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共感する内容が多い本だった。一つひとつの主張は他の書籍等を引用したものも多いが、あくまで著者の実体験と思索に基づくものだ。だから、各主張を正しい・間違っていると判断する本では当然ない。ただ、ビジネスパーソンとして経済的原理、課題解決思考を内面化した結果として鬱病を患い現在も病とともに日々を送る著者の実体験から紡ぎ出された一つひとつの問いと答え、そして思考の道程には、真偽はさておき惹かれるものがあった。と同時に、どこか言い表し難い読後感も残った。それは、自分自身がまさに経済原理を内在化した日々を過ごしているからであろう。
自由競争市場に求められる成果という「目的」への引力はあまりに強く、そのスピードはあまりに速い。現在に立ち止まっていることは許されず、常に未来志向が求められていく。そして、そのレールからの脱線には大きな不安とリスクがつきまとう。そうならないよう、絶えず努力を重ね、成長することで闘争し続ける──。
このような「強さ」はビジネスという OS にもはやプリインストールされているように思えるが、市場競争は「そういうゲーム」であり、これを自分自身に内在化させてはいけないと著者は言う。
リモートワークが普及したことで、「これからはワーク・ライフ・バランスではなくて、ワーク・ライフ・インテグレーションだ」という言説が聞こえて久しいが、ビジネスの論理を生活に内在化させてはいないだろうか。目的志向と非目的志向を、直線的時間観と円環的時間観を瞬時に切り替えることは至難の業である。次第にパラノ化する自己を客体化し、逃走線を確保することは、言うは易く行うは難しかもしれない。しかし、その困難さを受け入れながらも、意識的にシャットダウンしてみる。安易に統合させるのではなく、敢えて二項対立で闘争させてみる。そんなシニカルな態度が必要なのかもと思った。
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人には人の地獄がある。どれだけ選べる社会になっても、本当に肝心なものはいつまでたっても選べない。
「他のありえた自分」に思いを馳せることをやめないと「ここにいる自分」という偶然を引き受けないと、一回きりの、自分だけに固有の「生きる」が始まらない。
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メモ
能力は個人に属する(個人が所有する)「モノ」という間違った前提を出発点として、分けて、一方を善として、個々人に規範を内面化させていくというアプローチをやめる。(例:できる人、できない人に分けて、できない人にできる人を目指させる)
能力は関係性の中でその都度生まれる相互作用「コト」という前提で、「この人の内部リソースは、どんな外部リソースがあると活きるか」「いつ、だれと、どんな状況ならうまく働けるか」を問うアプローチに変えていく。
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理性は副産物
発揮できる状態を作っておく、その状態を作れるように考え、行動し癖付ける。
そもそも今ある状態を過去や未来と比較せず、受け入れこなす。
今のために生きる、偶然を待つことも仕事、プライベートで大事
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恵投いただいた『弱さ考』毎日一章ずつゆっくり読み終えた。生まれてから死ぬまで、「弱さ」について考えることなく過ごせる人は、幸いだと思う。
僕は井上さんと時を同じくして、同じ病で悶えていた。井上さんが描写する症状や焦燥、“解決”のための僅かな抵抗と絶望、過ぎていくだけの時間。とてもとても共感した。まさに人はそれぞれの地獄を抱えている。
読めない、書けない。ここまでの文章にまとめ上げるまでに井上さんが通過したであろう、闘争に畏敬の念を覚える。いくつもの風景や読書を超えて、ぐつぐつと煮込まれた思索。この一冊の本には、「弱さ」という立脚点から、いくつもの視点が埋め込まれている。
「弱さ」に含まれる豊穣で多角的な可能性は、僕がケニアで暮らす中でインストールした、一生涯大切にするであろう考え方ポレポレ(端的に言えば、ゆっくり行こうぜ)にも通じるものがあった。
