- みんなの評価
9件
コンスタンティノープルの陥落(新潮文庫)
著者 塩野七生
東ローマ帝国の首都として一千年余も栄えたコンスタンティノープル。独自の文化を誇ったこの都も、しかし次第に衰え、15世紀後半には、オスマン・トルコ皇帝マホメッド二世の攻撃の前に、ついにその最期を迎えようとしていた――。地中海に君臨した首都をめぐる、キリスト教世界とイスラム世界との激しい覇権闘争を、豊富な資料を駆使して描く、甘美でスリリングな歴史絵巻。
コンスタンティノープルの陥落(新潮文庫)
ワンステップ購入とは ワンステップ購入とは
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
コンスタンティノープルの陥落 改版
2023/05/09 09:51
東ローマ、最後の砦
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トマト - この投稿者のレビュー一覧を見る
巨大ローマ帝国が分裂し、東西ローマ帝国になった。西ローマは早々に滅亡してしまったが、東ローマであるビザンツ帝国が生き残りをかけての戦いが描かれています。そこで何が起きていたのか?興味深く読ませていただきました。
2023/01/01 01:01
トルコにも信長みたいのがいた!
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:future4227 - この投稿者のレビュー一覧を見る
2022年最後の読了本。日本では応仁の乱のほんの十数年前の出来事。トルコ帝国のマホメット2世は織田信長に似ている。大砲をメインにした戦法で、その後の西洋の戦法や築城法に革命を起こした。従来の慣習にとらわれず、合理的な思考で戦いと統治を拡大していく21歳の王。懐柔策は使わず、逆らう者には一切容赦をしない。地中海一堅固な三重城壁を持つ都市と世界最大の大砲で攻めるトルコ。更に70隻もの艦隊を山越えさせるという奇想天外な戦法。攻守双方が知恵と勇気を振り絞った後世に語り継がれる名勝負ということがわかる。
コンスタンティノープルの陥落 改版
2022/05/07 02:28
これはまるで大坂夏の陣(1615年)
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
「女司馬遼」塩野七生氏の本は久し振り。確かな史眼と見たように描く圧倒的描写力で1453年のコンスタンティノープルの陥落を描いた本書もまた、大変読ませてくれました(特に後半)。それにしても、もちろん状況や細部は異なるにせよ、事象の全体状況や人間模様、戦いの推移やさまざまな挿話などなど、(私見に過ぎませんが)豊臣家が滅びた大坂夏の陣に似ていることに驚愕しました。また、個人的には、「ギリシア正教会とカトリック教会の再合同」(27頁)にかかわる記載部分も参考になりました(45頁、47頁、49頁、63~4、217~8頁など)。
「395年、テオドシウス帝は帝国を東西に分割して2子にわけ与えた。コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は都市経済が比較的健在で、その後1453年まで続いた。しかしローマを首都とする西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で混乱をきわめ、ついに476年、ゲルマン人傭兵隊長オドケアルによって西ローマ皇帝は退位させられ、ここに西ローマ帝国は滅亡した。」(『詳説世界史』(山川出版社、2016/3/5発行版)46~7頁)
「超現実的なことにすがりつく者は、他の超現実的なことに心を乱されずにはすまなくなる。」(209頁)
「ギリシア人をはじめとするギリシア正教徒の根強さは、国を救うためならば宗教上の妥協はいたしかたないとしたイシドロスの考えよりも、信仰の純粋と統一を保つためには、国が滅びることさえ甘受するとしたゲオルギオスの考えのほうが、正しかったことを証明してはいないであろうか。狂信を排する立場からすれば暗澹たる気持にならざるをえないが、理(ことわり)よりも、それを排した狂信のほうが、信仰の強さを保ちつづけるには有効である例が、あまりにも多いのも事実なのである。ただ、トルコ支配下のギリシア正教徒は、殉教の喜びをより重視して猛獣の餌食になった初期キリスト教徒や、踏み絵をこばんで死んでいった日本のクリスチャンとはちがって、信仰にとって重要でないことは妥協し、他はただただ耐えつづけることで、彼らの信仰を守りぬいたのであった。回教徒ではあっても、宗教上のことでは、トルコ民族は寛容であり、ゲオルギオスはそれを、鋭くも見ぬいていたのであろう。」(253~4頁)
「大砲という新兵器の出現は、頭から足の先まで鋼鉄製の甲冑で身を固め、戦いのプロとしての誇りに生きていた中世の騎士階級を、完璧に役立たずの地位におとすことにもなった。」(275頁)
それにしても、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)皇帝 コンスタンティヌス11世は見事な戦死と豊臣秀頼の最期との対比は印象深い。なお、119頁の「追求」の語は「追及」の誤植であろう。(こんなの早く訂正しないとねぇ。)