芸誌『群像』の評論。とはいえ硬い評論というよりはエッセイのように楽しめる読みあじだった。障害者雇用施設「ムジナの庭」の事例や銭湯のくだりは雑誌のような構成で、かたや國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』といった哲学書(一般に読まれている状態をふまえ)に対する論考もある。ボトムアップに築かれているSNSでの“承認の交換”の懸念を、“事物と自己との接し方“を強く志向する「庭」でもって対向していくという理解をした(今は)。
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めちゃおもしろかった。が、最後の方理解が追いつかなかった。
個人的には、仕事、家族以外のコミュニティにゆるくかかかわっていたい、それが自分の助けになると思っている。
でも、元来の飲みニケーションや、自治会みたいなもの、、、昔ながらの場を考えるとちょっと違うなぁそのままではなと思っていて
この本の庭の概念、条件が、よりよい場のヒントになるのではと思ったし、生きていくうえでの選択の参考になるのではと。
この本は、社会への提案だが。。
孤食より共食、でなく縁食という話
からのやっぱり孤独が必要という展開も面白かった。
縁食論にしっくりきて好きな考え方だったから、
そこからこうきたかという。
動いている庭、中動態も本を買ったものの積読だったもの。縁食論は読んでた。とか少し自分の興味と通じて、でも出てくる話は多様で、
いろんな場所に連れて行ってもらえた本という感想。
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ここで登場する「庭」とはメタファーであり、半分閉じて半分開放された空間を指す。そこでは独自の生態系がそこに棲む生き物たちの共進化によって成り立っており、「庭」の主たる人間の思惑や思想を超越した偶発性が発生することで人生をより豊かにしていく機会となる。
果たして、科学技術の発展は私たちの暮らしを本当に豊かにしているのだろうか。とくにインターネットの登場は、Web2.0⇒Web3.0とバージョンアップが図られるとともに、誰もが発信者たり得ると無邪気に信奉されてきた。その結果がFacebookやXのプラットフォーマーによる寡占と、フェイクや陰謀論に扇動・動員される民主主義の危機である。
筆者はこのSNSの潮目を読みながら情報の真偽よりも人間関係の承認獲得に勤しむ状況を脱するために、「庭」の重要性を説く。折しもSANCHACOは、保護猫という存在が人間の思惑を超越した生物として君臨し、訪れる人間たちに偶発性を提供している「庭」となっている。個人的にはXを辞めて、Facebookもあまりログインしなくなっている状況だが、高校生からお年寄りまで地域の人間関係が広がっている。
SNSの功罪について、あまりにも露悪的に語っている傾向はあるが、アメリカ大統領から街のお店までSNSでバズることを目的に短期的な利得と承認獲得を目指す社会になってしまった現在において、未来をどのように志向していくべきか個人の行動指標となり得る内容となっている。物事に対する見方や取組み方を他者の承認という外部評価によって決めるのか、それとも「庭」を持って自分と物事の距離感を最適化させるのか、多くの現代人にとって示唆に富む内容である。
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SNS上で潮目を読んでそれっぽいことをつぶやくことで安易に承認欲求が満たせることで、承認欲求中毒となってプラットフォーム上で踊らされてることへの警鐘。他者世界との関係性の中で無意識下にもある自己承認欲求を拗らせずにどうあるべきか。庭を例えに場と個人という観点で深掘りされてる。随所に著者のアナキズムというか偏屈さを感じるけどだからこそ生まれてくる問い、見方が新鮮。
地域のつながりがーコミュニティがーと言ってるうちは、共同体に参加しない自由がないというか、排除的な要素が含まれてしまってるなとハッとさせられた。
デモでも選挙でもなく、日々の自分の選択が社会を作るっていう実感を持つ上で、デジタルプラットフォームの果たす役割は大きいと思うのだけど、そういう庭にできてるかって言うと、問いを立てる側の力量が試されてるなとも思う
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國分功一郎がかつて『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』で提示した生き方(世界から別の世界へ飛び移ることで自分が変わること。それに備えて訓練を積む楽しさ)は、情報社会によってすっかり過去に、あるいは既に達成されてしまっていた。
「庭」という概念を持ち出すことにより、共同体を強化するために承認を交換することからも、社会からの評価に依存することからも解放され、人間らしく生きられる社会が提示される。
ぼくはまた、ほんとうの意味で「生きる」とは何なのかを、考え直さないわけにはいかなかった。
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SNSプラットフォームによる肥大したコミュニケーションに変わる「庭」という概念の話。また「庭」に発展させるための「人間の条件」、「弱い自立」は自分が共同体や働き方について考えていたことが言語化されていた。一番考えさせられたことは、「共同体への回帰」と「孤独」の話。私自身もいじめを受けたことや病んでドロップアウトした今の孤独時代と、寂しさからSNSのグループ運営を経験しているので、両方で得たことと忘れていたことなどを振り返るきっかけになった。そのため、今まで読んできた本の中で一番自分に刺さって「人生のバイブル」にしたくなった。もっと感想を書きたいので、noteで読了記録(制作)するか。
