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難解だけれどどうしても分かりたくなる!読み進めたい!と思わせてくれるのは筆者の丁寧な先行の哲学の精読と確かな(そして誠実な)筆力によるものと思います。ただ難解でとっつきにくい本と感じて読まないのはあまりにも勿体ない、難解だけれど確かに分かる・共感できる部分がたくさんある、哲学によって人を救済したいという真摯で優しい願いを不思議と感じられる書籍。
哲学用語や言語学の用語、概念など難しいところは検索したり調べたりしつつの読書となりましたがとっても有意義な時間になりました。
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言語学の「中動態」は自分の研究分野だったので、この本もずっと気になっていた。文庫になったのでさっそく入手。
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暇と退屈の倫理学に続き國分功一郎さんの本を読むのは2冊目です。が、又しても難解。こちらも最後まで読めるか分からないので、途中ですが、まとめていこうと思います。
まず、中動態と聞いた時に私は無意識のことか?
古文で言う『る らる 』の自発のことか?と思い読み進めましたが、また少し違うみたいです。
能動態は「主体から発して主体の外で完遂する過程」を表現し、中動態は「主語がその座となるような過程を表しているのであって、主語はその過程の内部にある」とのこと。
便利な中動態が無くなったのは意志と責任を結びつけたいという考えから。
こちらの対談を読んで、もっと理解が深まりました。
http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/
現在の医療現場での「意思決定支援」に代わる言葉として「欲望形成支援」を。
家族の大病に寄り添ってきた私にとって、これはとても納得させられる文章でした。
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2025年4月12日、グラビティのグラ友さんが投稿してた本。東大生。Amazonレビューに「障害者との接し方に迷っていて、この本にたどり着いた」といった記載があり興味を持った。
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「國分功一郎さんの『中動態の世界』を読んだ。
能動と受動ではない中動という世界。
そのなかで尋問する言語から人はどう自由になれるか。それはイントロダクションの薬物依存症者との架空の対話からも考えさせられることである。
一方が相手を動かすということ。
それは操作することでもあるだろうと思う。
非自発的同意という相手に嫌々であれ何かをさせるという例がある。
権力と暴力、主体と言語というトピックなどがあるが、自由と強制のあわいで私たちはどう言語と付き合うことができるのか、考えることのできる本。思想家についてもたくさん言及があり、そのなかで思想の甘みを知ることができる。」
●2025年5月26日、東京大学・書籍部にあった。
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難解
読んでいるうちに理解できるところと、もう理解を諦めて読み飛ばすところとがあった
中動態という動詞の考え方があることを知れたことだけで十分だと思うことにする
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かつて、出来事を描写する言語は、行為を行為者に帰属させる言語へ移行した。ここで、選択(プロアイレシスorリベルム・アルビトリウム)と区別される意志が、本来多くの要素の協働から実現される過程であるはずの行為を、ある主体に私有化させその責任を占有させることを可能にする装置として現れる。
名詞から非人称動詞が生まれ、非人称動詞から中動態が生まれ、中動態から、自動詞、自発、受動態が派生したと考えられる。ひいては、能動態も中動態から派生したと憶測することもできる。中動態と能動態が対立するパースペクティブは、やがて能動/受動のパースペクティブに取って代わられ抑圧されたが、現在の言語でも例外的なイディオムという形で、症候として存在している。
現在の能動/受動のパースペクティブは、行為の責任の所在を尋問する性質をもち、その責任をもたらす装置としての意志の存在を前提とする。ハイデガーは、このパースペクティブひいては意志の領域から脱却し、中動的な実存に自らを放下することを説いた。
ライプニッツは、深さたる実体を条件として表面に出来事を纏い、その出来事の効果の表現としてモナド=個体と発現するとした。それぞれの出来事が両立可能な状態で分岐し系列を成し、諸々の系列が収束した束として世界は発生する。
ライプニッツの論を「静的発生」とし、対してドゥルーズは「動的発生」を唱えた。この論では、動詞の不定法が名詞に優越する。ただし動詞は、行為ではなく出来事を表現する。ここでは、名詞の格変化(エピクロス派:原子の傾き)と行為、動詞の活用(ストア派:出来事同士の接合)と反応過程がそれぞれ結びつく。
