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・作家の小説講座は面白いな。
・内容は「町田康」らしいもの。イジワルな言い方すると、ほんと人となり、書きそう内容、ではある。
・ただ、作家の文章読本が技巧的な話にはあまりならず、そのもっと手前、その人の表現の萌芽を重要視していて、その意味とか表現の仕方にその人が現れていて、そこが面白い。
・映画や音楽の制作講座がどちらかと言うと、この萌芽より技巧的な所にフォーカスしているのは、その表現する際のツールの複雑さ、高度さに依って、という事なのかな、と考えたりした。
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ましかし。
町田康さんに、文書教えてもらおってのが、まず最初の間違い。
あんな文章、文体、いいか悪いか置いといて、真似しようったってできるもんじゃぁない。
うっすらパロディにするのは容易だけど、やれるかどうかでいえば、やれるもんじゃない。
この本はそういうエンタメだ、といわれりゃ、ああそうですかてなもんだけど、折角康さんが書くなら、もっとホンキでおもろい本に時間つこてんかっておもたりする。
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個人的には町田さんの文章が好きなので面白い。
例のごとく話がそれたり表現が分かりにくい、読みにくい部分も多いので、文章の書き方を手っ取り早く知りたい人なんかは向かないかと(本書内でも説明下手だと言われると言っていた)。
ただ、文章を書くうえで参考になると思われる箇所はたくさんあるし、突然核心に触れているような事を言っているようなところもあってハッとさせられたりもしたので、読んでよかった。
とりあえず昔読んだ、いい感じの本を読み返してみたいと思う。
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私は文章を書くのが好きだとはいえ生業としていない故に自己表現っつーか自己満かしらんって言葉はやはりおもろくて内から沸々と放出される瞬間がなんとも心地良くドーパミン分泌させるドラッグと類似してるよねと公言すればケッコー際どい境遇に追いやられるの必至なので嘘ウソとしらばくれるんんんっむむむっと句読点を打たないのは決して気を衒った振る舞いではなくコンマ何秒の脳内を駆け巡る思考且つ感情のフッテージそれをばエディットする私はダイブしてるのよ。思いっきり腹打ちしてるかしらん。
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①おもろっと思った、おもろって思ってる自分を認める
②おもろって考えてる自分はしょーむないもんなんかもしらんと思う
③そのおもろっていうのはどこから湧いて出てきたんか考える
↓
A.雑な感慨ホルダ内に、私のこれまでの人生でおもろって思ったものを詰めてきてて、その詰められたものごとに類似してるから、おもろって判断した
B.町田康の文体からは、勢いというかグルーヴというかほんまに楽しんでノリながら書いてる姿が見えてくるし(と、本人が説明してくれてた)、頻出する(というか私がそこに注目してる、させられてる)「うどん」「吉岡」「はは」「くほほ」「しかーし。」「いやさ」「茲」「窶す」「扨」「というこっちゃ、ちゅうこっちゃねん、ちゅうこっちょ」「〜ことをしたら、〜になって、〜にもなって、〜ということになって、死んでいくほかない。」という全て死に至る構文、などなどの語の使い方、表現に惹かれているという根拠ゆえにおもろっと思ってる。その語の使い方、表現の独特さがどういう理屈のもと用いられてて、どんな効果をもたらすのかを知れたこともまたおもろっと思った理由のひとつである。
③の考察の結果、Aに傾くと思って書き始めたけど、根拠が思いの外するする出てきて案外Bなんかもしらん。いやでも元々町田康の文体が好きやからって理由ならAやんな。
なにをしてるかというと①〜③の作業を、日々バックグラウンドでし続けることで心の錦=ゴミカスをかろうじて認識できるようになり、文章のタネになるとのことやったので、やってみた。
町田康が何度も読んだ『ちからたろう』のように、わたしはこの本を何度も読む本にしようと思た。というか自分はこの文体が好きなんやなと改めて気づいた。早速この本に影響を受けまくって、口語を交えつつ表記をズラしつつ書いてゐる。というようなことを、仕事の文章でもし始めており、これはちょっと考えもんである。時と場合を選ばねばならぬ。この文章論を活かすのは一体自分の生活のうちで、どこなんやろう学級通信かなぁ。とりあえず誰かが読むことを前提とした文章を書くのが最近億劫になってて、この本に助けを求めるように縋るように読み始めたけど、ははーん救われたーとなったところは、自分がおもろいと思える文章を書けばいいのであって、他人を笑かすことを意識するんではなく自分を如何に笑かせられるかってことを基準に書けばええというところです。自分が文章を書くことに対して気負いすぎてたなと思いました。
いやでもやっぱ読み手を意識せずに書くんてやっぱむずいですよね、やっぱって2回重ねてしまうくらいにはむずいです、どうすれば?と思ってたけどその答えも書いてくれてました。救う救われるのところ。生徒に口語体と文語体は混ぜてはならぬと赤ペンを入れていたが、混ぜたってええではないか、と思ってきました。それが意図した表現ならばええです。救う救われるの話を思い出したら生徒を思い出して急に赤ペンの話に飛びました。
末筆ではございますが、ブクログの運営さんこの本にはやくサムネイル画像を付与してあげてください。表紙も好きなんです、素敵なんです、オレンジ色で。
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「適当なことを言うと勝手に文章を生成する畜生」が言葉を量産する現代に、魂のこもった文章を書くということの本質を、『町田節』炸裂のエッセイで面白おかしく学べる本だと思います。
何度も爆笑しました。
ただし、連載ベースなので全体的に構成が体系化されてないのと、多少難解な箇所もあるので、純粋に町田康先生が好きな方向けです。
手っ取り早く執筆ノウハウを習得したいのであれば、ビジネス書コーナーへ。
