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11件
そうか、もう君はいないのか(新潮文庫)
著者 城山三郎
彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分に襲われる――。気骨ある男たちを主人公に、数多くの経済小説、歴史小説を生みだしてきた作家が、最後に書き綴っていたのは、亡き妻とのふかい絆の記録だった。終戦から間もない若き日の出会い、大学講師をしながら作家を志す夫とそれを見守る妻がともに家庭を築く日々、そして病いによる別れ……。没後に発見された感動、感涙の手記。(解説・児玉清)
そうか、もう君はいないのか(新潮文庫)
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そうか、もう君はいないのか
2010/09/15 08:43
父が零した涙
18人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
夫婦にはふたりにしかわからない世界がある。家族にもその家族にしか共有できないものがある。人それぞれに他人にはいりこめない世界があるように。だから、連れあいを喪ったものの哀しみは、どんなに推し量ったとしてもわからないのかもしれない。
春に妻、私にとっては母だが、を失った父を見ていると、父の哀しみはどんなに深いのだろうと思う。それは母をなくした子の哀しみともまったく別のものだ。
父と母は、夫婦であった。子供もしらない、二人だけの世界をもっていた、夫婦であった。
なくしたものは片手でも、片足でもない。ともに生きた記憶であり、同じようにときめいた鼓動だ。
夫婦とは、そういうものなんだろう。
経済小説の第一人者だった城山三郎さんが愛する妻容子さんの死後、書き綴った手記は、そんな夫婦の姿を情愛と愛惜の感情で描く。
二人の出会いは運命的であったといえる。偶然休館だった図書館を訪れる二人。しかも、彼女は本に興味があったというよりも時間つぶしのために来たという。本を読まない人が図書館を訪れる確率などそう多くはないはずだ。どんな純愛小説よりも物語的である。
そうしてできた夫婦という形。城山さんも容子さんも、そういった素敵な出会いを生涯大切にしてきたのではないだろうか。
最愛の妻に突然襲った病魔。しかもガン。城山さんはこう綴る。「最愛の伴侶の死を目前にして、そんな悲しみの極みに、残された者は何ができるのか。私は容子の手を握って、その時が少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであった」
この文章を目にしたとき、私は母の病室に連日通いつめた父の姿を思った。
病室にいてもほとんど会話することのなかった父だが、余命宣告を受けた母のそばにいて、何を祈っていたのだろう。
こんなことがあった。ある日、母の好物をいただいたことがあった。それを病室の母に食べさせたいと父は一人、病院に向かって歩きだした。老いた父にはけっして近くはない距離だったが。
勝手に一人で行ってはいけないと叱る息子に、「食べさせてあげたかった」と父はちいさく泣いた。
城山さんのような文才もない父だが、その涙は城山さんの死にいこうとする妻への思いと同じであったにちがいない。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。
そうか、もう君はいないのか
2010/11/02 06:23
しっとりと、ずっしりと胸に残る「何か」。没後に発見、まとめられた妻との出会いから別れまでの回想録。
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:月乃春水 - この投稿者のレビュー一覧を見る
経済小説の先駆者として知られる作家・城山三郎氏の死後に見つかった、妻・容子さんとの出会いから別れまでを綴った回想録。
没後、主なき仕事場には、ロシア語で「ヨウ」と発音する記号が付けられたメモや原稿の断片が点在していたそうです。その未完かつ、欠落、順不動のままの原稿がまとめられたのが本書とのこと。
次女の井上紀子さんによる『父が遺してくれたもの─最後の「黄金の日日」』と、俳優・児玉清さんの解説。すべてをあわせてひとつの作品になっているように感じました。
終戦から間もない頃の出会いから、病いによる別れまでが描かれていますが、いちばんはじめにあるのは、ある日の講演会でのエピソード。
話しはじめる直前に二回席最前列の端にいる妻の容子に気づき、目と目が合った瞬間、容子は両手を頭の上と下に持ってきて、ふざけた仕草で「シェー!」
