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バカの壁
2010/03/24 11:43
本=タイトル、人間=表情、両者とも中身は評価に連動しない。これも「バカの壁」か?
39人中、24人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トム君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
こんな本が400万部超も売れたというのだから驚きである。内容を仔細に見れば、これは100万人以上の共感を勝ち得るような本ではない。むしろ特定少数のアッパーな人(東大等超一流の国立大学を卒業し、頭脳明晰で高い教養を積んだ秀才で金持ち)以外、多くの人は反発を覚える内容ばかり書いてあるように思えて仕方がないのである。辛口の批評で知られたコラムニスト山本夏彦の大ファンである私には、養老さんのコメントは、ほとんど山本夏彦が言っている内容と瓜二つに思えた。例を挙げると、「二軍の選手がイチローの10倍練習したからといって、彼に追いつけるようになるものではない。私たちには、もともと与えられているものしかないのです」と養老さんは言う。これって、山本さん流に言えば「ロバが旅に出たからといって、馬になって帰ってくるわけではない(だから凡百の阿呆どもがいくら海外旅行したって何も学ばないし何も理解できないで終わる。故に日本人の大多数にとって、海外旅行はムダである)」と言うことになるし、「分際を知れ、分際を」という罵声にもつながる話だ。しかし、私たち「巨人の星」を見て育った昭和の人間は「アメリカ人も日本人も同じ五本の指でボールを投げている。大リーグの人間に出来て日本人に出来ないはずがない」という努力至上主義を信じて研鑽を重ね、ここまで偉大で豊かな国を作り上げることに成功したのだ。養老さんの大脳決定論は、一歩間違うと、「人種決定論」に変化し、「所詮すべての文明は神にもっとも近い存在=白色人種が生み出したのだ。白色人種は文明を創造し人類を主導する崇高な使命を神から与えられているのだ。黄色人種や黒人土人は、所詮、いくら努力しても白人様には敵わないのだ」という人種差別にショートカットしかねない危険性を持っている。こんなこと、養老さんの文章を読めば、すぐに鼻についてくるはずなんだが、多くの人は、この点に気がつかなかったのだろうか。養老さんは別のところで「猫も杓子も学習塾に子どもを通わせて進学熱が高まっているそうだが、あんな無駄なことどうしてやるのか。バカな子はいくら詰め込んでも利口にはならない」とも書いていた。こんなこと言われて多くの読者は平気なのだろうか。不思議だ。
また養老さんは、脳の研究の重要性を繰り返し説く。基本的にはすべての国民の脳の構造をまず徹底的に調べてデータベース化し、次に異常犯罪者や精神疾患者、殺人犯、例えば宮崎勤の脳を徹底的に調べてその特徴を洗い出せば、もしかすると今後、類似の犯罪を予防することが出来ると養老さんは説く。人間の脳を類型化すれば、そこから「あなたはキレやすい衝動殺人を犯しやすいタイプ」「あなたは快楽殺人を犯しやすいタイプ」「あなたは連続殺人を犯しやすいタイプ」等の分類が明らかになるので、タイプ別に指導教育を施せば、より円満な社会が構築出来るかのように養老さんは提案する。しかし、これって神をも恐れぬ所業と私には思える。これも一歩間違えるとナチスドイツ顔負けの優性医学思想をダイレクトに社会に適用し、不具者を社会から駆逐するという思想に迷い込みやすいと私は恐れるのである。こういう極端な思想を平然と養老さんは垂れ流すのである。
それなのにどうして「こんな本」が400万部超も売れたのか。答えはタイトルにある。「バカの壁」というタイトルこそが、本書の売れ行きを決定付けた唯一の理由であり、それ以上でもそれ以下でもない。本書に書いてあることを仔細に知れば、多くの読者は本書を投げ捨てたことだろう。本の売れ行きは中身とは関係ない。タイトルで全てが決まるのである。同様のことは養老さん自身にも言える。これだけ辛らつで厳しいコメント、突拍子もなく危険な発想を垂れ流す養老さんは、別に個人的に批判もされず、マスメディアからも追放されず、いまだにご意見番としてテレビや雑誌に登場し続けている。こんなに弱者を見下した意見の持ち主が、どうして大衆に受け入れられ続けているのか。その理由は、ひとえに養老さんの表情にあるのではないかと私は疑っている。養老さんの口から出たことを文字にすると、読みようによっては実に辛らつで救いがなく危険なことを言っているように思える。しかし、その危険な差別思想を、養老さんは常にニコニコニコニコしながら楽しげに語るのである。あの独特のイントネーションとリズム、周波数とニコニコ顔に大衆は騙されているのではないか。非常に辛らつなことを言われているにもかかわらず、養老さんのニコニコ顔を見ると「ありがたいお話」に聞こえてしまうのではないか。脳科学を知り抜いた脳学者養老孟司は、もしかするととんでもない極悪人で、人間の脳のメカニズムを悪用して、大衆を欺いているのかもしれない。少なくとも養老さんと同じことを舛添要一が目じりを吊り上げて早口でまくし立てたら、彼は即日マスコミはもちろん日本社会からも永遠に追放されてしまうのではないか。人間の評価で一番重要なのは中身ではない。それが他人にどう映るかである。その点において表情というのは極めて重要なファクターなのである。
一冊100円とすれば、これで養老さんの手元には4億円超の印税が転がり込んだことになる。65歳を超えた老人に4億のカネは使いきれない額である。これをわたし続けるのを養老さんは「強欲」と決めつけ、「欲をかくのは良くないというのが仏教の教え」と本書にも書いているので、それが養老さんの信念なら、使いきれない印税を養老さんは寄付するなり寄贈するなりするはずだ。本書の印税で稼いだアブク銭を養老さんがどのように処分しているのか、是非、知りたいところである。