生まれた場所も、たどったルートも違うけれど、わずかにオーバーラップする思索の軌跡にちょっとした感動を覚えたのだった。
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個人的にお世話になった方の著作。一歩立ち止まって深く思考を巡らすことで、これでもかというほど、日々自身が身を置いている企業/ビジネス環境に対する矛盾?が指摘されている。
改めて、人は往々にして手段と目的を混同或いは履き違える生き物と思う。評価のために人がいるのではなく、人材の成長のためのプロセスとして評価という試みがあり、会社のために人がいるのではなく、何か大きな目的を成すために会社という組織/枠組みがある。その主従がいつの間にか逆転し、評価されるための行動/対策・・・みたいなことになるので、話がおかしくなる。往々にしてこの本質(とまで呼ぶものでもないかもしれないが)を見失い、仕方がないという思考停止を起こし、終いには思考停止の中で自身に合理的な行動を取り続けることで、さらにその本質から遠ざかる。少し本書の本題と逸れるとは思うが、一貫して本書の中では「そもそもの本質は何か」と問われているような気がしたため、上記を記した。
あとはやはり人生の偶然性に関する指摘も深く頷かされるものだった。歳を重ねるほど、自分の人生の分岐がどこにあったか、そしてそれがいかに偶発的なものであったかを痛感させられる。だから偶然性に身を委ねていい、というわけではないが、少なくとも当時の自分なりに考え、意思決定を重ねることが、重ねたという実感が、今の自分を形成しているのだと思う。
改めて、本書を通じて何故本を読むのかを自身に問い直したいと思った。本質的に本を読むという行為は他者の視点や思考の幅に触れるものであり、決して自分の偏った主張を補強するための材料集めではない。現時点では、他者の思考に触れることによって少しでも柔軟になるために、調子が良い時も悪い時も自分や他者に意味付けができるように、そして(自分の場合は)不安を拭うために本を読むのだと思う。
特に印象に残った箇所は以下
・経済というのは、つまるところ「暮らしの集まり」でしかない。「暮らし」をいいものにするために経済があるのであって、経済を好調にするために「暮らし」があるわけじゃない(p.23)
・かつての傲慢な僕は「自分のあり方、考え方は自分で選んできた」と思い込んでいた。だけど、それは大間違いだった。人は、自分が思っているほどに自分の人生を選べていない。もちろん、社会的環境が人間のすべてをきめてしまうわけじゃない。ただ、僕は、大切な割に見過ごされがちな「社会が個人に与える影響」のほうを強調したい。あえて太くマーカーを引きたい(p.59)
・現在の手段化。それは、宮野の言葉を借りれば「未来のために今を使っ」てしまうことだ(p.95)
・努力って、本質的には不安に対するセラピーなんじゃないのか?未来がわからない不安を抱えたままの状態に耐えられないから、努力するんじゃないか?「努力」という、変化・成長と同じくヒトが好みそうにないものは、いつから当たり前になったのだろうか?(p.106〜107)
・結局、能力も成果も、個人と個人の「あいだ」で生まれるのだ。誰もが日々高めようとする能力を、僕たちは所有できない(p.121)
・「こうしたから、こうなった」という必然性の物語から、「こうでなかったかもしれないのに、なぜかこうある」という偶然性の物語へと身を移して、僕はやっと腹からわかった。「ひとつの原因」に「ひとつの結果」が対応するような一元的な因果関係なんて、嘘っぱちなのだ(p.202)
・「自立とは依存先を増やすこと」(p.260)
・人生には、どうにもならないことがある。だから、重要なのは自分を「課題解決」の対象にしないことだ。人生はビジネスじゃないのだから(p.288)
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自分が自分の人生、生き方をコントロールしてきた、コントロールしきれるという感覚は、幻想であり、自分から見える世界を単純な物語的に認識するしかない人間の癖でそのようになってしまう。
実際には、自分の現在地に至るまでには、さまざまな要因、可能性があり、その中で結果として現在の自分が実現している。