怒りたいし、笑いたい。「参った、参った」と口走りたい。そこをこらえて話だし、なんとか講演を終えた、と。そのシーンが目に浮かぶようです。
そして、講演後はふたりでタクシーで銀座へ。
さらに、夕食の席で一緒にテレビを見ているときのエピソードにつながります。
人工衛星の利用法として、遺骨を積んで飛行し、ぐるぐる地球を廻る、文字通り、天国で永眠させるプランができた、というアメリカのニュースが流れる。
「お願い。あなた、決してあんな風になさらないでね」
「どうして、そんなことまで心配するんだ」
「だって、あなた、飛行機とか、空を跳ぶことが好きだから。きっと、亡くなった後も、空から私を見ていて、『あっ、また銀座か』なんて……」
「よし、よし、しないよ。第一、あんなの目が廻りそうで、かなわないな」
「ああ、よかった」「大丈夫。監視されなくとも、決して無駄な買物はしませんから」
容子さんのちゃめっけのある魅力的な気質、普段の良妻賢母ぶりがあらわれています。
そして、4歳違いの夫を先に見送るであろう、というごく普通の予測、とはいわないまでも年の順、と思っていることもわかります。
「夫より先に」と願う妻は、あまりいないのではないかと思いますが(ひとり残すのは心配で)、容子さんもそのように思っていたのではないでしょうか。
後に残された夫の姿は、想像するに堪えません。
その他、ふたりのエピソードはこころ温まるものが続いています。
名古屋の図書館前での出会い。再会を約束するも「もう会えません」という一方的な別れ、その後、劇的ともいえる時をおいての再会、そして結婚。
大学講師から、本格的に小説に取り組むようになり、『輸出』により『文學界』新人賞を受賞。
ペンネームを伝えていなかったので、受賞を知らせる電報に「シロヤマ?うちにはそんな人いませんけど」と応えたというエピソード。
名古屋から、茅ヶ崎への引っ越し。
容子は私のパイロット・フィッシュ役、と、道場見学や講義に放つ。
取材などの旅に「来るか」と問われればいつでも「行きます」。理由は「だって、家事しなくていいんですもの」という名言。
オーロラを見るために出かけたときは見られなかったけれど、別の旅で飛行機から見ることができた、その時の様子。
短い文章ひとつひとつのの中に、このような印象的なエピソードが詰まっています。
結婚して三十年ほどが経ち、子供たちは独立。夫婦二人だけの初めての暮らし。
『人生の一区切りがあって、夫婦二人になるという気分は、良くも悪くも、独特なもの。しかし、いつか二人きりでいることにも慣れてしまえるが、やがて永遠の別れがやってくる。』
月二回の検診を受けていたので、まさか重い病気が進行しているとは思いもせずにいたけれど、あまりに疲れている様子。別の町医に行くと、一刻も早く精密検診を受けるように、と警告される。
ほぼ一日たっぷりかけての検査から帰って来たときの、癌が呆れるような容子さんの明るい唄声。「大丈夫だ、大丈夫。おれがついてる」と抱きしめる姿。胸に迫ります。
癌と分かってから四ヶ月、入院してから二ヶ月と少し。
亡くなる直前、ニューヨークに戻る息子と別れのシーン。容子さんのフィナーレに笑い泣きしてしまいます。
亡くなってから、ふと話しかけようとして「そうか、もう君はもういないのか」と、なおも容子さんに話しかけようとする。
このことばがタイトルとなっているこの本。
パートナーとの関係を考える人、永遠の別れが想像もつかない(ほとんどすべての)夫婦やカップル、これから生涯のパートナー、伴侶と出会う、という人に、しっとりと、ずっしりと胸に残る「何か」を示してくれる一冊です。
<ブログ> 産後の読書案内(本のことあれこれ)
そうか、もう君はいないのか
2010/08/07 21:02
伴侶を愛することの大きさ
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mayumi - この投稿者のレビュー一覧を見る
方翼を、半身を失うということの切なさに涙した。
経済小説、歴史小説家の城山三郎の妻との出会いと、別れが、淡々と描かれている。いや、初めてあった妻を「妖精」と書いてたりするので、淡々というのはまた違うのかもしれない。が、やぱり色合いは、淡く、静謐だ。
彼が、多少の後悔はあるにしても、妻を愛しきったというプライドがそういう色合いにさせているのかもしれない。
巻末の次女の寄稿がさらに涙を誘う。
「死は、生の対極にあるのではなく、内在している」というのは、村上春樹の「ノルウェーの森」にあったと記憶している。
内在しているものだからこそ、それを精一杯受け入れる姿勢こそ、よく言いきるということなのかもしれない。