厳しいことばかり書いてきたが、私は基本的に養老さんの発想が好きだ。特にキリスト教やイスラム教のような一神教は、要するに「自分だけが正しい」「真実はひとつ」という強烈な思い込みを具現した危険思想であり争いの元であるという考えに私は200%同意する。「真実はひとつではない」「それぞれに言い分がある」「喧嘩両成敗」を旨とする日本の発想が世界を平和にするうえで、案外ユニバーサルな可能性を持っているという養老さんの発想に私は「我が意を得たり」と膝を打つのである。
バカの壁
2003/05/03 23:11
「壁」を打ち壊す論考
8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:北祭 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は近年、『唯脳論』以来の本格的な論考の書ともいうべき『人間科学』なる書を出した。その書では、現代の自然科学には物質・エネルギー系の他にもう一つの概念である「情報系」が必要なのだと説かれている。人間とはまさに情報のかたまりであるが故、情報系としての人間を知る科学こそ、現代科学となりうることを提唱している。自らを知れ、と。
本書は、「自らを知る」という壮大な思索の弊害ともなろう、人の理解力の限界や自ら設けてしまう理解の「壁」を大胆にも「バカの壁」と称し、この世の人の営みに見られるバカな所業の根源がその「壁」にあるのだと語る独白集である。
例えば、「自分は変わらない」という思い込み、これも一つの「バカの壁」である。私は私と自我を固定した瞬間から、自らの周りに壁が出来る。
<バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。P194>
私利私欲の蛇と化す個人主義、他人の気持ちを分かろうともしない絶対的な原理主義はここから芽生えるといえよう。その弊害たるや計り知れない。著者は、この種の恐るべき「バカの壁」を打ち壊す論考として、第四章において「万物流転、情報不変」と銘打ち、「知る」ことは「死ぬ」ことであると謳う。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。学問をして何かを知ると、知る前の自分は死んで生まれ変わるのだという。人は何かを知って生まれ変わり続けているのだと。そうあらねばならない、との思いが伝わってくる。この著者の考えには、虚を突かれた。本来の「知る」ことの持つ意味は然様に深い。
本書を読み終えたとき、ある種の爽快感を感じた。なにほどか自分が「生まれ変わりつつある」ことの証なのだと、そう思いたい。
バカの壁
2003/07/16 13:48
親の気持ちがわかるか?ホームレスの気持ちがわかるか?
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hisao - この投稿者のレビュー一覧を見る
一昔前一世を風靡した“唯脳論”等でマスコミでも著名な 脳生理学者 養老孟司先生が又また ベストセラーを出しました。
現代人(都会人)の思考停止状況、あべこべ状況を 現代人が張り巡らす“バカの壁”から説明しておられます。
五感から入力して運動系から出力する間 脳は何をしているか?
入力をX、出力をYとして Y=aX と言う簡単な1次方程式を導きます。
脳の中で a と言う係数をかける訳です.
a の値がゼロの例として オヤジの説教や上司の注意を聞き流すバカ息子、a の無限大の例としてオウムかぶれのバカ青年や原理主義者が上げられます。
平たく言えば a は適応性、賢い脳とは適応性ある脳の事のようです。バカな脳とは外界から切り離された自給自足型の脳のようです。
バカの壁の起因とも言える一元論的物の見方に警鐘を与えます。
都会人の脆弱性、自然発生的多神教に対する都市宗教として発達した一神教等を例示して、一元論的見方の限界に迫ります。神様を引っ張り出し一元論で割り切るほうが楽です、思考停止状況は気持ちの良いものです。
しかし 今 必要とされるのは“人間ならこうだろう”と考える極めて常識的な考え方だと主張されます。思考停止に変えて 崖を1歩登って見晴らしを少しでも良くしようじゃないか、それが生きている事の意味だと言われます。
大分前になりますが 新聞の小さなコラムに養老先生が“企業にとって必要なのは競争心豊かな個性的人間だろうか、それより相手の事を思いやる協調的人間じゃなかろうか”と言う風な事を書かれていて 成るほどと思った事があります。
企業の本質に迫るものです。極論すると金太郎飴やマニュアル人間が欲しくなりますが、そんな没個性ではなく 一言で言えば“人の気持ちが解る”人間を欲し養成するのが企業であり社会です。
だから 養老先生の言う思考は 思考の堂々巡りではありません、身体運動を通して学習する 開かれた思考です。バーチャルな思考の無毛性、弊害を排します。
“若い人への教育現場において お前の個性を伸ばせなんてバカな事を言わないほうがいい、それより親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかという風に話を持っていくほうが余程まともな教育じゃないか”と言っておられます。そして分かるという事の意味を 身体運動との関係として極めて実践的に捉えられています。企業で言えばあくまで現場密着型の開かれた脳こそ要求されます。
脳は社会生活を普通に営むため“個性”ではなく“共通性”を追求します。
まさに そのように人間は作られています。
そして 個性はもともと誰の身体にもあるものとして イチローや松井、中田選手等天才の脳と身体運動の興味ある話が語られます。
外界に適応して人は変わります。今日の私は昨日の私ではありません。
変わらないのは生み出された情報です。其処のところを現代人は勘違いしている。
脳化社会になって脳が一人歩き、頑固に情報から自分の独自性を守ろうと思考のぐるぐる回し、観念論の袋小路に自ら追い込んでいる。欺瞞に満ちたクソ個性が横行する社会への科学者としての根源的怒りを感じました。
その他 科学論、共同体論、身体論、無意識論等 さすが面白いお話が展開されています。