人に向き合う時、理性や自己コントロール能力の過不足、というフレームワークを単純に当てはめるということをしがちだが、実際には誰もが自己コントロールできないものに囲まれて生きている。
逆に、自己コントロールができない「しがらみ」のなかに自らをおき、その状況をじっくり感じるということも、大事。
自己コントロールも個人主義的成功も、歴史の中で物語として無意識に輸入されたもの。その価値観が全てではない。
一方で、経済で動いている世界に生き、抜き差しならないレベルでその恩恵を受けている上では、経済・ビジネス・成長のスパイラルから完全に離れることは不可能。できる範囲で、そこそこ頑張るということも必要になる。
自分がコントロールできること、自分にはコントロールできないこと、の中でその時々に応じてアクセルとブレーキのバランスをとっていくしかない。
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強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考
著:井上慎平
この本は「だから、世の中を変えよう」と煽りはしない。むしろ「世界を変えよう」「課題にぶつかったら、乗り越えよう」と全面的にケアする本でもない。弱さをケアする本は間違いなく重要だ。けれど、ケアを受けた人は、その後、再び強さを求められる世界に戻っていかなくちゃいけない。他のビジネス書が武器だとしたら、本書は、生身の人間が働くための防具だ。
本書の構成は以下の9章から成る。
①僕たちは、「強くなろう」とせずにいることがとても難しい時代を生きている
②強さを求めて、弱くなった
③成長のレースからは降りられないのか?
④なぜ「時間を無駄にしちゃいけない」と思ってしまうのか?
⑤能力主義って苦しくないか?
⑥「理想的なビジネスパーソン像」は強すぎないか?
⑦じぶんを責めすぎないために
⑧弱いままにどう生きるか
⑨弱さの哲学
誰しもが、大小違えど闇の部分を持つ。
闇を受け入れるのか、闇を払うのか。人それぞれにその対処法は違う。だからと言って、その闇への対処方法が書かれているわけではない。
本書には答えは書かれていない。
答えが書かれていないからダメではなく、答えがないことに対して、答えではなく、視座や新たな視点を提供してくれている。
後半は正直ついていくのに必死で読んでいたものの、読後感はすがすがしいものがある。何でも答えや結果を求めている自分に気付いたり、それもまた良しと思わせてくれるような、多くの考えを許容してくれる一冊。
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p39 地獄で学んだ3つのこと
理性は幸福の副産物
課題解決思考の問題点と待つの大切さについて
自分の中の上から目線
世の中には時間をかけなければ、待たなければ、絶対にどうにもならないことがある
p47 磯野真穂、宮野真生子 急に具合が悪くなる
p51 その日暮らしの人類学
p103 内面化
内面化とは、社会(外部)にあるルールや常識、つまり規範を、個人が自分の価値観として内部に取り込むプロセスのことだ。重要なのが多くの場合、本人は無意識に「みずからの意志でそうしているのだ」と思い込むということ。この社会に、時代に応じるために
p109 ニーチェ なんじらの勤勉は逃避である。自己を忘却しようとする意志である
カルバン派の人々は極めて勤勉に働いた。これだけ努力しているのだから、きっと救われる側の人間のはずだという安心感を得るために
p128 能力は個と個の間にうまれるのだ
p173 日本の歴史教育では、「個人の働きかけで世界が変わる」とは考えない。そうではなく、多様な原因が絡み合った相互作用の結果、ものごとが生じると捉える。よくも悪くもなりゆき的で個人が弱い
「みずからーーする」世界観のアメリカ。「おのずからーーなる」世界観の日本
p245 欠損と過剰にこそ人の魅力は宿る
p254 過去のできごとの意味は、事後的にくるくると反転し続ける。いまの「いいこと」が将来振り返ったときには「悪いこと」になりうるし、いま自分を悲しませているそのできごとが実は自分を救う転機だったと、いつか気づく日がくるかもしれない。出来事の意味は、永遠に確定しない