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子どもの頃の愛読書で何回も読んだものってなんだろう。
本好きだったとはいえ、いまさら思い出すもないかも。
筆者は「ちからたろう」
やはり子供のころから、文才はあったんだろうなと。
難解な話なんだけれど、独特の言葉の言い回しでテンポよく読み進める。
とはいえ、半分も良くわからなかったけれど(笑)
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文章の書き方をテーマにした(たぶん)エッセイ。
よい文章どうのについては、ともかく町田節読みたさで読んだ1冊。
切腹サークルが面白かった(単語)。
「ギケイキ」や「宇治拾遺物語」のエッセンスが随所に感じられて、あの本たちはこういう思考が裏にあって生み出されたのか〜とも思いつつ、面白い(町田氏風だと、おもろい)単語、表現は出てこないかとワクワク読み進めました。
(ははっ、ていう乾いた感じの笑いも好き。)
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文章力を身につけるにはたくさん本を読めと。ただし同じ本を百回読めという。確かに魅惑的な提案だ。そんなに読めばきっと何かを手にするような気がする。町田さん曰くそれは文章変換能力だそうだ。しかし僕には一冊の本を百回読むほど時間は残されていない。学生時代に教えて欲しかった。いい文章を作成するテクニックとして「いけず」したらええんやとか。いわばそれはノイズであり、つるりと転倒しないための滑り止めっていうやつちゃうんかな。そしておのれの「心の糸クズ」に向かい合って、ステレオタイプな感情のフォルダにしまいこまわんことやそうや。これは、たぶん、ネガティブケイパビリティではないかと察する。しかしそれは大変なエネルギーを必要とされるのではないかと思う。「糸クズで人が狂わぬよう、神様は忘却という名のルンバをくれた」と町田さんが言うてるくらいやから。しかし、町田康さんの文章の無駄に饒舌なしょーむないところと、そのリズムが好きや。翻弄といといされるわ。
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2025.03.22
これを読んで文句を言いたくなる人も多いと思う。だけど、その気持ちを乗り越えて読むと、商業ベースに乗る本を書く、あるいは出版社に書かせてもらうために、何が必要かが筆者独特の言い回しで表現されているとも思った。
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ばりクセな町田康節の裏に隠れるのは真摯な文章論。結局は多読と再読、結局は内容、結局は自分。「形式と内容」以降は金言がたくさんあり、再読するときはマーカーを引こうと思う。きっとすぐにでも再読する。
日頃大阪弁にふれない人は読みにくくてしゃあないこっちゃろうけど、まあしゃーないな。これが町田康です。そして、あなたは、わたしは。
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町田康の本初めて読んだ。関西弁いいなあ。木蓮が咲いている。なめとんな。ほだいくでおげあ絶対に出てこない言い回しだ。
よーい、エークション笑った。
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『ちからたろう』を1000回読んで文章の原型と世界観がつくられた、というところで、一気に引き込まれた。本嫌いだった私が珍しく数十回は読んだ本だったからだ。
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関西人に生まれてよかった、河内弁の呼吸が分かって良かった、と思う文章で、読んでいて楽しかった。自分の文章も含め、読んでいて行間から何かくさみが上がってくるなと思うことがある。その現象が気のせいではなく、なぜ起こるのかが克明に明かされていた。
文章の内容とは自分の中にある糸屑のようなゴミカス(心の錦)から湧き出てくるものという。いかにも関西人らしい、自分をあげることへの気恥ずかしさを感じさせる。なんだか照れながら大真面目、真剣な人だ。
ノリ、グルーブ、または文体と内容はお互に呼応しながら組み上げられていくものらしい。
文体、文章のいけずで迂回しながら書き上げなければ、基本、小説は2行、純文学は1行で話が終わるものというのは核心をついていてむちゃくちゃ面白かった。
女が死んでいた。
犯人はフナコシであった。以上。
その間をいかにいけずをして、読者を焦らしながら展開するかが小説。
純文学は人間の嘆きを描くもので、1行。
女に持てたい・女とやりたい
他の奴が出世して腹立つ
人が死んで悲しい
社会に不正や不平等が多くて腹立つ
もっと俺をフィーチャーしろ
あはは。
これを、迂回して文章で楽しませられるようにながながと書くのが純文学、というのは、いやー確かに。
純文学の定義をこれだけ明快に言い表した人に初めて出会った。
雑な感慨ホルダー、という概念も面白かった。
自然ていいよね
人工あかん
銭儲けあかん
心っていいよね
二項対立でもたれあい、世間一般に受け入れられている雑な感慨に自分の考えを、すべて収斂させて単純にものを見ていては、自分が本当にどう思っているか、感じているか、自分の真実は何かがわからない、という話。
以下抜粋。
ええなあ、と、あかんがな、が互いに無れ合いながら、ひとりで立つことがないまま補強し合うことによって、その外皮がどんどん強靱になっていく。だけどそもそもの根拠はきわめて雑、という雑な感慨が知らず知らずのうちに育ち、自分では精緻だと思っている考えの、その出発の地点で、まったくなにも考えずに事物・事象を雑な感慨ホルダに入れてしまっている、という事が、よくあるというか、殆どそうである、という事、そして、それが心の錦=言葉を動かす最初の力を弱めているという事について前に申しあげた。
このあいだ読んだ、現代思想の本のデリダの二項対立から離れたグレーゾーンを見ようという話がまさにこれで、哲学的な話を、こんなにもわかりやすく平たい言葉で紐解く手つきに感嘆した。
雑な感慨ホルダー、使いすぎないように気をつけよう。