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chatGPTのアクションプラン
1.「観察」を「痕跡」に変える – 誰にも見せない記録
目的: 誰のためでもなく、自分だけの世界の変化を感じ取るため。
アクション:
秘密のスケッチノート: 街の風景や自然の変化をスケッチし、ただ積み重ねる。見返すのも自由。
落ち葉や小石のコレクション: 毎日気になった自然のかけらを拾い、箱にしまう。増えていく過程を楽しむ。
「見えない手紙」プロジェクト: 未来の自分に向けて短いメモを書くが、決して読み返さない。
成果: 自分だけの世界観を育み、誰にも知られない「小さな痕跡」を楽しむことができる。
2.「小さな介入」を「一瞬の変化」に変える – 誰のためでもない関与
目的: 環境や日常に少しだけ影響を与えながら、それを誰に見せるでもなく楽しむ。
アクション:
道端の小石を並べる: 何の意味もない形をつくって、ただそのままにする。
落ち葉をアートにする: 公園の落ち葉を円形に並べたり、ちょっとした模様を作る。誰にも気づかれなくてもOK。
「消える言葉」を書く: 砂浜や雪の上にメッセージを書いて、風や波に消されるのを楽しむ。
成果: 何も残さない美しさを味わい、世界に関わること自体を楽しめるようになる。
3.「未完成」を「流れ」に変える – 途中で終わることを楽しむ
目的: 何かを完成させることよりも、作る行為そのものを楽しむ。
アクション:
途中の絵や文章をあえて放置する: 絵や詩を描き始めるが、最後まで仕上げずにそのままにする。
気まぐれな創作: その場の気分で何かを作る(折り紙、彫刻、粘土)けど、完成を目指さず途中でやめる。
消える創作: 雨が降れば消えるチョークアート、風で散る花びらアートなど、「一時的なもの」を作る。
成果: 完成や評価に縛られず、ただ作ること自体の楽しさを味わえる。
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久しぶりで評論を読んだ。こういうのしばらくさぼっていたというか遠ざかっていた。なんでだろう。自分が参加するが自分ではどうにもならない自然としての庭が必要、というのはすごく説得力がある。戦争論も。ここで災害論じゃなくて戦争論なのはウクライナかなあ。AnywhereなひととSomewhereなひと、地元ヤンキーの人的資本論、される側としての自己の話とかあたりはちょっと違和感あるがまだ言語化できない。庭がプラットフォームになれない/しないのあたりも。共同体怖いし共同体回帰はやめてくれにはとても共感する。生物多様性の豊富さのために人手を入れる話も。時間とってクレマン読んでみよう。制作するだけの時間の取れる仕事の在り方をもっと増やす。そうか、私は共同体にはじかれる恐怖を結構根深く持っている。
最後は、もう少し色々読みたいと思った。
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いわゆる社会の価値交換活動から少し離れて没入できる場をここ数年特に趣味方面のクリエイティブに求めてきたのは、本書でいうところの「庭」での営みだったのだなと腹落ちして、またとないちょうど良いタイミングで出会えた一冊でした。
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庭とは
人物外の事実とコミュニケーションを取る場所
たまたま、偶然に多様な事物に出会うための場所
関与できるが支配できない場所
昭和が舞台のサザエさんなどのアニメでは庭ごしにお隣さんと話したり、何かが出てきたりとして物語が始まる
今の街並みをみると、物語が始まらずいつまでも停滞するように感じる
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プラットフォーム相互承認の快楽に溺れててええんかい、という宇野さんがよく言っている問題設定から、庭のメタファーを用いてどういった場、機会が社会に必要か考える。と言いつつ、場があるだけではダメで、人間が何かを作ることで世界と関わる「制作」的な営みによって、新しい視点を得ていくことが前提として大事なのだ、ということを述べる。
いくつか事例は紹介されるが、どれも論の途中での参照という感じなので、なかなか具体的、実践的なイメージまでいきつかない部分もある。
超絶に雑に解釈してみれば、宇野さんがサブカル批評からキャリアをスタートしたように、自分の好きなものに没頭して価値観が変わる(消費者からその先にいく、みたいな)ような体験、的なことによって、世界との関わり方を変えることが大事なんじゃない、ということだと思う。やや、ポジショントーク的と言えなくもないかも、しれないが。
とはいえ、各所各所で、人の欲求について考えるヒントになる概念や事例も多々出てきて、考えながら読むのは面白かった。
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うーん
テーマ的には志向が物凄いおなじなのだが、頭の中で話がつながっていかない
頑張って読んだが俺には文体が合わなかった
この本がモヤッとしたりあまり理解できなかったのは、社会の体制をどうすべきかという話ばかりで心の持ちよう的な部分に踏み込んでないからかも
踏み込んでないわけじゃないけど、踏み込んでいるようで踏み込んでない