ます、「あなたが弱っているかどうか」だけに意識を集中し、確かめる。そして、もしあなたが弱り苦しんでいるのであれば、逃げるのだ。
おそらくは他の人以上に、あなた自身が強く「まだ大丈夫」と言うだろう。けれど、限界が近づくと、人はもはらクリアにものを考えられなくなり、「逃げるべきか」の判断すらできなくなる。逃げられるうちに、l逃げるのだ。
p255 もしあなたがここで逃げたなら、短期的にはきっとわることも起きるだろう。だが、それがいつまでも悪いことであり続けるかどうか分からない。逆にあなたがこころをすり減らしてまで何かを守ることがいいことなのかも長期的にはわからない。
未来のわからなさに託して、この瞬間を逃げるのだ。
まず生き延びること。いまあなたが迷惑と思う行為が事後的に「結果、よかった」に反転するかもしれないこの世界の「わからなさ」を握りしめること。
気休めじゃない。この世界のわからなさだけは誰にも否定できなのだ
p256
弱っているなら、今、逃げること。逃げて体力が戻れば、人はもう一度歩き始めることができる。しかし弱いまま働き続けると、いつかその足は止まり、その場にへたり込んでしまう。そうなると、立ち上がるには、数ヶ月、数年かかる。一生ものになることもある。早めに逃げるからこそ、早めに立ち上がることができる
それで助かるのは、決してあなただけではない
p274 落語とは、一口にいって「人間の業の肯定を前提とする一人芸である」といえる 談志
忠臣蔵
落語は違うのです。討ち入った四十七士は及びではないのです。逃げ残りの人たちが主題となるのです。そこには善も悪もありません。良い悪いもありません。ただあいつは逃げました、彼らは参加しませんでしたとこういっているのです。つまり、人間ってのは逃げるものなのです。そしてその方が多いのですよ。そしてその人達にも人生があり、それなりにいきたのですよ。とこういっているのです。こういう人間の業を肯定してしまうことに、落語の物凄さがあるのです。
p282 だから、人間に多くを求めてはいけない。僕が求める最低限のことは「誰もが、偶然のなかで選べない人生を生きてきたことを認める」、それだけだ
p287
人には人の地獄がある。家庭であれ、自分であれ。どれだけ選べる社会になっても本当に肝心なものはいつまでたっても選べない
世界は残酷で、人は愚かだ。僕は、この「生きる」のコントロールのできなさを、ままならなさを、自分の世界観の出発点と定めて生きていくと、そんなふうに勇ましく思う日もあれば、考えてもしょうがないことばかりをクヨクヨと考えて終わる一日もある。
p287 ただ、最近気づいたことがある。「他のあり得た自分」について思いを馳せることをやめないと、「ここにいる自分」という偶然を引き受けないと、1回きりの、自分だけに固有の「生きる」が始まらない。
「引き受ける」は、「受け入れる」とはすこし意味が違う。こんなの理不尽だ、自分のことが嫌いだという思いは消えないままに、消そうともせずに、その理不尽を背負って生きていく姿勢が「引き受ける」だ。あまり重たい言葉として受け取らないでほしい。僕達は、「こんな自分はいやだいやだ」と、死ぬまで子どものようにだだをこね続けていいのだ。
人生には、どうにもならないことがある。だから、重要なのは、自分を「課題解決」の対象にしないことだ。人生はビジネスじゃないのだから
明確な理由もなくやってきた理不尽。過去として確定し、自分の構成要素になってしまった傷。それはあなたが選んだものじゃない。残酷な偶然でしかない。そのことを十分にわかったうえで、いまここで「他のありえた私」を断ち切れ
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著者がまだ病気のただなかにあるせいもあって本全体のまとまりはない。心からの呻きや後悔が繰り返されていて辛かった。自分も遠い昔に同じようにパンクして逃げ出してしまった。パニック障害を発症してああするしかなかった。あれか30年、呻吟する毎日。
将来からの逆算ではなくいま目の前の一つ一つと向き合いながらという著者の主張に共感する。
日本人は多くが農耕の遺伝子で毎年同じところをぐるぐる回っていた子孫なのだから、学校出てから40年も常に成長というのは特殊な人しか無理なのではないかと思う。