スピノザは、神即ち自然を唯一の実体とし、実体が様々に変状して表現された様態として全ての個物が存在するとした。各々の様態は実体がどのような仕方で存在できるのかという副詞的な表現だといえる。ここでは、内的原因たる神がその結果である個物において自らの力を表現する。個物は絶えず他の個物から刺激や影響を受けて変状するが、様態のあり方はあくまで中動的である。個物の本質は変状する能力と定義でき、それを司る力としてコナトゥスがある。受動態、自動詞、再帰を内包する中動態のように、刺激を受けて変状しその変状の影響を自らも受ける。スピノザは能動/受動を行為の方向ではなく、個体が受ける刺激と力としての本質という、二つの変数の度合いに依存する変状の質の差として説明する。私に起こる変状が私の力としての本質を十分に表現するとき私は能動=自由であり、外部からの刺激の影響に変状を支配されるときそれは受動=強制である。コナトゥスの作用及び変状する能力の表現は一人一人異なる。自由意志の存在は否定されたが、本質を十分に表現する意味での自由は追求できる。世界が中動態のもとにあることを認識することで、自らのコナトゥスのあり方に思惟が及び、それを明晰に認識することで、強制から脱し自由への道が開かれる。
人は、身体ないし気質、半生ないし感情、歴史ないし社会などを背景に、完全に自由ではいられない。一方で完全に強制された状態にもなりえない。中動態の世界を認識することで、少しずつでも自由に近づくこと���できる。
補遺
善悪ではなく徳と悪徳によって社会秩序は保たれる。徳を司る法は責任の所有者として近代的個人の存在を前提とする。この意味での、能動/受動のパースペクティブに基づく責任は帰責性と言い表せる。対して、本来の意味での責任とは応答能力であり、行為の原因を個人の意志ではなく先んじる数多の刺激とそれに応答して起こる変状に求め、当事者研究的に中動的に分析することで立ち現れる。ギリシア悲劇において、応答能力としての責任は神的因果性に対応し、帰責性は人間的因果性に対応し、二つは混同せずレンマの状態で共存する。同様に、中動/能動(力としての本質、応答能力たる責任、行為のコミュニズム)と受動/能動(近代的個人、帰責性、行為の私的所有)も二律背反のまま共存しうる。
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受動態vs能動態の対立は、思っていたより私の思考にべったり貼り付いていたのだな…と思った。1番の原因はやっぱり英語教育かもしれない。「する」の反対は「される」であり、受動態の文は能動態の文で書き換えができるものなのだ、と。染みつきすぎているその当たり前から、読みながら少しだけ自由になれた気がする。
「なんだか理由が分からないけれどすき」なものってある。明確な理由は思い浮かばないけれど、なんとなくいつも選んでしまうもの、傍に居る人、足を運んでしまう土地。こういうものを敢えて説明しようと試みるとき、中動態という概念が必要なのかもしれないなー、なんて。両極に位置するものではなくて、質の差として考えた時の受動と能動のちょうど真ん中らへんの、心地よいところなのかもなー、なんて。
思いつきのこういった考察をこれから自分でブラッシュアップしていけたら楽しいだろうな。
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意志概念の問い直しと中動態の再発見
本書は、行為や責任を考える上で前提となる「意志」や「能動/受動」の概念を問い直し、古代ギリシア語の「中動態」を手がかりに、人間存在や世界の捉え方を見直す試みです。意志の曖昧さや、身体や思考における非意図的な動きを指摘し、哲学史における意志概念の変遷を辿ります。
動詞の態と文法論:能動と受動の起源
古代ギリシア語に存在した中動態が、能動態や受動態と並ぶ重要な概念であったことを示し、アリストテレスやアンダーセン、ベンヴェニストといった言語学者の議論を通して、能動/受動という区別が自明ではないことを明らかにします。日本語の動詞の「法則」も紹介し、動詞の態が言語によって異なる存在論的な枠組みを示すことを示唆します。
責任、同意、行為の主体をめぐる問題提起
責任の概念が意志によって基礎づけられることの問題点や、強制と自発の二項対立では捉えきれない非自発的な同意の存在を指摘します。アレントの議論を参照しつつ、政治的な生活における非自発的な一致の可能性や、「行為のコミュニズム」という考え方を提示し、当事者研究からの示唆を探ります。
権力と暴力の区別、スピノザ哲学における能動と受動
フーコーの権力論を導入し、暴力と権力の違いを能動と中動の対立で説明する試みを行います。また、スピノザ哲学における内在原因と外在原因、能動と受動の概念を解説し、自由意志を否定したスピノザの思想の中に、中動態に通じる概念が存在することを示唆します。
メルヴィルの『ビリー・バッド』の読解を通じた問い直し
ハーマン・メルヴィルの小説『ビリー・バッド』を読み解きながら、行為、意志、責任といったテーマを深く掘り下げます。主要人物たちの「思うように行為できない」姿を通して、人間が完全に「自由」ではないこと、様々な制約や影響のもとで行為していることを示唆します。
ギリシア悲劇における意志と責任の概念
意志の概念が存在しなかった古代ギリシアにおいて、人間がどのように行為の責任を考えていたのかを『オイディプス王』の例を挙げながら探求します。宿命と個人の責任という二律背反が共存するギリシア悲劇の世界観を通して、人間の行為を因果性と人間的因果性の共存として捉えることの重要性を説きます。
中動態の世界に生きるということ:新たな人間観へ
能動/受動という既存のイメージや意志の概念に疑問を呈し、中動態という新たな視点から人間存在や行為、責任を捉え直すことを試みます。完全に自由でも強制された状態でもない中動態の世界に生きるということの意味を考察し、「意志と責任の考古学」という副題が示す本書の意図を明らかにします。